第五話 プールに備える回
「ダメだったお」
「「「「………………」」」」
四人でカラオケに行った日の翌々日。俺たちを理事長室に呼び出した奴の第一声はそれだった。取り敢えず殴っていいだろうか。
「ちょっ、無反応はひどくない? 俺だって頑張って若者に寄せてるんだよ?」
その成果がそれなのだとしたら、アンタの若者像は百八十度間違っている。
「……で? 何がダメだったんです?」
しかし黙っていても話が進まないので、仕方なしに尋ねてやる。
「そりゃアレだよ、プールの授業ぶっ潰そう計画。悠輝から聞いてない?」
「……あー、そう言えば」
カラオケの時にそんなこと言ってたな。別に期待はしてなかったし興味もなかったから、すっかり忘れてた。案の定ダメだったのか。
「『俺は男の水着なんて見たくない!』と理事会とか生徒会に主張してみたんだが、何故か上手くいかなくてな」
((((いや、理由明白だろ!))))
なんだその最低で低俗な理由は。今更だが本当にコレが理事長でこの学校は大丈夫なのか。
「というわけで、今年もプールが行われてしまうのが確定した。これがどういう事か、お前らならわかるな?」
「……まあ」
この場にいる四人の男子生徒のうち、実に三人が男装女子だ。その三人が男子校でプールの授業となると……うん、駄目な想像しか出来ないな。
「……お前今、男性用水着しか履いてない孫娘の姿想像しただろ。殺すぞ?」
「横暴にも程がある!」
そ、そんな想像なんてしてないやい。だからお前ら、その冷たい視線やめろ。
「……まあ、正直理事長的には、プールの授業全部見学してくれるのが一番安心というか、それ以外は認めたくないんだが……お前はどう思う、前橋?」
「一人称が『理事長』は流石にちょっと……」
「そういう事を聞いてるんじゃ無いよ!」
あれ、違ったか。隣の三人も全面同意してくれてたんだが……。
「……同じ生徒の立場から見て、ずっとプールを見学している男子生徒をどう思うのかが聞きたかったんだよ。というか、分かっててわざとボケたろ」
バレたか。仕方ない、マジレスしてやろう。
「うーん……まあ、気にしない奴は気にしないでしょうけど……ちょっかいかけてきたり弄ってきたりする奴もいるかもですね。あるいは、何か事情があるんじゃないかと勘繰られる可能性もあります。安全度としては五十%くらいかと」
毎回見学でも怪しまれないようなうまい理由でも思い付けばそれがベストだが、俺には妙案は思いつかない。怪我でもした事にするのが手っ取り早くはあるが、その場合プールの授業以外の日常生活でも怪我した体で動かなければいけないので、ボロが出やすくあまりオススメは出来ない。怪我してるはずの手をうっかり使ってしまったりとかは全然やってしまうだろう。仮病がバレた時のリスクも高いので、やはりこの案は無しだ。
「そうか……まあ、徒らに注目を集めるのも良くは無いからな。より安全に回避できるならそれに越した事は無い。だが……その感じだと現状策なしか」
「そうなりますね」
なんだかんだでプール開きも二週間後くらいに迫っているので、そろそろ真面目に策を練らなければいけないな。理事長にはやはり期待できそうにないし。
「……なあ、前橋。お前今、心の中ですっげえ暴言吐かなかった?」
「んなわけないじゃないですか」
……さっきからこの読心スキルはなんなのだろう。シンプルに怖い。
理事長の話を聞き終えて部室こと剣道場へと戻ってきた俺たちは、早速プールの授業に対する策を練り始める。
「……で、今のところマジで無策なわけだが、どうしようか」
