五月七日
【五月七日】 担当 桜
始まりは、五月七日。ゴールデンウィークが終わっちゃった、最初の月曜日。
時間はたぶん、四時半ぐらい。わたしとお兄ちゃんは、塾に行く途中だった。
「お兄ちゃん、そっちじゃないよ?」
いつのまにかいつもの道じゃなくなって、変だな、と思った。でも、お兄ちゃんはなにもいわないし、もしかしたら近道なのかもしれないとも思って、わたしはおとなしくついて行った。
そうしたら、公園にたどり着いた。
家から歩いて十分の、太出山公園。近所の幼稚園の運動会がここで行われるぐらいの、大きな公園だ。わたしもお兄ちゃんも、よく遊びに来る。
お兄ちゃんは、だまってずんずん進んでいく。わたしはまだ、近道なのかなと思っていた。ここを通り抜けて行くのかなって。
でもちがってた。
お兄ちゃんは、お山のすべり台のてっぺんまで登って、そこでリュックサックを下ろした。
「塾は?」
お兄ちゃんは答えない。しかたなく、わたしも登る。わたしのはショルダーバックだから、石をつかんで登るときに、ずるずると引きずってしまった。三月に買ってもらったばっかりの、お気に入りなのに。
教科書とワークが重くて、バランスが難しかったけど、それでもなんとか登る。てっぺんに着いてみたら、お兄ちゃんはていうゲーム機を出して遊んでた。
最初から遊ぶ気で持ってきたんだ。信じられない!
「お兄ちゃん! 塾はどうするの、遅れちゃうよ!」
あたりまえにわたしは怒ったけど、お兄ちゃんはそのままゲームをやり続けて──たぶんきりのいいところまでやったんだと思う──それからやっとこっちを見た。
「おまえだけ行けばいいじゃん。もう一人でも行けるだろ」
もちろん行ける。三月から通い始めて、週に二回、もう二ヶ月だ。でも、問題はそこじゃない。
「お兄ちゃんは?」
聞かなくてもわかったけど、一応聞いてみた。
「さぼる」
やっぱり! ママが聞いたらなんていうだろう。いや、なにもいわずにげんこつだ、きっと。わたしが代わりになぐってやろうか。
わたしの怒りが伝わったのか、お兄ちゃんはちょっと困ったような顔をした。
「だってさ、ゴールデンウィークが終わっていきなり塾だぞ。学校だけでうんざりなのに。オレは絶対行かない」
「……怒られるよ」
「ばれたらな」
わたしはお兄ちゃんのとなりにすわった。ばれないとでも思ってるのかな。
そのままゲームをやり始めたのを見て、かばんから携帯電話を取り出す。ママのやつだ。なにかあったときのために、塾のときは持たされてる。お兄ちゃんじゃなくてわたしにあずけてるってことは、こういうことを予想してたんだと思う。
「待て、待て、桜! それはちょっと待て!」
お兄ちゃんはあわてて、わたしの手から携帯電話をとろうとした。わたしはひょいと手をあげて、それをかわす。だってこのままじゃ、わたしだって怒られちゃう。わたしがいま電話しなくても、塾から家に電話がいくだろうし。もう一年も塾に通ってるのに、どうしてそういうことわからないんだろう。
「おまえはあそこのおそろしさを知らないんだ! オレはもううんざり! 宿題やってないから、行ったってどうせ二時間まるまる説教だし」
つまり、怒られるのがいやで、行きたくないんだ。
「でも、行かなきゃしょうがないよ。わたしは好きだよ、けーこ先生おもしろいし、ゆきちゃんたちもいるし」
ゆきちゃんたちっていうのは、ほかの小学校から来てるともだちだ。四年生から塾に行く子はあんまりいなくて、心細かったけど、すぐに仲良くなった。けーこ先生は、若くてきれいで、怒るとちょっとこわいけど、楽しい先生。
「しょせん小四の勉強だろ。五年にもなると、いろいろと難しいんだよ。オトナの事情ってやつだ」
「ばかみたい。五年生だってこどもじゃん」
「ばっかおまえ、一年ちがうとぜんぜんちがうんだよ」
お兄ちゃんは胸を張って、いかにも偉そうにいった。変なの。一年ちがってオトナなら、ママたちなんてどうなっちゃうの。
「電話する」
わたしはもう、ママに助けを求めることにした。携帯電話を開く。
携帯電話だから、市外局番から入れなくちゃいけない。あ、でも短縮ダイヤルに入ってるだろうから、そこから探して──
「すきあり!」
「あ! ちょっと!」
やられた!
