<私を満たすもの>
罪を犯した。
それは、野盗に穢されてもいないのに穢されたと言ったことではない。
どうせ本当のことを言ったところで人々は面白可笑しく噂を広める。社交界では尚更だ。
私が犯した罪は、婚約者のいる身で恋に落ちたこと。
馬車の窓から、花畑に佇む彼を見た。
大きくて逞しくて獣のように荒々しくて……とても悲しげな人。視線に気づかれて、一瞬目が合ったように思ったのは気のせいだったのかしら。
でもその一瞬で十分だった。
彼を愛しいと思った。抱き締めたいと、見つめたいと、名前を呼びたいと。
襲ってきた野盗に馬車から引きずり出されたとき、恐怖よりも強く彼への思いが滾っていた。もう一度会いたい。彼と会えるのなら、どんなに穢されても生き延びたい。一目姿を見られるのなら、それまではなにがあっても耐え忍ぶ。
そんな願いが天に届いたのか、彼が来た。
一目見られただけで良かったのに、彼は燃え盛る炎のように荒れ狂い野盗を退治してくれた。
馬車から落ちた御者も傷を負った護衛達も命に別状はなかった。
ユニアは戦う彼の姿に怯えていたけれど、私はずっと見惚れていた。彼は強く猛々しく獣のように美しくて……やはり悲しそうに見えた。
いいえ。私の犯した罪は恋に落ちたことだけではないわね。
両親以外には偽りを語り、守護を申し出てくれた彼に甘えている。
偽りばかりの私だけど、あなたを愛しているのは真実なの。そう伝えたいのに拒絶されるのが怖くて、毎日罪を重ねている。甘く心地よい罪に満たされていく。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……」
「……すまない」
今、唇が重なった。
記憶を失った哀れな娘を婚約者にして愛する演技はずっとしてくれていたけれど、唇にキスをされるのは初めてだった。
彼を見つめる。ハインリヒ様は目の周りを赤く染めて、私から視線を逸らす。
「……謝らないでください。私達は婚約者なのですから」
「そうだな。情けないお坊ちゃんでも嫉妬で一人前の男になるかもしれない。俺は、せいぜい君と仲良くして見せることにしよう」
「お坊ちゃん? だれのことですか?」
「ああ、失礼な言い方だったな。侯爵家のご令息、君の婚約者だ」
「元婚約者です。……私の婚約者はハインリヒ様でしょう?」
驚いた表情で、彼が私に視線を戻す。
「それは偽りだろう?」
「婚約自体は正式なものですし、私は……花畑に立つあなたを見たときから、ずっとあなたを愛しています。あのときはほかに婚約者がいたのに、悪い女ですね」
「正気か? 俺は君より十歳も年上で、こんなに厳つい顔で体は傷だらけで、戦うことしか能がなくて……」
どんなに並べられても、それは恋しない理由にはならない。
私は勇気を出すことにした。
偽りの罪は甘く私を満たしていたけれど、本当に欲しいものはこれではないと気づいたのだ。
「ハインリヒ様は私をどう思っていらっしゃいますか? 抱き締めてくださるのは、優しく名前を呼んでくださるのは、世間に偽りを語っている罪深い女を憐れんでいらっしゃるからですか?」
「……あのとき、馬車の外と中で目が合った気がした。ほんの一瞬で恋に落ちていた。知らないんだ。こんな気持ちは知らない。姉上がお亡くなりになってから、ずっと開いていた心の穴が君で満たされた」
「私を満たすのもあなたです」
「……クララ……」
獣のように低く掠れたあなたの声が、私の名前を呼ぶときは甘く艶めく。
重なった唇から罪人達が満たされていく。
いいえ、もう罪人ではない。私達は恋人なのだ。