「どうしようか、って……それを考えるのがサポート役の前橋の仕事だろ?」
「だとしても丸投げはないだろ。当事者なんだからお前たちも意見くらいは出してくれ」
頭脳労働が嫌いな高崎が全てを俺に押し付けようとしてくるので、溜息混じりにそう返す。人任せにして後で困るのはお前なんだぞ。
「そうは言ってもねー。私もこんな特殊な経験は初めてだから、一体どうしたらいいのやら」
「そんなん俺だって初体験だわ!」
一体どこの世界に『男装女子だとバレずにどうやってプールの授業を切り抜けるか』なんて考えたことある奴がいると言うのか。いるなら出てこい。そして解決案をくれ。
「さっき理事長も言ってたように、全部見学じゃダメなのか? 広人は反対っぽかったけど、俺は別にそれでもいい気がするんだが」
「見学の理由が作れるなら構わないとは思うんだけどな。二週間後のプール開きから夏休みまでの五週間×週三授業の計十五回。つまり十五回分の見学の理由が必要だ。毎回毎回体調不良とか言ってたらまず怪しまれるだろうな。サボりたいだけじゃないのか、って」
しかも、この学校のプールは屋内だ。雨天中止も期待できない。
「十五回分……そう聞くと、確かに見学が良案には思えないね。それに、体育の成績の事を考えても、全部見学は良くないかも」
館林が俺の意見に賛同する。なるほど、確かにそういう視点から見ても得策じゃないな。体育の成績なんてとうの昔に捨てているのでその発想は無かった。
「そうなると、方針としてはバレないようにどう参加するか、ってことになるわけだが……無理じゃね?」
「「「無理だな(だね)」」」
百歩譲って、つるぺたの楓ちゃんはどうにか誤魔化せるかもしれない。だが、普段はサラシで押さえつけてどうにか隠している高崎と館林はどうやったって無理だ。サラシを晒しながらプールに入るわけにもいくまい。
「くだらないこと言ってる場合か。あとつるぺたとか楓ちゃん言うな」
うん、流石に今のは自分でも無いなと思ったよ。だからよりによってその部分が口から勝手に漏れるのは勘弁して欲しかった。つるぺた楓ちゃんについては特に反省なし。
「でも、実際前橋君の言う通りだよね。学校指定の男の人用の水着だと、上半身はどうやったってノーガードになるし。これが水着自由で全身を覆うようなウェットスーツ的なのでも許されるなら、耐水性のあるさらしをつければ案外いけるかと思ったんだけど」
「あー……最近はそういう水着もあるのか」
そうなるとネックになるのは、学校指定の水着という点か。
「……そのくらいなら、理事長の権力でどうにか出来そうじゃね?」
「あっ、確かに! 水泳の授業自体は潰せなくても、学校指定の水着の撤廃くらいならおじいちゃんでも出来そう!」
孫娘の祖父に対する評価低くね? いやまあ、アレが祖父じゃ仕方ないか。でも、これならいけそうな気がしてきたぞ。
「……いや、待て悠輝。その場合……あたしたちはどうやって着替えるんだ?」
「「「あっ……」」」
冷静な高崎の指摘に、三人揃って間抜けな声を漏らす。そうだ、着替えの存在をすっかり忘れていた。こればっかりは水着の種類とかで乗り切れる問題じゃない。コソコソと着替えるのにも限度があるし、そもそも他の男子生徒と同じ空間での着替え自体がリスキー過ぎる。体育の授業は館林の二組と高崎の五組が合同で行うから、三組の俺や楓がサポートに入れる訳でもない。女性教員用の女子更衣室も一応存在するが、そんなものを利用すれば一発で怪しまれるだろう。つまり、この『着替え』という高い壁を越える手段は存在しない。できれば授業に参加する方向で策を練っていたが、そもそも参加なんて出来なかったわけだ。とすると、もはや話の焦点は如何に十五回の授業を見学する理由を考えるか、という事になる。
