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「先輩、また轢いちゃったんですって?」
夜八時ごろ、社長に電話で呼び出され桜木町の小さな居酒屋に向かった。
そこで待っていたのは社長と専務、後輩ドライバーの佐藤と本田にあとは整備の数名。
ただ、整備の人間と社長はすっかり酔っていた。
「轢いちゃったって、お前俺が常習犯みたいに言いやがってよ」
ハイボールを一杯注文したあと、向かい側に座っていた佐藤が話しかけてきた。
佐藤はビールを片手にこちらを興味津々で見ている。
「だって、今月でもうニ十回でしょ? 先輩もそろそろ本格的に除霊した方がいいんじゃないですか?」
佐藤は小柄で、眼鏡をかけていつも生真面目そうな眼差しを向けている。
趣味は同人誌作りで、普段はネットで絵を描いているらしい。
自分は一度だけ家に呼ばれたが、まぁなんというかそういう人間だってことが分かる家だった。
悪趣味ではないが、自分は少し遠慮したい趣味だ。
「除霊したって、神主は『これは到底ウチでは無理だ』って逆に拝まれるんだからさぁ」
「ははは、先輩なかなか悪霊に好かれてますね」
好かれている、か。
軽々しく言ってくれるが、こっちだってそんな悪霊お断りだ。
お前の顔面ボコボコにしてやろうかこの野郎。
俺は悪霊なんかに好かれたくはない。
というか、そんなものに好かれているなんて思ったら寒気がしてくる。
多少いい気分だったが、一転して不機嫌になった。
「交通安全のお守り、つけてます?」
「つけたら逆に事故が増えたさ。本当にその悪霊は交通安全に執念でも持ってるんじゃないか?」
先月の事だが、成田山の交通安全お守りを買ってトラックに持ち込んだらその日だけで三回も事故を起こしたことがある。
それ以外にも遠方からそのようなお守りを取り寄せてみたが全く意味がなく、むしろお守りがその日だけで糸がほつれたり窓を開けたら車外に飛んで行った。
悪霊とは怖いものだ。
お守りを買った金で高級レストランに行けるだろう。
「その話、漫画にしたらかるーくバズるんじゃないですか? 絶対ウケますよネットユーザーに」
人の不幸話を自分の為に利用するあたり、こいつも楽しんでいるんだろうな。
頭を抱えて机に突っ伏した。
「なんで、俺が何人も轢くようになったんだかなぁ」
「業界全体で、そういう事故はいっぱいあるみたいですけどねー」
一年ほど前から、全国的にトラックに衝突して自殺する若者が増えている。
自殺の理由はそれぞれ多々あるが、一番は『異世界に転生したいから』らしい。
ふと、その話をを一番詳しそうな佐藤に聞くつもりだったのを思い出した。
「なぁ、聞きたいんだが」
「なんです?」
前々から気になっていたことを、その界隈の佐藤に聞いたらわかるだろう。
「その、今流行りの異世界転生って何なんだ?」
「異世界転生ですか?」
異世界転生という方法を行うために、多くの人間が死んでいる。
だが、自分はその『異世界転生』について全く無知に近いのだ。
「え、先輩って今までなんで人が飛び込んで死んでくるのか知らなかったんですか」
ぽかんとした顔でそう言った佐藤。
何をいまさらと言っているようで腹が立った。
だが、ここで苛立てばなかなか話ができそうにないから、敢えて聞く事にした。
「え、聞きたいんですか?」
遠慮した目でこちらを見てくる佐藤。
この目は、長くなるけど構わないかという警告の目だ。
「ああ。長くなってもいいから、教えてくれ」
そういうと、佐藤はビールを置いて腕を組んだ。
「先輩はラノベって知ってます?」
「ラノベ?」
そこまで聞いたことの無い言葉。
何度か口の中で復唱してみる。
はて、どこかで聞いた覚えもある単語。
「ライトノベルっていうんですけど、一応小説の類いの出版物なんですよ」
「小説の類い? 小説と何か違うのか?」
「ライトノベルは、いわば挿し絵のある小説みたいなものです。普通の小説はただ文字だけなのが一般的ですけど、ライトノベルは『漫画+小説』みたいな文学の新たなジャンルです」
挿し絵のある小説、か。
確かに小説には挿し絵がない。
だが、ライトノベルは同じように挿し絵のある児童文学とは違うのだろうか?
