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クララは、かつてカールの婚約者だった伯爵令嬢は、東屋の長椅子で辺境伯の膝に抱かれていた。
男の分厚い胸に頭を預け、彼の長く骨ばった指で長い髪を梳られている。
甘く名前を囁かれると、童女のようにあどけない顔が、ほんの少しだけ艶めく。婚約者だった自分の知らない顔だ。
「クララ!」
思わず名前を口にすると、彼女は怯えたような仕草で顔を上げた。
澄んだ瞳がカールの姿を映し出す。
ほんの数秒が、カールには永遠にも感じられた。やがてクララは不思議そうに首を傾げて、辺境伯の胸に頭を戻した。
クララはカールのことがわからないのだ。
侯爵家に送られてきた伯爵家からの手紙に書かれていた通り、野盗に襲われた衝撃ですべてを忘れてしまっているのだ。
今の彼女の世界には、野盗に殺される寸前に助けてくれた辺境伯の存在しかない。辺境伯の腕の中のクララは、これまで見たどの彼女よりも幸せそうに見えた。
「……ハインリヒ様、お客様なら私は席を外したほうがよろしいですか?」
「そうだな。君に聞かせたくない話もする。寂しいが館で待っていてくれ」
わかりました、と微笑むクララの瞳にはカールの姿は映っていない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「さて。侯爵家のご令息は、我が家になんのご用かな?」
「……クララのことです」
「先ほどもだが、俺の婚約者を余所の男に呼び捨てされるのは気に食わないな」
クララの姿がなくなると、辺境伯の声から甘さが消えた。
低く掠れた獣の声は、それだけでカールを威圧する。
「っ。……伯爵家のご令嬢のことです」
「ふむ。今のところはそれで良いとしよう。それで? 俺のクララがどうした?」
「ご令嬢は記憶を失っていると聞いています」
「ああ、そうだ。俺と会うまでの記憶をすべて失っている。だから、どうした? 彼女が野盗に襲われたと伝えられ、傷物はいらないと伯爵家からの婚約解消を受け入れた君と、俺のクララの記憶がどう関係する?」
「婚約解消を受け入れたのは父と兄です。私ではありません」
「ああ、そうだな」
辺境伯が笑みを浮かべる。
「そちらの侯爵家は代々の散財で、手持ちの領地や爵位を売っても借金漬けだ。三男の君に回ってくる爵位はない。どこかの家持ち娘のところへ婿入りしなければ貴族として生きていけないのだろう?」
「爵位など関係ありません。クララとなら……平民として生きても構わない」
「一度傷物になった女なら、自分の酒代のために体を売らせても罪悪感を覚えないで済むということか?」
「違います!」
「でも君には稼ぐ手段がないだろう? 平民を莫迦にしてはいけない。彼らはそれぞれの家の職業と技術を受け継いでいるんだ。新参者が入り込む隙間などない。武勇に優れると言われているらしいが、本当に優れているのなら既にどこかから声がかかっているはずだ」
カールは反論できなかった。
すべて事実だ。平民になってもカールにできることはない。
しかし、クララを売るなんて考えたこともない。今も……辺境伯の膝の上に抱かれていた彼女を思い出すだけで、心臓が引き裂かれそうに痛むのだから。
「ご執心だった子爵家のアグネス嬢のところへ婿入りしたらどうかね? ああ、悪い。野盗の黒幕だったことが暴かれて、あの家はとっくに取り潰されていたな。……だからここに来たわけだ」
「違う! 最初から彼女を選ぶつもりなどなかった!」
「……ならば、なぜ、あの日クララを先に帰らせた? 野盗の襲撃は想像できなかったとしても、あのとき君が共に過ごしたいと思ったのはアグネス嬢のほうだったのではないか?」
カールは俯いた。
クララを愛していなかったわけではない。いつか結婚して、一生を共に過ごすのは彼女だけだと思っていた。
ただ、愚かな若い情熱が子爵令嬢を求めた。向こうからすり寄ってきたのだから、その体で欲望を満たしても良いのではないかと考えてしまったのだ。
「侯爵家のご令息、俺のクララのご両親は爵位を返上して平民になられた。借金するばかりで返そうとしない周辺貴族に苦しめられながらも、ご自身のお力で領地を富ませていた方々だ。君と違い、平民となっても有能で引く手数多だよ。俺のクララはもう伯爵令嬢ではない。俺の婚約者でなくなったら、なんの支えもないただの女だ」
「構わないと言いました。爵位でも財産でもない。私はクララが欲しいんだ」
辺境伯の鋭い眼光がカールを射る。
カールは彼を睨み返した。
でも、と辺境伯は歌うように言う。
「俺のクララは君を欲しがってはいない。見ただろう? あの怪訝そうな表情を。彼女の心には俺しかいない。俺しか必要ないんだ」
「傷ついて空っぽになった彼女の心に入り込んだだけだ!」
「そうだ。しかし君は、それすらできなかった。婚約解消を受け入れたのは自分ではないと言ったな? だが君は自分が足を運んで彼女と話し合うこともしなかった」
「家族に閉じ込められていたんだ!」
「お坊ちゃん。自宅の温い監視すら掻い潜れない男が平民になってなにができる? お家から出してもらえたのは、伯爵家の利権を俺が買い取ったことで侯爵家が怯えたからだろう? 伯爵家なら家格の違いと領地の近さによる付き合いを利用して借金を踏み倒すことができたかもしれないが、俺はそんなこと許さない」
伯爵家が令嬢につけた護衛が少なかったのは、侯爵家の護衛隊が同行するから借金の利子を減額してくれという申し出のせいだった。
野盗の噂を聞いていたとしても、伯爵家が独自に護衛を増やすことはできなかった。
そんなことをしたら侯爵家の力を疑うことになってしまう。
「元婚約者の誼で俺のクララを篭絡して、借金の返済を待ってもらえとでも言われたか?」
「それは父と兄の望みだ。私の望みではない!」
「君の望みは叶わない。……クララ、おいで」
甘く呼びかける声に顔を上げたカールの瞳に、庭の隅に立つクララの姿が映った。
館で待つように言われても、辺境伯の側にいたくて庭から離れられなかったらしい。
彼女の瞳には辺境伯しか映っていなかった。