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彼は外を眺めて、ため息をついた。つまらない。世界がつまらなさ過ぎる。彼のいる教室に教師の姿はない。今時教室に通うというのがおかしな話なのだ。一家に一台、家庭教師ロボットがつき、家から出ることなく知識を身に付けることが出来る。学校に通うのは一部の貧民層のみだ。彼の家はそれなり、と言うより国家の中でも五本指に入る名家でありこれまで様々な発明で名を上げてきた。実際彼の兄も学校になど通わずに勉学を学び、彼の7つ上のたった17歳で学者として活躍している。なぜ兄と彼の扱いがこんなにも違うのか、理由は簡単だ。彼の出来が悪いから。簡単な問題を解けない彼に世間はひどく厳しい。今だって、教室内には15席程の机があるが誰も座っていない。彼一人だけが問題を解けず、居残り状態なのだ。
『まだ解けないのですか。』
机の上に置かれた液晶が青く輝き、3Dモデルが現れた。そこに教師の姿が浮かび、その背後には科学の基本問題が浮かんでいる。
「はい、まだです。すみません。」
彼が俯いて答えると、教師は人差し指で眼鏡を上げながらため息をついた。
『もういいです、帰りなさい。明日までにして来るように』
それだけ言うと教師の姿が消え、液晶が暗くなる。それから扉が自動で開いた。遠隔操作出来るようになっているのだ。
「…帰ろ。」
呟いて席を立つ。教室から出ると背後で音をたてて扉が閉まった。外に出ると人工的な太陽が輝いていた。手を翳すように見上げてため息を一つつくと、彼は歩き始めた。
この科学の国に基本的に自然はない。数少ない学校のグラウンドの地面は、生徒が転んでも痛くないように自然の土に似せた柔らかい素材であるし、本来木の果たす役割である酸素の生産は機械が行っている。天気も自然ではなく、区域ごとに仕切られたドームの中で雨や晴れを作り出している。が、彼は雨が降っているのを見たことがない。天気情報ではほぼ100パーセントの確率で晴れ。一度だけメンテナンスか何かで曇りだったことはあったが、それだけだ。外の世界に似せて一定の周期で夜が来て、朝になる。くだらない。ひどくくだらない。天気など自然に任せてしまえばいいのだ。そのようにつまらない考えをしてしまう彼が科学を出来ないのは、妥当なのかもしれない。
「ただいま。」
歩いて30分程で家に着く。その家には彼しか帰らない。科学の力のない者に家族は居場所を与えなかった。扉から入り、しっかりと施錠すると彼は鞄から手を離した。だが、その鞄が床に落ちることはない。空中に浮いた鞄は彼が手を振ると、独りでに部屋に入っていった。
「これが使えてもなぁ。」
一人にしては広過ぎる家は世間の体裁を保つには十分だった。『あの家はでき損ないにも大きな家を与えてやっている』、それだけでいい。それだけで彼を落とし、家の評判を上げることが出来る。
広い廊下を歩いて部屋に入るとふかふかのソファに座り込んだ。そこで指を鳴らすと、カチャカチャと音を出しながらお盆に乗せたお茶が出てきた。軽く手を振ると隣の部屋の鞄の中にあったはずの液晶画面のついた機械が彼の手元に収まった。画面に触れると青く輝き、何問か問題が浮かび上がる。左手で機械を持ち、右手でお茶を飲みながら考え込む。少し考えても理解が出来なかったため、画面をスライドさせてしたの問いを考えてみる。一般的には簡単であるという設計図と、いくつかの条件、空白の四角いマス。考えても考えても、埋めることが出来なかった。どのくらい考えていたのだろう。辺りが薄暗くなり始めたことで、初めて時間が経っていることに気付いた。お腹も減った。何となく、外に出たい気分だった。自身の携帯を持って玄関から出ると、自動オートロックが掛かった音がした。
暗い空に、規則正しく並ぶ白の点。"星"と呼ばれるものらしい。対して暑くも寒くもない気温にため息をついて東に向かって歩き始めた。歩道を歩く自分の横を、音も立てずに車が通り過ぎる。反対側には、小さい板のようなものに乗った人々がリモコン片手に疾走していた。その姿に見覚えがあることに気付いて、顔を隠す。が、遅かった。
「あ、あいつ小宮じゃね?」
通り過ぎたはずの人々が方向転換して戻ってくる。同じクラスの男子たちだった。目の前で板から下りて、顔を隠すために下を向いていたのを無理矢理上げさせられる。
「っ…!」
「ほらやっぱり。お前放課後残されてたろ。出来たのかよ。」
ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている。前髪を掴んでいる腕を振り払おうとするが、動かすことさえ出来なかった。
「無理無理、お前の貧弱な腕じゃびくともしないって。」