「児童文学も挿し絵があるが、それと何か違うのか?」
「ラノベは、どちらかというと『アニメ風のイラストや基本設定がしっかりしている』文学です。それと同時に青少年向きの描写が多いっていう部分も児童文学とは違うはずです」
ほうほう。
アニメ風のイラストを多用した小説がラノベか。
コマーシャルで見かける広告にも、そういう作品が大々的に売り出されていたな。
「で? なんでそのラノベが異世界転生と関わってくるんだ?」
「ライトノベルスは『リアル性よりもファンタジー性』という傾向の作品が多いからなんです」
眼鏡の真ん中に手を当て、淡々と語る佐藤の言葉を聞き逃さないように身を乗り出す。
「リアルより、ファンタジー性?」
「ラノベは若い成年男性や、中高生をターゲットに絞った作品がほとんどです。さっきのアニメ風の絵を多用する部分の他に、ターゲット層と物語の主人公の歳がほとんど同じくらい。だから、若者の間で人気になるのでしょうね」
「だから、自殺者も若い人間が多いのか」
「そういうわけでもなさそうですけど」
よくわからないが、どうやらややこしい問題のようだ。
まだわからない。
「ライトノベルスの王道と言えば、昔の西洋のような世界で活躍する主人公を描いたものである『異世界モノ』です。この『異世界モノ』はゴーレムや魔法使い、エルフなどの西洋に伝わる神話や架空の話を踏まえて『いかにそれを変えていくか』で売れるか売れないか、人気が出るか人気が出ないかが決まるんです」
「なかなか複雑だな」
佐藤の話はまだ続く。
「そして、それ以外だと学校生活を送る主人公が女性や別の世界からやってきた人間と関わり、生活が変わっていったり新たな世界を切り開くのが『ハーレムモノ』と言われています」
さっきから聞いたことのない単語がポンポン出てくるが、なんとなくわかってきた。
「つまり、王道の『異世界モノ』が流行りの異世界転生に関わってくるんだな?」
「そういう事になります」
佐藤は頷き、また解説を始めた。
「異世界モノで、まず冒頭の話に入ってくるのは『苦難の人生』や『辛くて暗い生活を送る不幸な主人公の生活』です。例えばブラック企業やイジメを受けていた、あるいは平凡で退屈な日々を送る主人公という設定が基本です。それが突如、事故によって異世界に転生する。これがほとんどのラノベや現代の漫画によくある手法です。その後、主人公が現代で培った技術や神に与えられた力を駆使して、仲間や女性を作ってイチャイチャするのがほぼお決まりです」
「はぁ」
聞くだけで馬鹿馬鹿しくなってきた。
そんな人間の理想を『異なる世界』で実現させたいと願った馬鹿な人間がこの世界に何万といるのか。
この世の中も終わりだ。
「異世界転生は、数多くのパターンがあるにせよ、結局死ぬしかないんです。現実に戻ることができないが、自分の望んだ力、武器、スキルを使って異世界の住人から人気を集める。それが、異世界転生モノの定義ですね」
「嫌なジャンルだ。俺にはさっぱり理解できないね」
イライラしてくる。
それほどまでに日本人はバカだったか?
俺はそうは思わない。
だいたい、それに憧れること自体がおかしい。
まだ大人になっても夢を見るのか?
「ただ、これで一番多く使われているのがですね」
「トラックに轢かれて、転生か」
ますます話がひどくなってきた。
トラックに轢かれて転生? 馬鹿を言うな。
「そういうこと。主人公が子供や猫を助けるとかいうどうでもいい事で転生するんです。その方が安価ですし」
「安価って、お前」
その嘘みたいな事実に、ますます自分の怒りが燃え上がった。
ふざけるな。俺らが運送業をやっているのはそんな事の為にやってるんじゃない。
世の中を回し、多くの人に笑顔を届けるこの仕事を侮辱しているじゃないか。
「でも、それだけで人っていうのはトラックに飛びこむものか?」
「さぁ、そのあたりを嗜むわけでもないので細かいことは分かりませんが」
佐藤は首を傾け、遠くの方を向いた。
「おそらく、その登場人物の気持ちや生活が自分と当てはまり、共感してしまうからなんでしょうかねぇ?」
「共感してしまう、つまりは同じに見えてしまうって事か?」
「そうなりますね」
生活と当てはまる。
この時点でも、現実と仮想を混同した末にたどりついた世界の現状が見え隠れしている。
つらい現実から何とかして逃れたくて、だからこそ死んで転生したい。
それに何の意味があるか。どんな幸せがあるか。
「じゃあ、なんでそれに共感するんだ?」