「……ちなみにさ。桐生って元々水泳部で、今は休んでる状態なんだよな?」
「ん? ああ、そうだよ。流石にこの身体で部活に参加するわけにはいかないからな」
「なんて理由で休んでるんだ?」
「『吉岡の実験台にされた結果、しばらく水泳出来なくなった』って言うと、誰も詮索せずに憐れんでくれる」
「「「あー……」」」
確かに、そう言われるとあまり関わりたくない感じにはなるな。あの吉岡ならそれくらいやってしまいそうだし、自分まで実験台にされてしまうのは勘弁だから、深入りはせずに納得してしまう人たちの気持ちは十二分にわかる。吉岡便利だなおい。……だが、これは使えるかもしれない。
「……それなら、授業の見学の理由も全部吉岡のせいにするのはどうだ? あるいは理事長でもいいが。それなら余計な詮索もされにくいだろうし、嘘も言ってない。デメリットは吉岡たちの評判が下がるくらいだが、今更ちょっと下がったところで大した影響はないだろ」
我ながら名案だ。元はと言えばこんな状況になったのは主にアイツらが原因なわけだし、見学の理由を押し付けるくらいしてもいいだろう。むしろ正当な権利だ。
「そっか、部活休むのと同じ理由でいいのか。確かにそれなら怪しまれずに乗り切れそうだな」
「吉岡とか理事長の評判は死ぬほどどうでもいいしな」
「確かに、それなら丸く収まりそうだけど……でも、勝手にいいのかな。口裏を合わせる意味でも、吉岡先生に了承取った方が良くない? おじいちゃんの方は、私から言っておくから」
「あー……確かに、勝手に名前を使って向こうににボロを出されても困るからな」
簡単な説明くらいはしておくべきか。だが、そうなると……。
「で、誰が吉岡に説明しに行くんだ?」
「「「………………」」」
誰も、返事をしなかった。代わりに苦い顔を返してくる。まあ、進んで会いに行きたくはないよな。変な実験に付き合わされる羽目になるかもしれないし、そうでなくても普通に変人だ。理事長に対して「あい」とか返事をするような奴と一対一で話したくはない。全員で行く、あたりが妥協点か。
と、俺の中の結論を口にしようとした時、三人が口を開いた。
「わ、私はおじいちゃんに説明するから、他のみんなにお願いしたいなー」
「そ、それならあたしだって! バレるリスクとかを考えたら必要以上に校舎内をうろつきたくはない!」
「俺も、あの人と顔合わせたら殴っちゃいそう。前の時は、理事長とかの手前どうにか耐えたけど」
三者三様に、行きなくない理由を口にした。……え、何この流れ。俺が一人で行く流れなの? いや待てそれは違うだろう。実際に見学のダシに吉岡を使うのはこの三人なのに、俺が一人で行くのはおかしいだろう。
「というわけで、頼んだぞ広人」
「頼んだぜ、前橋」
「ごめんね前橋君。お願い」
「マジかよ……」
なんか、既に断りにくい空気が形成されていた。そこ三人で結託するのはずるいだろぉ。
「はぁ……」
まあ、仕方ないか。こいつらの言い分もわからない事はない。男装して学校生活を送ってるんだ、俺には分からない苦労とかも色々あるんだろう。楓なんかは大好きな水泳が出来なくなってるわで、フラストレーションも溜まってるみたいだったし。事情を知ってしまっている分、こういう時断りにくい。ほんと、面倒な事に巻き込まれたもんだ。