目の前に立っている少年が、横に投げ飛ばすように彼を放る。力に抗うことなく飛び、道を区切っている柵に背中をぶつけた。
「ぐっ…。」
呻くような、苦しそうな声を上げるがそれ以上は声も出さず力なく柵に寄り掛かるだけだった。
「面白くねぇ、行こうぜ」
吐き捨てるように言うと、また板に乗ってどこかへ去っていった。あの板の名前はマッグロッド、通称『ロッド』。磁石で出来た特殊な道を走行する。N極とS極の反発と、同じ極同士の引き合いを利用する。素早くロッドのN極とS極を切り替えることで、道に交互に並んでいるN極とS極と反発、引き合いことで前に進む。磁石の引き合いの強さや反発の強さ、自身の体重など全ての条件を完璧に揃えなければ張り付いてしまったり、バランスをくずしてしまう。この国では仕組みが理解出来れば何歳だろうが乗って良い。大抵は4、5歳には乗っている。彼だけが10歳になった今も乗れていない。柵を掴んで立ち上がる。空を見上げて息をついた。そしてまた、歩き始める。10分程歩くと、有刺鉄線が張り巡らされた場所に出た。あちらの国とこちらの国の境目だ。これより向こうは対人間の高性能地雷が埋まっている。万一、それを抜けられても魔法の国が何をしているか分からない。学校で習った。その昔、第5次世界大戦で魔法の力を使って地球を征服しようとした野蛮な民、魔法人。我々の祖先は命からがら逃げ出して、地球を分裂するように地雷を埋めた。魔法人がそれを踏んで身体がバラバラになっていくのを見るのは大層見物だったらしい。それ以来、魔法人が攻め込むことはなくなり、科学の発展したこちらの国では平和で幸せな日々を送ることが出来るようになった。それでもこの国は、科学の出来ないものには酷く冷たい。彼のようなものがここに踏み込んで死んでも誰も何も思わないだろう。むしろ、喜ぶかもしれないで邪魔な奴がいなくなったと。
「どちらが野蛮な民だか。」
自嘲気味に笑みを作る。自分もその野蛮な民の一員であると言っているようだった。ふと、気配を感じて辺りを見渡す。少し集中すると、見付けた。数少ない茂みの中に感じた気配。静かに近付くと、茂みの気配が息を飲んだのが分かった。
「誰?」
そのまま声を掛けると、ゴソゴソと茂みが動く。
「私が見えるのか。」
冷たい、凍てついた氷の先端を鋭く尖らせたような声だった。低いような、高いような、どちらかと言えばどちらでもない、そんな声。
「見えないよ。」
だから彼は優しく声を掛けた。氷を溶かすように柔らかく、温かく。
「…何故、ここに私がいると分かった。」
「気配を感じたから。」
「私のか。あり得ないな、私は魔法で自分の気配を絶っている。相当な魔法使いでないと見付けられない。」
「ても、僕は分かった。」
「お前、魔法が使えるな?」
ヒュッと喉がなった。
「安心しろ、私は魔法の民だ。お前が魔法を使えるからと言って殺したりはしない。」
その言葉に彼は眼を見張った。思えばおかしかったのだ。この国に魔法を操れるものは居ない筈なのに、魔法を使える人間がいる。そんなもの、どう考えたって魔法の民以外いない。
「魔法人…?」
「む、こちらではそう呼んでいるのか。まったく、センスの欠片もないな。」
「どうして、ここに?」
聞くと、案外簡単に警戒心を解いた。
「私は魔法の民、魔族の長娘、アニル=リバーソンだ。君は?」
茂みから出て来て、薄く笑いながら言う。美しい桃色の髪を2つに結い、腰辺りまで伸ばしている。大きな水色の瞳は一見、幼く見えるが背は彼より高く年上を思わせる。
「えっと…秋雨。小宮秋雨。」
彼…いや、秋雨が笑う。するとアニルはその頬を摘まみ、横に思い切り引っ張った。
「いひゃいっ!」
痛い痛いと暴れ回る秋雨。それを見て、アニルは眼を細めた。
「こちらの人間は薄っぺらい笑みしかしないな。お前も、王も。」
何とか腕を振り払った秋雨は頬を擦りながら答える。
「そうしないと、生きていけない。」
先程とは全く違う雰囲気。バレたのだから隠す必要はないと、いっそ開き直っているようだった。
「ほう、難しい民だ。」
「…そうかもしれない。」
有刺鉄線、魔法の国の方を見て呟く。寂しい光の色で輝く瞳は、血のように赤い。それを見てアニルは首を傾げた。
「お前、本当に科学の民か。」
秋雨が振り返る。何を言っているんだ、眼がそう語っていた。
「…科学の民に魔力は存在しないはずなのだ。なのにお前には、相当の魔力があるように見える。」
ふぅ、と溜め息をつく秋雨。俯き、眼を閉じる。少しして顔を上げ眼を開くと、まるでどこを見ているのか分からなかった。深い闇の中に独りだけ取り残されて、救いも求めていないような。そのまま秋雨は低く声を出す。
「さぁ、そもそも人間ではないのかもしれないな。」