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この罪に満たされる  作者: @豆狸
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 国境を守る辺境伯家は多くの危険に晒される。

 王国の中心部から逃げてきた悪党や潤沢な自然が生み出す危険な野獣、国境の向こうから押し寄せる珍しくて対処法のわからない病気とまで戦わなくてはいけない。

 ハインリヒの両親は早くに亡くなり、気難しい祖父と年の離れた優しい姉に育てられた。姉と子爵家跡取りの結婚が決まり、いつも仏頂面だった祖父が泣いて喜んでいたのを覚えている。


 その姉は、結婚前に子爵家を訪ねる途中で野盗に襲われて亡くなった。

 幼かったハインリヒは、周囲の制止を押し切って姉の遺体を見て愕然とした。

 さまざまな技術で整えられていても、その美しくもか弱い体が執拗な暴力に晒されたことが滲み出ていた。遺体を引き取りに行った祖父の目には、さらに酷いものが映し出されたことだろう。立っているだけで回りを威圧していた祖父は、孫娘の葬儀から廃人になった。


 幼くして辺境伯となったハインリヒは、体を鍛え武術の腕を磨いた。

 どんなに努力しても姉を救うことはできないとわかっていても、ほかにできることはなかったのだ。

 気が付くと、姉が亡くなって二十年が過ぎていた。


 真相が見えてきたのは、姉の婚約者だった子爵が病の床についてからだ。

 子爵領を通る街道で野盗に襲われることがあるという。子爵家はほかの貴族のように騎士団の巡回もさせていない。

 大きな声で語られないのは、姉と違って被害者が生きているからだ。彼女達のこれからの人生を考えれば、なかったことにするしかない。たとえそうすることで、今後の人生でずっと強請(ゆす)られ続けるとしても。


 すべては姉の婚約者だった子爵家の跡取りが、結婚前に羽目を外したせいだった。

 彼は暗黒街の女(後の子爵婦人でありアグネスの母親)に誘惑されて、当時の子爵家の騎士団の巡回時刻を話してしまったのだ。

 襲われたのがハインリヒの姉だったのは偶然だが、女はそれを利用した。すべて子爵家の指示だったと言われたくなければ自分を妻にしろと迫ったのだ。


 子爵は愚かだったけれど、少なくとも病に倒れるまでは子爵家の財産を差し出して外への被害は食い止めていた。……その病気にしても本当の病気だったのかどうか。


 クララへの襲撃は、姉のときとは違い計画的なものだった。

 アグネスは母親の血が濃く、そもそも子爵の種であるかどうかも疑われていた。そんな彼女になびいた愚かな高位貴族の青年がほかにいなかったので、手放したくなかっただけだ。侯爵子息のカールを愛していたわけではない。

 母娘はさらなる陰謀を画策していたと思われる。カールが子爵家に婿入りしてしばらくしたら、実家の父兄が亡くなっていたかもしれない。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「……クララ……」


 膝の上の彼女を呼ぶ自分の声の甘さに驚く。

 姉の遺体を見た日、心に開いた大きな穴はいつの間に塞がっていたのだろう。

 しなやかな髪に指を走らせる。くすぐったそうに微笑む、十歳も年下の少女が愛しい。


「ハインリヒ様」


 見上げる瞳に映し出されるためならば、ハインリヒはなんでも差し出すに違いない。

 辺境伯家の築いた財産も、買い取ったばかりの伯爵家のさまざまな利権も、この心臓だって抉り出して捧げよう。


(ああ、そうか……)


 胸の穴が塞がった瞬間を思い出す。

 病気になる前も抜け殻のようだった子爵に許されて、街道沿いの彼の領地に植えた花畑にいたときだ。

 走っていく馬車からの視線に気づいた。彼女を見た。それだけで恋に落ちた。他人の話なら信じはしない。それほど突然で説明のつかない話だ。


(だが……)


 人は恋をする。

 運命なのか呪いなのかもわからない。

 ほんの一瞬で、永遠で、恋をして捕らわれるのだ。


 恋をしたから気づいた。

 彼女の乗った馬車が進んだ方向でなにか起こっていることに。

 前々から野盗のことは調査していた。いずれ姉の敵を討つつもりだった。しかしあのとき、単身で挑むつもりはなかった。けれど部下を呼び、近くの町や村に助けを呼びに行く時間さえ惜しかった。


 愚かだったと自分でも思う。

 消えない傷がいくつか増えた。野盗を退治できたのは奇跡だった。


(それでも……)


 彼女が穢される前に助けられて良かったと感じている。

 どうせ好きなように噂をされるのだから、とクララは野盗に襲われた後で助けられたことにしてくれと言った。

 彼女の名誉を思えば止めるべきだと思いながら、悪い心が囁いた。そうなれば、彼女は助けた自分のものになるしかなくなるのではないかと。そして、実際にそうなった。


「……もうすぐ君の婚約者が来る」

「元婚約者です」

「そうだな」


 最後かもしれないと思いながら、ハインリヒはクララの額にキスを落とした。

 まだ唇を重ねたことはない。

 二十八歳にもなりながら、少年のように怯えているのだ。制御できない自分の熱で彼女が溶けてしまうのではないかと。


 ふたりの罪──ハインリヒが駆け付けたときにはもうクララは穢されていたという偽りは、やがて消え失せる。

 そんな偽りがあってさえ彼女を求める青年が、これから辺境伯邸を訪れるのだ。

 失ったことになっているクララの記憶は、きっと彼に会った瞬間に蘇るのだろう。そのとき自分は笑えるだろうか。十歳も年上の戦うことしか能のない男には、彼女を守ることはできても彼女に愛されることはできない。これまでの真似事だけで十分だ。


 それでも──


 ハインリヒはクララの唇に自分の唇を落とし、罪を重ねた。


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