携帯電話を取り上げて、お兄ちゃんがあっというまに山をすべり下りる。そのままちょっとこっちをふり返って、勝ち誇ったように笑って走り出した。
悔しい! なにがオトナなんだろう、やってること、まるっきりこどもだ!
「待ってよ!」
わたしもすぐにすべろうとして、でもかばんが開けっ放しだったから、あわてて閉めてあとを追った。そのちょっとの間に、お兄ちゃんはどんどん遠くに行っちゃってる。うしろ姿が小さい。
「おにーちゃん! どうせすぐばれるよ! 怒られるよ! ねえ!」
おなかの底から声を出す。それでも、お兄ちゃんは止まらない。
それはそうだ。そんなことで止まるぐらいなら、きっと最初からさぼろうなんて思ってない。
走って走って、長そでのシャツが暑くてしょうがなかったけど、脱いでる間に見えなくなっちゃったら困るから、がまんしてとにかく走った。
お兄ちゃんは、大きな広場の横を走り抜けて、テニスコートのほうに向かっていく。それ以上行ったら、見失っちゃう。
でも、見失うことはなかった。
お兄ちゃんは、急に止まった。テニスコートの横の、ベンチの前で。なんで止まったかはわからないけど、チャンスには違いないから、わたしは必死で追いつく。
走りながら、変だな、と思った。
小さいころは、これぐらいの時間にもよくこの公園に来たけど、もっとたくさんの人がいたはずだ。
広場でサッカーをしているひとたちとか、テニスコートにマイラケットを持ってくる、ジャージのひとたちとか。それに、犬の散歩のお姉さんとか、ベビーカーを押してるお母さんとか、自転車で走り回る男の子たちとか……
でも、今日は、だれもいない。
わたしとお兄ちゃん以外、だれも。
なんだかこわくなった。でもお兄ちゃんに追いついたら、そんな不安な気持ちはどこかに行ってしまった。
「お兄ちゃん! もう、いいかげんにしてよ! ちょっとぐらい遅れてもいいから、いまからでも塾に行こうよ!」
でも、お兄ちゃんは答えなかった。
それどころか、ぴくりとも動かない。
だらしなく右肩だけにリュックサックを引っかけて、ママの携帯電話は左手に持って、わたしが怒鳴ってるのにちっともこっちを見ないで、まっすぐに前だけ見てる。
「……どうしたの?」
あれだけ逃げてたくせに。
わたしはお兄ちゃんの顔をのぞきこんだ。おばけでも見たみたいに、目をめいっぱい開いて、前を見てた。
わたしは、急にどきどきした。そこになにがあるんだろう。走ってきたときには、なにも気づかなかったけど。
「あれ、なんだと思う」
やっと、お兄ちゃんが声を出した。すごくまじめな声だったけど、わたしはちょっと安心して、軽い気持ちでそれを見た。
「……?」
見まちがいかと思った。
何度もまばたきをして、目を細めてじっと見る。
まるで、大きなシャボン玉が浮いているみたいだった。わたしの身長よりも大きいぐらいの、細長いたての丸。シャボン玉みたいに向こう側が透けて見えるけど……なんていえばいいのかな、図工で使う透明なフィルムを切り取って、空中にはりつけたみたいな。透明っていっても、もやもやしてて、明らかにそこだけおかしい。それが、ベンチの横の、地面から三十センチぐらい上に、あった。
浮いてた、って感じじゃない。だって、ふわふわしてないんだもん。写真の上に透明シールをはったような、そういう感じ。
もちろんそんなの、いままで見たこともない。
「なんだろう……。虹とか、そういうの?」
わかるはずもなくて、思いついたことを口に出す。お兄ちゃんはばかにしたように、それでもやっとこっちを見た。
「虹? なんでこれが虹だよ。虹ってのはなあ……」
「いいよ、説明してくれなくて。知ってるから」
だって、ほかになんにも思いつかなかったんだから、しょうがないじゃん。
「これは、もしかしたら……怪奇現象とか、そっちかもしれない。ほら、よくテレビでやってるやつ」
「ええ、そうかなあ」
虹もどうかと思うけど、怪奇現象っていうのもどうだろう。あんなのぜんぶうそだって、みんないってる。
オトナとかいってるくせに、そういうのは信じてるんだ、お兄ちゃんってば。
「お、そうだ。写真撮っとこう。テレビ局に送ろうぜ」
