衝撃のプロローグ
「……ごめん、今なんて?」
高校入学一年目の五月のある日曜日、学生寮の一室にて。俺、前橋広人は、突然変なことを言いだした幼馴染兼現在の寮のルームメイト、桐生楓にそう尋ね返す。
「だーかーらー!」
楓はイライラしているのか少々声を荒げながら、先程と同じセリフを口にする。
「俺、女になっちゃったんだよっ!」
「………………」
スマホを手に取る。
「……あ、もしもし、警察ですか?」
「黙って通報すんなよ! 俺不審者じゃねえから! ふざけて言ってるわけじゃねえから!」
楓が必死の形相で携帯を奪おうとするので、俺は電話をかけるフリをやめて話を聞いてあげることにする。
「……で? なんだって?」
「だから、女になっちゃったって何度も言ってるだろ!」
「ふーん……」
「ふーん……って、リアクションそんだけ⁉ 俺の勇気を出したカミングアウトに、リアクションそんだけ⁉」
「お前、さっきからうるさいぞ」
「誰のせいだよ、誰の!」
楓の文句が止まらないので、いい加減真面目に話を聞くことにする。
「女になっちゃった、って言われてもな……」
俺は目の前に座る楓を改めて観察する。特に変わったところは見当たらない。俺たちの通う学校の制服に身を包んだ、いつもの楓である。
「見たところ、普段と変わりないぞ?」
「……見た目は、な……」
遠い目をした楓は、俺の腕を掴むと自分の股下の方に誘導していく。え、ちょ、なにコイツ、変態っ? と戸惑っている間に、腕が股間に触れる。違和感。……そこにあるべきものが、存在しない。
「……分かって、もらえたか……?」
「……お、おう」
死んだ眼で尋ねてくる楓に、俺は引きつった声で返答するしかなかった。マジで女になっちゃってるじゃん、これ。絶対ネタだと思ってたから脳の処理が追いつかないんだが。
「……ちなみに、いつからだ?」
「……ついさっきだ。広人がトイレに行ってる間に、突然……」
トイレって……俺、一分くらいで戻って来たぞ? その間に一体何が……。
「……何か、原因に心当たりは?」
「んー……強いてあげるなら、この貰い物のクッキーをつまんだくらいだ」
楓がテーブルの上にある包みを指さす。そこにあるのは今日のおやつに二人で食べようと思っていた貰い物クッキーだ。確か、楓がどこかで貰ってきたものだったはず。
「これ、誰から貰ったんだ?」
「化学の吉岡先生だ」
「よし、これが原因だな」
「即決⁉」
「ああ。議論の余地なしだ」
化学の吉岡と言えば、変な薬品の研究ばかりしていることが入学からわずか一カ月の新入生にまで知れ渡っているくらいには有名な先生だ。間違いなく今回のことの原因だろう。
「お前、吉岡と接点あったのか?」
週に二回の化学の授業でしか会わない吉岡からいかにしてクッキーを貰ったのかが気になったので、尋ねてみる。
「ああ。水泳部の顧問なんだよ、あの人」
「……なるほど」
そういう繋がりか。確か楓は水泳部だったもんな。
「取り敢えず、吉岡に文句を言いに行くか」
自分が顧問してる部の部員を実験台にするとか。いっそのこと理事長にでも報告しようか。
「あー、でも、今日水泳部の練習無いから学校にいないんじゃないか?」
「じゃあ、理事長に報告コースだな」
俺たちはおやつを中断すると、寮を出て学校に向かい、理事長室を訪ねる。
『あーい?』
軽くノックをすると、室内からとても理事長らしからぬ返答が返ってきた。まあ、この人は入学式の時からこんな感じだったので特にツッコまない。
「「失礼しまーす」」
二人で理事長室に入ると、理事長がデスクに突っ伏した状態でお出迎えしてくれた。まあ、こういう人なのでやはりツッコまない。
「一年四組の前橋広人です」
「お、同じく桐生楓です」
「あー、新入生か。で? どったの?」
「実は、こっちの楓くんが吉岡先生に変な薬を飲まされて大変なことになったのですが」
「……あー、ついにやっちゃったか、化学(黒魔術)の吉岡」
「ちょっと待ってください、その括弧の中にはさすがにツッコませてください」
黒魔術ってなんだよおい。確かにやってることはそれに近そうだが。
「…で、どんな風に大変になっちゃったん?」
「……そ、それは……」
理事長の問いに言いよどむ楓。まあ、言いにくいよなー。仕方ない、俺が代弁しよう。
「女体化しました」
「もうちょっと別の表現なかったか⁉」
「なんだと!」
女体化に反応したのか、急に立ち上がる理事長。そして楓のまわりをくるくるしながら観察し始める。
「……確かに、君のムスコの気配がないな」
((気配……⁉))
何で判断してんだ、アンタは。
「とすると、今の楓くんは女子なわけだな?」
「……まあ、はい。身体は、ですけど……」
「ふむ……とすると、少し困ったな」
少しなのかよ。アンタんとこの教師が教え子を女体化させてんだぞ。大問題じゃねえか。
「君たちも知っていると思うが……」
理事長はそこでいったん言葉を区切ると、元のデスクに着席し、顔の前で手を組みゲン○ウスタイルで告げる。
「うちは、男子校だ」
……いや、知ってるし。なんでそんなもったいつけたし。時間の無駄じゃねえか。
「原則として、女子が通うことはできない」
「そ、そんな……」
暗に退学宣言を受けた楓が真っ青になる。いや、いくらなんでも退学はひどいだろ。吉岡のせいなのに。