面倒な仕事は先に片付ける主義なので、方針が決まったその足で俺は化学準備室へと向かっていた。そこが吉岡の根城だともっぱらの噂だ。
存在確認も兼ねて、一応扉をノックする。
『あーい。どぞー』
帰ってきたのは適当な返事。相手が生徒じゃなくて目上の人だったらどうするんだ……ってそうか、理事長相手でもこういう態度の奴だった。
「失礼しまーす」
向こうが適当なのでこっちも適当でいいやと思いつつ、雑な挨拶をして室内に入る。中は予想通りというか、どちゃくそ汚かった。メモ書きやら本やら論文やらが所狭しと散乱した、いわゆる「研究室」みたいなイメージ。見事なまでの私物化である。そのくせ薬品などの入った棚はキッチリと整頓されていて鍵もかけてある辺りは、腐っても化学教師か。
「……お? キミは……どっかで見たっスね。一年スか?」
「……一年三組の前橋広人だ。授業でも顔合わせてるし、理事長室でも会ってるぞ」
この人相手に敬語はいらないと判断し、雑に返す。
「ああ、桐生ちゃんの幼馴染くんスね。桐生ちゃん、最近水泳部来てないけど元気してるっスか?」
「部活に顔出せなくなったのはアンタのせいだし、そのおかげで結構苦労してるがな」
あと、本人に向かってその呼び方使ったら間違いなくタコ殴りにされるぞ。幼馴染の俺でさえ毎度口やかましく注意されるんだからな。
「奇跡的な実験成功例だから本当はもっとじっくり観察とか研究したいんスけどねー。給料半額を突きつけられたら流石のあたしも真面目に働かざるを得ないっス」
「元に戻す薬は出来そうなのか?」
「前も言ったけど、ありゃ偶然の産物なんスよ。現物も残ってないし、正直手掛かりはゼロっす。桐生ちゃんにはもうしばらく女の子生活を楽しんでもらうことになるっスね」
「あそう」
期待はしていなかったが案の定か。まあ、今はそれはいい。いや桐生ちゃん的には良くないんだろうが、今日ここに来た目的はそれじゃない。
「実はその桐生ちゃんが女の子になってしまったことで、現在プールの授業が大ピンチなんだ。桐生ちゃんだけじゃなく、館林と高崎もだが。で、その三人には全部見学させるのが一番安全だって結論になったんだが、当然毎度毎度見学する理由がいる」
「なるほど……その理由をあたしに押し付けようってことっスね。別に構わないっスよ。今更一つ悪い評判が増えたところで大差はないっスからね」
自分の評判が悪い自覚あったんだな。そういうのは気にしていないと思ってたんだが。いや、悪いと知っていながらコレなんだから結局気にしてないのか。
「キミはわざわざそれをあたしに伝えに?」
「勝手に名前を使って、アンタが何か聞かれたときにボロを出されても困るしな」
「ああ、そういう……それなら大丈夫、何か聞かれても適当言って誤魔化しておくっス。可愛い教え子の為っスからね。それに、女体化云々が明るみになって困るのは私も一緒っス。……給料半減では済まなくなるかもしれないし」
絶対そっちが本心だろ。まあ、この人の給料がなくなって桐生ちゃんを元に戻す薬の開発が出来なくなっても困るので、どんな理由であれ汚名を引き受けてくれるのであればいいだろう。あと、いい加減スッスうるさい。
「……あたしが言うのもなんだけど、アンタ教師に対して中々な物言いするっスね……中々興奮するじゃないっスか」
マジか、今悪癖発動してたのか。まあ、この人相手なら別に心の中の暴言を聞かれても別に問題ない気はするが……え、なんで興奮してるの? なんで鼻息荒くなってんの? 生徒に罵倒されて悦ぶタイプの変態ドМなの?
