5人目の漂流者
曇り空の中、狭い浜辺に青年が倒れている。
青年の腕には黒いタトゥーが掘られている。豪華な柄で3本その手をブレスレットのように彩っていた。
月明かり程度しかないため、色彩には随分と乏しい。青白く淡い光がほとんどを灰色に染めてしまっている。
砂を踏む音とともに少女が近づく。
少女というには、若干大人びているが、女性というには幼い。
そういう訳で、少女と呼ぶことにしよう。
青年の腕を見て少女は、はぁと軽くため息を吐いた。
辺りは暗く、とっくに夜は深い。
少女が青年に手を伸ばすと、一陣の風が吹く。
砂がはらはらと舞い上がり少女の視線を霞ませた。
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「……っ、?」
青年は無機質にベッドが並ぶ白い部屋で目を覚ました。
白い天井が視界一面に広がっている。
衣擦れの音を立て、理由も分からず重い身体を起こした。
「あら、起きたのね。」
「っ!?」
どうやら部屋にいるのは青年1人ではなかったらしい。
青年が寝ていたベッドの脇に置かれた椅子に、肩ほどで切り揃えたショコラブラウンの髪を揺らす少女がいた。
どうやら本を読んでいたらしく、閉じられた本は少女の膝に乗せられていた。
「貴方に危害を加えることはないわ。安心して。」
青年を落ち着かせるために紡がれた言葉に反して、その声色はどこか冷たさを持っていた。
特に感情の篭っていない瞳が青年をじっと見つめる。
「……あの、僕、……」
青年はそこまで言って口を閉じた。
何とか続きの言葉を探すが、状況も分からない上に自分のことも何一つ分からない。
名前さえも、一文字たりとも思い出せなかった。
一体自分はどうしたのだろうか。
そんな疑問ばかりが青年の頭には浮かぶのだ。
「痛むところはない?」
「え?」
「貴方については後で詳しく聞かせて貰うわ。今はとにかく貴方の安否の確認よ。」
少女は大した返答も出来ない青年に対して全く腹を立てる様子もなく、椅子から立ち上がった。
少女は本を座っていた椅子に置き、着ていた侍女服を軽く整える。
「大丈夫そうなら、食事を用意するわ。」
「あ、大丈夫、です……?」
「そう。何か要望はあるかしら?」
「特には……」
「分かったわ。私は少し離れるけれど、貴方はここで待っていて。ここを出て迷われると探すのが手間だから。」
「はい。」
少女の声色は一切変わらず、この部屋同様に無機質であった。
表情もその口がうごかなければ、その容姿の美しさも相まって人形のようだ。
青年は少女の無駄のない言葉の羅列にただ気の抜けた返事を返すことしか出来なかった。
少女は青年の返事を聞くと部屋を出ていった。
程なくして、外が騒がしくなる。
何と言っているのかは分からないが人の声のようだ。
中々に激しい言い争いのようだが、内容はやはり分からない。
……っ、……!
言い争う声がつづく。
荒々し足音は青年のいる部屋に近づいていた。
ど、どうしよう?
僕はここに居てもいいのかな?