お兄ちゃんの目はきらきらしていた。さっきまでばかみたいに口開けて見てたのに。携帯電話をかまえて、ボタンを押す。シャリーンっていう電子音。
「撮れた?」
わたしは塾のことは思い出していたけど、こっちのほうが気になったので、お兄ちゃんと一緒に画面をのぞきこんだ。
「……あれ?」
「写ってないよ?」
写ってたのは、ただのつまらない風景写真。でも、場所はたしかにあってる。ベンチのとなりの、向こう側にたくさんの木が見える、この場所。
「変だな」
納得がいかないようで、お兄ちゃんがもう一度携帯電話をかまえる。今度はわたしも一緒に見た。でも、撮影ボタンを押すまでもなく、そもそも画面にあの細長い丸が映し出されていなかった。これでは、写真に残るはずがない。
なんだか、こわくなってきた。
ここで初めて、ふだんたくさん人がいるはずの公園に、わたしたち以外だれもいないことを思い出す。
なんだか、いつもとちがう。
急に心臓がどきどきいいだして、わたしはお兄ちゃんの服のそでをつかんだ。
「ねえ、もういいから行こう。塾もやめて、もう帰ろうよ」
できるだけいつもどおりの声のつもりだったけど、すごく情けない声になった。こわいと思っちゃったら、あとはもうどんどんこわくなるだけだから、一生懸命ふつうでいようとする。
でももう、遅かった。
うしろもふり返られないくらい、こわくてこわくて、しょうがなくなっていた。
「なんだよ、こわがりだな。こんなの、なんかしかけがあるに決まってる」
「お兄ちゃんが怪奇現象とかいったんじゃん!」
「ばっか、おまえそんなの、うそに決まってるだろ」
いってることがむちゃくちゃだ。帰ろうっていってるのに、お兄ちゃんはきらきらと目を輝かせて、細長い丸に近づいていく。さすがに触る勇気はなかったのか、向こう側に回り込んだ。
こっちから見たら、お兄ちゃんの姿がちょっとぼやけて見えた。やっぱり、透明フィルムを通したみたいに。
「ねえ、やめとこうよ。なんか変だよ」
「なにがだよ。どうってことないって、こんなの」
もしかしたら、わたしがこわがっていることが、逆にお兄ちゃんをその気にさせてるのかもしれなかった。
お兄ちゃんはこちら側に戻ってきて、背伸びしたりしゃがんだり、横から見たり下から見たりと、観察を始める。ほんの十数秒間観察したかと思ったら、信じられないことに、それに手を伸ばした。
直前で、ためらう。わたしはお兄ちゃんを止めるのも忘れて、息を飲む。
「触るぞ」
一言。それから一気に、触れた。
でも、実際には、触れなかった。
そこにはフィルムもなにもないみたいだった。そのまま、なににも触れず、指先が進んだだけ。
「……なにもない」
少しつまらなそうにそういって、手を握ったり開いたりする。わたしは心底ほっとした。触れないし、写真にも写らないっていうことなら、もう目の錯覚ってことにするしかない。とりあえず害はなさそう。
「ね、もう行こう」
もう気がすんだでしょ?
でもお兄ちゃんは、まだまだ帰る気はなさそうだ。手を伸ばしたままで、からだをひねって向こう側から見ようとする。
「うわ!」
やめてよ、と思った。どうせわたしを驚かそうとしてるんだ。
「ちょ、桜、こっち来てみろ!」
でも、あんまり必死にいうから、おとなしく行ってみる。細長い丸の向こう側から、お兄ちゃんの指すところを見て──
──息が止まるかと思った。
そこには、お兄ちゃんが伸ばした手が見えなくちゃいけないのに、指先が切れてなくなっちゃったみたいに、なにもなかった。
「すげえ……」
お兄ちゃんが、そっと手を引っ込める。ちゃんと、指はある。
「どういうこと?」
「……ってことは……」
お兄ちゃんは地面から石ころを拾って、細長い丸に向かって投げる。向こう側に行ったように見えるのに、反対側から石ころが飛んでくることはなかった。どちらからやっても同じ。
「すげえ! これ、どっかにつながってんだぜ、きっと! ワープ装置だったりとか……もしかしたら、異世界への入り口とかさ、そういうの!」
ますます目を輝かせてる。わたしはというと、ますますこわくなっていた。
だって、おかしなことが起こってる。これって、どういうこと? 投げたはずの石ころは、どこに行っちゃったの?