「異世界転生モノを読む人間と同じように、自分の普通の生活と変わらない日々を送る主人公がほんの少しの変化······『トラックと衝突した』だけで死んで転生し、人生バラ色に変わる。その異なる世界で美しい女性やかわいい女の子と戯れるのがうらやましいんですよ、多分。だから自分の思う世界や行きたい二次元の世界を思えば思うたびに自分もそうなりたいと思う、だからトラックに飛びこんで異世界転生したい。そういう心理が働いてしまうからこそ、その『異世界転生』が流行るのかもしれません」
佐藤は真剣な目をして、また視線を戻した。
その目は鋭い。
「僕らオタクが、世の中から浮いた目で見られているのはわかっています。だけど、今や若い子供も気軽にネットでそれに触れられる。テレビからは子供が離れ、ネットで見たい動画や知りたい情報を知り、そして多くの子供たちがコアな趣味にはまってしまう。それもオタク界の変化です」
「若者のテレビ離れで、オタクが増えるのか」
そう聞き返すと、彼は机の上のビールを見たままゆっくりと自分の意見を述べた。
彼はとても辛そうにも見える。
「今の時代、これからの世界、いや日本を担う子供たちがネットの海で自由に泳ぎ回る世界になってしまったこと。これは一番大人が子供にやってはいけなかった罪なんです」
「ますますオタクが増えるからか?」
自分の問いかけに、佐藤は無言で首を振った。
「勉強から逃げ、運動からも逃げ、ただそのスマートフォンやネット動画を見る生活が当たり前と化している。今の世代は、小学校でネットの動画を見ていないとクラスで浮いてしまうらしいです。でも、それは確実に間違っている」
そこまで言うと、佐藤はビールを一気に飲み干した。
「ネットにはフィルターをかけることができますが、そのフィルターも完全に有害サイトをシャットアウトできません。会社が作っているから安心、国が保証しているから大丈夫なんていう時代は終わってるんです。でも、それを誰も理解しようともしない」
佐藤の話には、所々意見も交じっているが正しい。
彼を信頼する理由の一つでもある。
「まだ時代は安全、国がいれば問題なしってか」
「どこかで若い層も成年向けコンテンツに触れた結果、現実世界で嘘の情報を知ってしまった子が、ネット上でその大人が言っていた偏りのある人種差別や、とある人々に対する偏見を学校で言いふらす。そして、またそれを知った子供が誰かに言う。その連鎖が続く事で、今の学校で中国系や韓国系の子供がいじめられてしまうのですよ」
「思った以上に深刻だな······」
近年、ネット上でトラブルに巻き込まれる未成年が増えているとの話が度々公の議論の場に出てくることがある。
だが、子供たちがそうしてトラブルに巻き込まれてしまうのも大人の責任になるのだろう。
でも、その事を誰もが見て見ぬふりをしてスルーする。
この現状こそが一番まずいのではないか。
「それどころか、ネットで注目されたいがために平気で弱い子を晒し上げて殴る、蹴る、殺すという行為を何も悪びれずに行えてしまう子供が増えています」
「この前の、公園での殺人事件もか」
佐藤の言葉でよみがえった記憶。
二か月前、ネットで注目を集めようとした東京都内の高校生が雑司が谷の児童公園で遊んでいた幼稚園児を何人も滅多刺しにし、それをネットに上げた事件があった。
その時は『なんでそんなことができるのか』と世の中の大人たちが議論し、そしていつの間にかその話題は消えていた。
今の日本らしい結末だと今でも思う。
「大人気の漫画やゲームを真似した動画は若い世代に大人気なんです。たとえばキャラクターの声真似、その人物のコスプレ、作中のストーリーの演技、更に二次創作を投稿する。それで人気を集めているのを見た子供たちが、それよりも注目されようとして過激な動画やリアルを追及するがためにあの事件が起こったんです。あの事件は、確か『龍僧破滅伝』とかいうマンガ雑誌の連載を見た学生が起こしたんだか。そういう話を聞きました」
「まるで漫画みたいだな」
「そこです。異世界転生が流行する原因は」
そうか。
だから、若い世代の人間も度々飛び込んでくるのか。
だんだんと、異世界転生がなぜ現実に干渉してきているのかが分かりかけてきた。
「今の教育じゃ、子供はあまり褒められません、特に中高生なんかもそうで、親には点数を取れ、遊ぶな、未来の為に働け。そう言われ続けている子供たちの、唯一の楽しみがネットやラノベ、オタク趣味なんでしょうかねぇ」