でもあの子は、ここに居るように言ったし……
青年の逡巡も間もなく、部屋の扉は開かれた。
バン!と大きな音を立て扉は全開に開かれ、壁にぶつかりそうになる。
「だぁかぁら!しょうがないじゃん!あそこで避けなきゃ怪我しそうだったんだからさぁ!」
「知るか!後ろに俺がいるって分かってたんなら、言えよ!!」
「そんな暇なかったの!!」
「じゃあよけんな!!」
「そしたら僕が怪我しちゃうでしょぉ!」
「すればいいだろうが!なんでお前の不始末なのに俺が怪我しなきゃなんねぇんだよ!」
現れたのは、紫艶の髪をした少年と紅い髪の青年だった。
どちらもボロボロだが、紅い髪の青年は特に酷く、左腕から血を流しており、床に血痕を残している。
特に匂いもなかった部屋に血の香りが漂った。
2人は、ベッドに座る青年には気づいていないのか、尚も言い争いを続けている。
騒々しいことこの上ないとはこのことだ。
どうしたものか、と青年が戸惑っていると、部屋の外から聞き覚えのある声が僅かに届いた。
「またなの。」
あの少女の声だ。
その認識の後、2人の騒々しさなど掻き消される轟音が響き強い風が吹いた。
うわぁ!と紫艶の少年の声、おゎ!と紅い青年の声がして、ドン!と大きな音を立て紅い髪の青年が扉の向かい側の壁に叩きつけられる。
「ってぇぇ。」
青年は頭を抑えてうづくまる。
血は出ていないが、相当ない痛みがあったらしい。
「うわぁ、いたそー。」
立っていた場所が良かったのか少年の方は吹き飛ばされはしなかったようだ。
「うるさいわよ。ここは病室だと何度言ったら分かるのかしら。」
「だからって吹き飛ばすことねえだろ!アデル!」
アデル……恐らく少女の名前だろう。
「言葉では再三注意したわ。それでも言うことを聞かなかったのだから仕方ないでしょう。」
少女は咎める視線を青年に向け言い放った。
「だとしても!なんで俺だけなんだよ!アイツも一緒だろーが!」
青年は騒いだことに関しては認めたようだが、自分だけ吹き飛ばされたことは納得出来ないようだ。
「そんなこと決まっているでしょう。ノアと貴方では頑丈さが違うからよ。」
「はぁ!?」
ノアと呼ばれた少年はくすくすと笑っている。
紅の青年はそれに気づき睨みつけた。
「ノア、貴方はしばらく屋敷の掃除をしてもらうわよ。」
「えぇ!?だったら僕も吹き飛ばされた方がましだったじゃん!」
「あら、骨が折れてもいいなら今からでも吹き飛ばしてあげるわよ。」
「……遠慮しとく。」
「ざまぁ。」
「うるさい!」
「貴方達、騒々しいことで怒られたのを忘れたの?」
「「ごめんなさい。」」
アデルの言葉に2人は食い気味に謝罪の言葉を発し、頭を下げた。
その姿を見て名も分からない青年は笑ってしまった。
堪えようとはするが、どうにもおかしさが込み上げてきて、ふっ、と吹き出してしまう。
「あら、貴方達笑われているわよ。」
アデルは揶揄するような笑みを彼らに向ける。
当の2人は何とも居心地の悪そうな表情で顔を背けた。
「まぁ、彼の緊張を解くには良かったのかもしれないわね。」
それを聞いた2人はアデルの方を嬉しそうに見る。
「褒めた訳では無いわよ。ノアはロイの手当てをしなさい。終わったらロイは自分の血を掃除しなさい。」
2人は、うっ、とまた顔を背けた。
肩を落としてのそのそと動き始める。
名もない青年は吹き出すことはなかったものの、そのおかしな様子に笑みを浮かべた。
「食事を用意したわ。食べられそう?」
アデルは銀のトレイを持ったままベッドに横たわる青年に近づいた。
「はい。」
「そう、ならどうぞ。」
トレイにのっていたのは、スープの入った皿だった。
作ったばかりなのか、まだふわりと湯気が漂っている。
青年は恐る恐る皿に手を伸ばした。
意外にも皿は熱いということはなく、しっかりと持つことができた。
アデルからスプーンを手渡され、青年はスープを口に運んだ。
「……美味しい。」
何が、どんな風にということをはっきりとは言えないが、ただ美味しかった。
「そう、良かったわ。」
アデルはほんの一瞬だったが、ふっと笑みを浮かべた。
青年は特に飢餓感を感じていた訳では無かったがスープはあっという間にその口に消えていった。
アデルは青年を急かすこともなく、その間また本を読んでいたが、青年の食事が終わったことを確認すると、本を閉じた。
「スープはまだあるけれど、どう?」
どう?とは言うがアデルの口調は次の1杯を勧めるようなものではなく、ただまだ必要かと確認をとるようなものだった。
「……もう大丈夫です。」
「そう。では本題に入りましょうか。
貴方について、それからこの世界について話すわ。」
アデルは青年から皿を受け取り、近くの小さな丸テーブルに置くとそう言った。