「前橋広人……うん、覚えたっス。いいセンスを持ってるみたいだし、これから定期的にあたしのことを罵倒してくれてもいいっスよ?」
「しねえよヴォケ」
「ああっ、シンプルな罵倒が気持ちいいっス!」
駄目だコイツ早くクビにしないと。というか、この学校の教師は属性過多じゃないと採用しない方針でも掲げているのだろうか。藤岡先生といいこの吉岡といい、極めつけはあの理事長と、キャラが濃すぎるだろこの布陣。この三人だけで属性何個付いてんだ。この分だと他の普通に見える教師たちも何らかの隠し属性を持っているんじゃないかと疑わざるを得ないぞ。
「とにかく、用件は伝えたんで。俺は帰ります」
「あ、待つっス。あたしの連絡先教えとくっスよ。用がある度に毎回科学準備室まで来てもらうのは結構大変っスからね。まあ、あたし的にはメッセージでの罵倒よりも直接罵倒が聞ける方が興奮するんスけど」
「ありがとうございます。次から用があるときはメッセージで連絡しますね」
「そういう冷たい対応もいいっス!」
駄目だ早くこの場から撤退しないと。この変態に付き合っていると日が暮れる。マジで次からはメッセージだけのやり取りにしよう。でないと俺は反射か悪癖で絶対にこの人に暴言吐くし、それをするとこの変態が興奮するだけだし。
変態から逃げるように早歩きで剣道場に戻ってくる。まだ鍵は開いていたので、俺がいない間に勝手に解散したみたいな悲しいことは起こってないらしい。
「あ、広人。おかえり、首尾はどうだった?」
「了解はもらった。今更悪い噂が増えたところで大差ない、ってさ」
むしろ悪い噂が増えて興奮しているまであるな、あの変態なら。
「吉岡先生っぽいね、なんか……」
「世間体とか気にしてなさそうだもんな、アイツ」
「館林の方はどうなんだ? もう理事長に連絡したのか?」
「うん、さっき電話したよ。最初はブーブー文句言ってたけど、私が『お願い♪』って言ったら快く了承してくれたよ」
「もはや脅迫の域だな……」
相変わらず孫に激甘なジジイだ。これが頼んだのが俺とか楓とかだと了解取るまでにもっと時間がかかったんだろうな。
「でもまあ、これで二人の了承が得られたわけだから、プール問題は解決だな」
「だね。一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなりそうで良かったよ」
「あたしはできれば泳ぎたかったんだけど、まあこういう状況じゃ仕方ないか」
「俺も泳ぎたかったなー。今の状況がバレるよりはマシだと納得するしかないか……」
こうして、プール対策会議はなんとか無事終了した。約二名が不満の声を漏らしていたが、本人たちも言っていたように状況が状況だから仕方がないだろう。プール回が来ると思っていたそこのお前、残念だったな。お前が見られるのは俺の水着姿だけだ。たっぷり想像して萎えてくれ。
プール対策会議の終了と同時に今日は解散となり、楓と共に寮室まで帰ってくる。
「それにしても……あー、見学かー。やっぱり嫌だな」
部屋に着くなり、夕飯の準備に取り掛かるため自前のエプロンを装着しながら楓が不満げに呟いた。
「そんなにか? 俺は授業サボれて正直羨ましいくらいだが」
「自分の好きな競技の授業に参加できないとか最悪だろ。面倒な授業ばっかりの中で珍しく楽しい時間なのにさ。しかも、ケガとかで参加できないならまだしも理由が女体化だからな。俺のせいでもないし、成績にも響くし、見学だから目の前で楽しそうに泳ぐ奴らを見てなきゃいけないし。もう最悪だ」
「不満爆発だな……楽しい授業なんて一つもない俺にはよくわからんが」
エリート帰宅部的には体育の授業なんて全部「最悪」で括られるし、かといって別に頭脳派でもないので普通の授業だって全部楽しくないし面倒くさい。極論、学校が面倒くさい。……俺は何で学校に通ってるんだ?
「広人にもわかるように言うなら……そうだな。放課後になってクラスのみんなが楽しそうに帰宅していく中、広人だけ帰宅できない感じだ。しかも原因は広人自身じゃなくて、担任が広人を気に入って広人にだけ追加課題出されて今やらされてるみたいな」
「え、なにそれ最悪じゃん。翌日から登校拒否不可避だな」
「俺の気持ちが理解できたようで」
「なるほどな……」
プールの授業を見学しなければいけない楓の気分はこんな感じか。確かに最悪だ。愚痴の三つや四つ言いたくなるのも頷ける。そりゃあ、元凶の吉岡と顔を合わせたら殴りたくもなるな。いやでもアイツ、殴られたら悦ぶよな。あれ、もしかしてウィンウィンの関係か?