近年では、外で遊ぶ子供を見かけることが少なくなった。
児童公園でたむろする中学生もいないし、河川敷で鬼ごっこをする小学生もいない。
都会の子供たちに限らず全国の子供たちは家でゲームをし、ネットに触れて暴言や新たな世界を知ってしまう。
それも社会問題とすべきなのかもしれない。
「まだ純粋な子供たちが、大人の嘘の情報や偽った身分を名乗る人間から脅され、騙されてしまうのが日本中で問題になっていることは知っている筈ですから、もうそこに関しては触れません。ただ······」
そこで一言おいた佐藤は、一気に最後まで語る。
「事実と嘘を見分けられず、周りに流されてしまう中高生がその『事実と違う、異なる世界』を夢見てしまう事が、異世界転生の生み出したものです。まだ思考も、知能も不安定な状態の時期にそのような『現実離れした夢』を子供に見せてしまったことでその界隈の人気が上がった。そうなると、それを見て成功すると確信した出版社はラノベのジャンルに、同じような異世界モノを投入して利益を得ようと量産する。で、それを買い漁る裕福な子供たちに買わせて、また利益を得る。もうドラッグみたいなものかもしれませんね」
「延々と拡大して、いつかは爆発か。そのあとの世界が悲惨だな」
「純粋な子供を純粋なままで、外で楽しむ事よりも中でネットをする方が楽しいと気づかせてしまった。そして、空想上でしかない異世界という概念を本気にさせるような作品を作ってしまった。これは、我々大人や出版社の犯した罪です。もう、どうすることもできない」
目を伏せ、悲痛な顔で話をやめた佐藤を、俺は長く見つめていた。
オタクが差別されなくなり、中高生の趣味として当たり前になる社会。
本来差別され、住み分けがあったはずのジャンルまでもが、今では日本のポップカルチャーとして世界から人気を博していることは知っている。
だが、それが浸透した結果にこの世界が生まれた。
「偏見や差別を取り払った結末がこれなんだな」
「ええ。まさにオタクの望んだ世界になった。けど、それも違ったんです。間違っているんです」
年を重ね、日本に定着した文化。
これを簡単に滅ぼすことはできないだろう。
「住み分けされていた時代、オタク趣味は本当にごくごく一部の人間がハマるジャンルでした。でも、次第にそれを知った人間がオタク趣味に入る。それが、今の出版社やゲームクリエイター、アニメーターや同人誌作家です」
過去の時代を乗り越えて、やっと認められるようになったオタク。
それが何にせよ、誰かを救っているかもしれない。
「でも、若い子供って想像力豊かなんですよね。大人じゃ想像しないアイディアを生み出せる。そこはまだまだ、自分は捨てたくありませんし」
泣き笑いのような表情を浮かべて、佐藤は俺を見た。
彼にも彼なりの考えがあるのだ。
「かといって異世界転生をなくそうにも『表現の自由』を守りたいから永遠に消えることは無い。だけど、それでも······」
佐藤が一瞬で表情を変え、にやけながら最後に一言。
「先輩はいつまでも異世界に人々をいざなう『死神』かもしれませんけどね」
あぁ、こいつときたら本当に······!
「いい話が台無しじゃないか」
「えー? いい話でした? 珍しいですね先輩」
ダメだ、イライラしてきた。
こいつによく教育してやろうかと思った時、奥の方から声がかかった。
「おい、佐藤ぉ! お前なんかゲームやってたよなぁ?」
顔を真っ赤にさせ、すっかり酔いのまわった社長が佐藤を呼んでいた。
すかさず佐藤も大声で聞き返す。
「はい? スマホですか?」
「あの、あれだよ、愛♡プロとかいうゲームだよ! やってたよな?」
「あぁ、はい」
その答えを聞くと、社長は佐藤を手招きした。
「俺の子供が好きでよ、なんか攻略法教えてくれってうるせぇんだわ」
「了解です、すぐ行くので待っててください!」
佐藤がビール瓶を持って、小さく頭を下げるとそのまま行ってしまった。
「なんだ、あいつすぐに行きやがって」
「まぁまぁ、そう言わないことだな」
隣で静かに焼き鳥を食べていた専務がそういった。
「あいつも、ずっとお前が事故を起こしてから心配してたんだぞ。死にはしないだろうか、大丈夫だろうかってさ。お前、あいつに好かれてるんだぞ」
「え、マジっすか」
専務は焼酎を飲み干すと、そっと呟いた。
「まぁ、お前も頑張れや、河野」
そういうと、専務は自分の肩をポンと叩いた。
その日のビールは、やけに苦く感じた。