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飲み会から帰ったころには、もう夜の十一時を回っていた。
横浜から京浜東北線に乗り、根岸駅で降りてそこから歩いて家へ。
夜の根岸は空も明るく、まだ千鳥足の会社員や塾帰りの小学生が普通に歩いている。
振り向けば、そこには根岸の製油所に並ぶ燃料タンクと製油施設の明かりが煌々と輝いているのも、いつもの風景だ。
何一つ変わらない生活。
でも、それでも自分の近辺は変わってしまった。
今まで関係が無かった警察とも関わることになり、毎日のように葬儀と謝罪に追われる日々。
この世界で、これまでこんなに事故を起こした人間はいないんじゃないか?
「ただいまー」
根岸の安いアパートに、男一人。
部屋は寝室とリビング、風呂とトイレは別。
キッチンもリビングの一部だが、なかなか広い。
それくらいならもう十分暮らしていける。
家賃もそこまで高くないのでいい物件だと自分でも思う。
実家から出てきてずっと一人暮らしだが、この物件は死んでも手放したくはない。
簡単にシャワーを浴び、寝間着に着替えて布団にもぐった。
そして、この生活で唯一の同居者が布団の上にいる。
「ミケ、ここにいたのか」
猫だ。
自分が数年前から飼っている、ミケという黒い猫。
名前は『ミケ』なのに毛は黒とは、なかなかネーミングセンスがないとつくづく思う。
捨て猫だったのを拾ってきた。
最初の頃はぷるぷると震えていたが、今じゃどっしりと布団で待っている程成長した。
ミケはいつも、寝る間際になると自分の布団に潜り込んでいる。
猫は寒がりで、やはり飼い主の隣にいると安心するらしい。
「ミケ、お前はいいよなぁ」
暗くした部屋でそう話しかけると、当のミケは『ニャー』としか鳴かなかった。
それでも十分、荒れた心は落ち着く。
一人だとどうも不安になる。
布団に潜り込むと、いろいろな感情が湧き出てくる。
今日の忙しい日々、専務の困り顔、佐藤の話。
でも、一番印象に残っているのは事故についてだ。
「あの会社員、結婚済みなのに死んだのか」
会社員が飛び込んだ時は、まだ速度もそこまで出ていなかった。
それでも死んでしまうとは、なんと人間の脆い事か。
あの会社員の薬指には、結婚指輪が光っていた。
結婚済みで、しかも俺が見つけた手帳には子供の写真が挟んであった。
幼い子供が満面の笑みでこちらを見ていた。
その隣には、綺麗な奥さんもいた。
でも、その一方で中にはラノベの本も入っていた。
ボロボロだったが、数年間は読み続けたであろう形跡もあった。
朝、妻と子供に見送られて家を出たあの男が、何故死のうと思ったか。
会社が辛いか? リストラの危機か? 生活が苦しいか?
「残されたあの妻と子供は、一体どうなるんだろうな」
暗い天井を見上げながら、そんなことを思い出す。
これが毎日のように続く苦しみ。
「でも、おかしいよな」
今日だけでも、もう二回は轢いた。
しかも二人とも即死、こんなに偶然が重なるとは思えない。
「少なくとも、原因はあの『異世界転生』にあるのだろうけれど」
佐藤の話が蘇る。
ブラック企業やイジメを受けていた、あるいは平凡で退屈な日々を送る主人公が転生するラノベ。
そんな話が人気になるとは全く理解ができない。
異世界で自由に暮らす人間を見て憧れる?
ただの作り話、しかも異なる世界の話を信じ込んで自分もそうなれると思う?
そんなに、そんなに異世界転生なんてものは面白いか?
これまでの人生を手放しても、それでも掴みたい『妄想』なのか?
家族に育てられた、友達に励まされた、祖父や祖母に大切にしてもらった。
そんな、そんな幸せな過去を捨ててもそうするべきだったか?
現実が辛かろうとも、その絶望に満ちた生活が延々と続くわけじゃないだろう。
いつかは救いもある、いつかは誰かが助けてくれる。
そう思えないのか?
「でも、あの日が最初か」
――違和感を感じたのは、ちょうど一年前の事。
最初に事故を起こしたのは、埼玉の大宮あたりでの飛び込み。
あの年は忙しく、スピードも出していたため被害者の女性は即死した。
その時、初めて人を殺してひどく落ち込んだのを今でも覚えている。
夜の幹線道路。
いつもの疲れからか、ボーっとしていた自分の前方不注意が原因だろう。
ふと、前を見たら車道の真ん中に白い影が立っていた。
急いでブレーキを踏んだ。
だが、間に合わず······。
鈍い音と女性の金切り声が今でもふと蘇ることもある。
その時は、本当にクビになるかと思ったが社長は『人手もいないから』とあの会社にいさせてくれた。
それからずっと、自分は社長を信頼している。
社員を捨てずに、しかも大切にしてくれている。
それだけで何度救われたか。
「なんで、俺のトラックに飛びこむんだ」
だがしかし、それから一か月に十八回は事故を起こすようになった。
まるで何かが人を引き寄せているかのように同じ状態、状況で人が死ぬのだ。
必ず、強く頭を地面に打ちつけて失血死。
「なんだかな」
これまで、不気味な一年間だった。
何度事故を起こしても警察に逮捕されないし、国交省からも何もお達しがこない。
それどころか逆に仕事が増える毎日。
まるで誰かに操られている感覚がする。
誰かが自分の人生をボロボロにしようとしているように。
「これまで、何人殺してきた? 俺はなんでこの仕事を続けられるんだ?」
目を閉じると、今まで轢いた数多くの人間の最後の顔が浮かび上がってくる。
平然とした顔、驚いた顔、泣きながら微笑んでいる顔、何かを叫んでいる顔。
人の死に際に何回出くわした?
何度、目の前で息を引き取る人間を見た?
「葬儀屋じゃないんだぞ」
モヤモヤとした気分のまま、自分はいつの間にか寝落ちしていた。
寝苦しい夜だった。