「……え、何その不穏な情報。あの人マゾかなんかなの?」
「あー……聞かなかったことにしてくれ」
「いや無理だけど!? めっちゃ気になるから無理だけど!?」
ついに悪癖が他人の性癖まで暴露してしまった。それ自体は由々しき問題だし早々に解決するべきだが、まあバレたのが吉岡の性癖だからいいだろう。あまり気にしなさそうだしな。
「で、話を戻すが」
「びっくりするぐらい強引だな……まあ、いいけど」
「その最悪な気分、授業十五回分耐えられそうか?」
「無理だな。断言する。ただでさえ水泳部に行けなくなってから一ヶ月以上泳げてないんだ、多分数回も持たずに不満が爆発する」
「DAYONA」
俺も追加課題が十五日分とか言われた日には国外逃亡を企てるレベルだ。今からパスポートを取得しておこう……って、そうじゃなくて。
「それじゃあ駄目だな……不満が爆発して「俺にも泳がせろ!」とか言いながらプールに飛び込まれたら全部台無しだ」
「やらないって確約はできないな」
「いや、楓は間違いなくやる」
「お前が断言すんなよ!」
いや、なんだかんだずっと一緒にいる幼馴染なんだ、行動くらい読める。楓は間違いなく飛び込む。なんなら律義に服を脱いで飛び込む可能性が高い。そうなったらジ・エンドだ。そうなる前に楓の水泳欲求を解消しなければいけない。さて、どうするのがいいか。
一つパッと思いついたのは、吉岡の職権乱用だ。水泳部の顧問をやっているあの人なら、当然屋内プールの鍵も管理しているだろう。それを利用して、ほかの生徒が使わない時間に屋内プールを使わせてもらう方法だ。かなりいい案に思えるが、ネックになるとすればやはり学校内ということだろう。誰かが何かの理由でやってくる可能性をゼロにはできない。それと、プール内の防犯カメラも誤魔化せない。理事長に頼んで何とかしてもらうことはできるかもしれないが、さすがに防犯カメラにまで干渉するのはやめた方がいい気がする。他に手段が思いつかない場合は最悪この案を使うことになるかもしれないが。
他だと……まあ、学外に出るしかない。他の生徒がまず来ないであろう少し遠めのプールに遊びに行って泳ぐしかない。この案の欠点は桐生ちゃんに女物の水着を着てもらうことになるという点だが……さて、どっちの方がましだろうか。
「楓はどっちがいいと思う?」
「は? なにが?」
……今のは口から洩れてないのかよ。説明省略できるかと思ったのに、迷惑な時にしか発動しないやつだな。
「お前の水泳欲求の解消法だよ。一つは水泳部顧問の吉岡に頼んで他の人が使わない時間帯の屋内プールを使わせてもらう方法。この方法の場合結局は学校内だからそれなりのリスクはあるのと、理事長に頼んでプールの監視カメラを誤魔化してもらう必要がある。もう一つはここから遠いところのプールに行って泳ぐ方法。この方法の場合公共空間になるから、桐生ちゃんには女物の水着を着てもらうことになる」
「そんなの一択に決まってるだろ! あと桐生ちゃん言うな!」
「なるほど……やはり女物の水着が着たかったか」
「そうじゃねえよ真逆だよ! 女物の水着なんて死んでも着たくないんだから最初の案の方に決まってるだろ! 吉岡と理事長のせいでこうなってるんだからそれくらいしてもらうのは当然の権利だ!」
「まあ、確かにそれはそうだな」
となると問題はやはり防犯カメラをどうにかできるかどうかか……館林経由で理事長に頼んでみて……いや待て、そもそもの話だが、吉岡は本当にプールの鍵の管理とかやってるのか? 科学準備室はあの有様だし、本人もあんな感じだ。もし俺が責任者だったらあんな奴に鍵の管理とか任せたくない。実際に管理能力があるかどうかは別として、なんかこう、心情的に嫌だ。