「もうやだよ、こわいよ! だれか呼んでこよう?」
「なんでこわいんだよ、楽しいじゃん!」
もう、完全に意見が食いちがってる。わたしだけでも帰りたかったけど、ひとりで帰るのもこわい。ここだけじゃなくて、そこらじゅうにこんなのがあったらどうしよう? もしこのなかに入っちゃったら、どこに行っちゃうんだろう?
「ブラックホールとか、そういうのじゃないの?」
本当のところ、意味はよくわかってなかったけど、そういってみる。お兄ちゃんは、ちょっとだけ考えるようにだまったけど、今度は身を乗り出した。
「見てみよう」
「──っ?」
頭がくらくらした。正気じゃない。マンガとかの読みすぎなんだ、ぜったい!
「やめようよ、なにかあったらどうするの」
「平気だよ。ちょっと見るだけ」
お兄ちゃんが、細長い丸に顔を近づける。今度はためらわずに、ぐいと顔を突っ込んだ。
「おわ!」
お兄ちゃんがよろめいた。わたしは思わず、リュックサックをつかむ。
「お兄ちゃん!」
なにかに引っ張られるみたいに、からだが前のめりになった。それから、足が浮いたみたいになって、どっちが上なのか下なのか、よくわからなくなる。たぶん、宙返りしたんだと思うけど、どうなったのかはよくわからない。
「──!」
「う、わ──!」
わたしもお兄ちゃんも、上手に悲鳴をあげることもできない。もちろん、目だって開けられない。ただ、浮いたんだと思ったのは一瞬で、ジュースの缶のなかに入って思い切り振られてるみたいに、からだがあっちこっちに行ったり来たりした。そういう、感覚になった。
こわいとか、どうしようとか、そんな感情は追いついてこなかった。なにもわからなくて、ただ、お兄ちゃんのリュックサックに、両手でしがみついていた。これだけは離しちゃいけないと思った。
急に、どすんと、衝撃がはしった。
からだのどこから落ちたのかはわからない。でも、落ちたってことだけはわかる。
世界が動かなくなって、でも頭はくらくらして、なにがどうなったのかわからない。しばらくたって目を開けて、リュックサックの向こうにお兄ちゃんの頭が見えて、身体中の息を吐き出した。
よかった。
本当はなにもよくなんかないけど、わたしはそれだけで、安心してしまった。
「いってぇ……なんだ、どうなったんだ」
ネコみたいに頭を振って、お兄ちゃんが起きあがろうとする。どうしてこういうことになったのか、わたしはお兄ちゃんの背中の上に乗っかってしまっていて、あわててどいた。
どこも痛くないけど、それってもしかしてお兄ちゃんがクッションになったってことなのかな。でも、お兄ちゃんも、痛いっていっているわりには平気そうだ。
「ここ、どこだ」
ぽつりと、お兄ちゃんがつぶやいた。
わたしは、その声でやっと、いまがどういう状況なのかを思い出す。そうだ、あの穴に入っちゃったんだ。
「……なにこれ」
そこは、まちがいなく、あの細長い丸の向こう側じゃなかった。見知った公園ですらなかった。
わたしたちは、一面の白い花の上にいた。
見たことのない花だ。大きな白い花と、深い緑の、丸い葉。花も葉っぱも、なんだかきらきら光っていて、こわいぐらいにきれいだ。
「わたしたち、死んじゃったのかな」
死んだら花畑に行くって、なんかで読んだことある。たしか、花畑の向こう側に川があって、それは絶対越えたらいけないんだ。
「ばっか、そんなわけないだろ。死んでたら痛くねえだろ」
「でも、だって、じゃあここどこ?」
「落ち着けよ。落ち着け」
お兄ちゃんは、自分にいい聞かせてるみたいだった。わたしの手を、ぎゅっとつかむ。
そうだ、落ち着こう──わたしは、息を思い切り吸って、できるだけゆっくり吐き出した。考えたくないけど、もし、もし本当に死んじゃったんだとして、それでもこうやってここにいるんだから、どうにかしなくちゃいけない。
「そうだ、あの丸いの、またあそこに入ったら帰れるんじゃないかな」
落ち着いたら、名案が浮かんだ。お兄ちゃんが首を横に振る。
「でも、ないじゃんか。それはむりだ。……たぶん、どっか別の場所に来ちゃったんだ。だれか人に会えれば、どこかわかるかも」
別の場所──つまり、ワープしちゃったってことだ。そんな夢みたいな話、あるわけないよって笑いたかったけど、ここがあの公園じゃないのは本当だから、なんにもいえなくなってしまう。
わたしは、ぐるりとまわりを見た。ずっと遠くのほうに、木がたくさんあるのが見えるけど、そこまではひたすら花畑だ。こんな広い花畑、テーマパークにだってない。上を見ると、空はちゃんと青いけど、雲はひとつもない。
これだけ広いのに、わたしたち以外にはだれもいなかった。だれかに会えれば、それだけで不安じゃなくなるのに──そう思って、あ、と思いつく。
携帯電話!