理事長よりも先に、吉岡に確認を取るべきか。せっかく連絡先も交換したことだし、ここは活用させてもらおう。
「ちょっと吉岡に確認してみるから、夕飯でも作って待っててくれ」
「…………え。広人お前、吉岡と連絡先交換したの……?」
「ああ。毎度科学準備室に来るのは面倒だろうからって」
「マジか……水泳部でも誰一人として知らないぞ、吉岡の連絡先なんて。まあ、知りたいと思ってるやつも別にいないけど」
「ふーん」
それはつまりあれか、俺が罵倒要因として吉岡にかなり気に入られてしまったということか? 死ぬほど嬉しくない情報だな。
「まあ、すぐに連絡が取れるなら任せたよ。俺は一日でも早く泳ぎたい」
「了解」
ややげんなりしつつ、メッセージアプリを起動して吉岡に向けてメッセージを打つ。
『桐生ちゃんの水泳欲求解消のために、他の生徒が使わない時間に屋内プールを使わせてもらうことは可能か? プールの鍵の管理を任されているなら頼みたいんだが』
メッセージを送ってから約一分後、想像よりも早く回答は返ってきた。
『うちの学校は全寮制の私立高、親からすれば高い金払って子供を預けてるわけっスよ。当然その分、セキュリティは厳しくなるっス。どの学内施設の鍵も保管室でしっかり管理されていて、特定の時間までに鍵が返ってこないとアラートが出る仕組みになってるっス。屋内プールの場合は水泳部の活動終了から三十分後の十八時までに保管室に鍵を返さないとアラートが出て、あたしが始末書を書かされることになるっス。で、十八時以降は保管室自体が閉められて鍵を持ち出せなくなるから、前橋くんのお願いは叶えてあげられそうにないっス。桐生ちゃんには別の方法で欲求を解消してほしいっス』
いや一分で何文字打ってんだよ。タイピング能力JK並かよ怖えよ。あとメッセージでもスッスうるせえ。そんでもって結局無理なのかよ。なら最初からそう言え、そうすればこんな長文読む必要なかったのに。
「吉岡に聞いたら、十八時以降は鍵持ち出せないから無理だってさ」
とりあえず、確認結果をキッチンで包丁を振るう料理人に伝える。
「マジかよ……使えないな、吉岡」
「いやコレに関しては別に吉岡悪くないと思うが……」
学校のセキュリティ上仕方がないわけで。
「じゃあ、そうなると……俺が泳ぐためには女物の水着を着て遠くのプールに遊びに行くしかないのか……」
「そういうことだな。泳ぐのを我慢するか、女物の水着を我慢するか。俺としてはこれ以上泳げない不満を溜める方が危険だと思うから、女物を我慢してでも泳ぎに行くべきだとは思うが……まあ、決めるのはお前だ」
「ぬぐぐぐ…………ぬおおお…………うががが…………。…………わかった。死ぬほど嫌だけど、泳げないよりは幾分かマシだから……女物着て、プール行く」
壮絶な葛藤の末、楓は一つ大人になる決断をしたようだ。今からカメラの練習をしておこう。
「そうか。そうなると、まずは水着を買いに行かなきゃだな」
「あ、そっか……それはそれで地獄だな……」
「館林たちにもついてきてもらうか?」
「うんそうだなそうしよう。なんならプールにもついてきてもらおう。そうだそれがいい」
軽いノリで提案したのだが、まさかそんなに食いつくとは。でもまあ、確かに事情を知っている人が多い方が安心は出来るだろう。よく考えたら、楓一人で女子更衣室に特攻させるのは羨ま……こほん、心配だしな。
「……なあ、お前今クソみたいなこと考えなかった?」
「考えてねえよ」
俺の周り心読めるやつ多くね? これじゃあ悪癖直しても意味なくね?