「お兄ちゃん、電話! 電話してみようよ!」
「あ、そっか、ケータイ!」
お兄ちゃんは急いでしゃがんで、花畑を探り始める。手を放しちゃってたみたいだ。
でも、お兄ちゃんよりも、わたしが先に見つけた。花畑のなかで、ピンクに光るママの携帯電話。
期待に胸をふくらませて、通話ボタンを押そうとする。
けど、だめだった。
「圏外……」
もう、泣きそうになった。
「ちょっと貸してみろ」
お兄ちゃんが、わたしの手から携帯電話をさらってく。真剣な顔で、ボタンを押し始めた。
どうするんだろう。圏外なのに。
ふしぎそうに見ていると、聞く前に答えてきた。
「ほら、ここがどこなのかわかるやつってあったじゃん。車のナビみたいな」
「それって、圏外でも使えるの?」
「知らないけど」
そもそも、どのボタンを押せばできるのかもわからない。これでもない、こっちでもない、とあれこれ試すお兄ちゃんと一緒になって、わたしも画面を見る。
いまのわたしたちにはこれしかなかったから、もうほかのことなんて、ぜんぜん見えてなかった。ずいぶん長い時間、夢中になって、携帯電話をいじり続ける。
だから、いつのまにか、すぐ近くに人が来ていることにも気づかなかった。
「──動くな」
突然、氷みたいに冷たい声がして、わたしたちは本当に動けなくなった。
声は、すぐうしろから聞こえた。
「両手をあげて、ゆっくり、こちらを向け」
まるで、ドラマみたいなセリフ。逆らおうなんて思うはずもなかった。本当にドラマみたいに、ピストルがつきつけられてたらどうしよう──そんなことを思いながら、両手をあげ、恐る恐るふり返る。
「うわ!」
「……っ!」
お兄ちゃんは叫んだけど、わたしのは声にならなかった。
すぐ目の前にあったのは、ピストルじゃなかった。
──剣。
まちがいない。実物なんてもちろん見たこともないけど、ファンタジー映画なんかで見る剣の先っぽが、わたしたち二人からほんの数センチのところにあった。
それは、映画やテレビアニメで見て想像するよりも、ずっと大きくて、ずっと分厚くて、なんていうか……こういういいかたはおかしいけど、ずっと本物らしかった。銀色の刃は、ぴかぴかはしていなくて、ママが毎日必ずつけてる結婚指輪みたいにくすんでる。
だからこそ、使い込まれてるって感じがして、ぞっとした。
なにかの冗談ではないってことは、すぐにわかった。
「……ニンゲンが、この地へなんのようだ」
冷たい声がそう問いかけてきて、わたしはやっとその人物を見る。そしてすぐに、もうびっくりしすぎて、どうしていいんだかわからなくなった。
剣を片手でつきつけてきているのは、とてもきれいな女の人だった。茶色の布を巻きつけたかんたんな服を着ていて、肩や足はむき出しになっている。
でも、問題は、そんなことじゃない。
目を奪われたのは、耳だ。
頭の高い位置から、上に向かって伸びる、長い二本の耳。すすけてしまっているけれど、まるでおとなりの犬みたいにふわふわの、白い耳。
どう見ても、ウサギの耳だった。
わたしはわけがわからなくて──実は、それからどうなったのか、よく覚えていない。
なんだか、うしろから思い切り殴られたみたいに、どすんっていうのがあって、あとのことはわからなくなった。
どうやら、気絶しちゃったみたい。