「……だが、私はこう思う。『別にバレなきゃいいんじゃね?』と」
……ああ、うちの理事長はこういう人だった。
「というわけで、取り敢えずは周りにばれないように今まで通り生活を送ってくれ。君を元に戻したりなんなりは、私が責任をもって吉岡になんとかさせよう。給料半減を突き付ければさすがに動くだろ」
……ご愁傷さま、吉岡。でも原因はアンタだから特に擁護はしないよ。大人しく給料半減をくらって働け。
「前橋も事情を知ってるわけだし、桐生ちゃんをサポートしてやってくれ」
「了解です。桐生ちゃんは任せてください」
「ちゃんづけやめて⁉」
理事長に乗っかって桐生ちゃんをからかっていると、理事長が「…あっ」となにかいいことを思いついたような表情を浮かべた。……なんか、嫌な予感。
「それで、桐生ちゃんを黙認する代わりと言ってはなんだが、一つ聞いて欲しいお願いがある」
予感的中。面倒事を押し付けられそうな流れだ。……だがまあ、桐生ちゃんを引き合いに出されては断るわけにはいかない。
「……何をすれば?」
「ちょっと調べて欲しい新入生が二人いる。一年二組の高崎葵と一年五組の館林悠輝だ」
「……理由をお伺いしても?」
「拒否する!」
「「力強い否定⁉」」
理事長相手に思わず声を上げてツッコんでしまった。
「まあ、取り敢えず理由は聞かないでくれ。後で話す。今は何も考えず二人について調べてくれればいい」
「「は、はあ……」」
これは、思った以上に厄介なことを引き受けてしまったかもしれない。
寮の部屋に戻りがてら、俺と桐生ちゃんもとい楓と理事長の『お願い』について相談する。
「調べてくれって言われてもなあ……何を調べればいいんだ?」
「さあ? そんなの俺にわかるわけないだろ。ちなみに楓は、その二人と面識とかあるか?」
「いや、そういうのは特に。名前も初耳だ」
「だよなー……」
調査は早くも手詰まりの様相を呈している。一応クラスは教えてもらったし、接触は出来ると思うが……。
「とりあえず、明日の朝か昼休みあたりに二組から行ってみるか?」
「そうだなー。それでいくか」
俺の提案に楓が同意し、一応の今後の予定は決定した。あとは、楓の女体化問題か。
「にしても、適当な理事長でよかったな、桐生ちゃん」
「桐生ちゃん言うな」
でも実際、いきなり女体化した生徒を普通に今まで通り学校に通わせるとか、そうそうないだろう。……いやまあ、そもそも女体化自体がねーよという指摘もごもっともだが。
「ばれないようにすれば問題ないってことだが……まあ、普通にしてたらばれないよな」
制服を身に纏った現在の姿は、以前の楓となんら変わりはない。胸の起伏も男子時代とまるで変わらないし。
「そうだな……胸が膨らまなかったのが不幸中の幸いか」
「……残念か?」
「んなわけないだろ⁉」
なんて話をしながら寮に戻ってくる。俺たちが住む学生寮は、学校の敷地の端に並んで建つ三つの学生寮のうち、最も南側にある建物だ。使用する寮は入学年度ごとにわかれており、現在一年生の俺たちの代はこの最も南の寮を三年間使うことになる。四階建ての建物の一階には食堂や共有スペースなどがあり、二階以上が寮室となっている。風呂は各部屋に備わっていて、この構造はどの寮も変わらない。寮室は全て二人部屋の2DKで、各自の部屋と共有スペース、という感じ。ちなみに部屋割りは理事長が独断と偏見で決めたものらしい。そのためか、俺たちの様に今までの関係が考慮されて同室になっているというパターンが結構ある。そういうところはいい理事長なんだがな。
階段を四階まで上がると、廊下をしばし進んで四一一という部屋の前までやってくる。ここが俺たちの部屋だ。楓が鍵を開けて中に入り、俺もその後に続く。
「はぁー……」
楓が大きく一息つく。恐らく、寮の中ですれ違う同級生たちにばれやしないかとヒヤヒヤしていたのだろう。だから、制服着てたら見分けつかないっての。実際ばれなかったし。
「そこまで神経使わなくていいんじゃないか?」
「それはまあ、そうなんだろうけどさ……結構怖いぞ? 広人もなってみれば分かるよ」
「お断りだ」
言いながら、テーブルに置きっぱなしになっていた例のクッキーを処分する。うっかり食べて俺まで女体化するわけにはいかないので厳重に袋で密封しダストシュート。まったく、こんなものを寄越した吉岡には文句を言わねば。今日はいないらしいから、明日あたりにでも水泳部に殴り込みに行こうか。……って、そうだ。
「楓。お前、水泳部はどうするんだ?」
「え? ……あ」
水泳部なら水着に着替えなければいけない。普通に体操着に着替えるくらいならなんとか誤魔化せたかもしれないが、水着は一度裸にならないといけないためそうはいかない。タオルで隠すという手もあるが、男子校の水泳部にそれが通用するかどうかは微妙だ。加えて、それを乗り越えても待っているのは男子用の水着。上半身ノーガードだ。ぺったんこ桐生ちゃんなら最悪なんとかなるかもしれないが、桐生ちゃん保護者的にはそれはやめて欲しい。いくらぺったんこでも女の子だもんね、桐生ちゃん。
「……なにか嫌な思考を感じるんだが」
「気のせいだ。それより、どうするんだよ?」
「うーん……やっぱり、元に戻るまでは休むよ。見た目にはわからないかもしれないけど、結構筋肉量も落ちてるみたいなんだ。これじゃタイムもかなり落ちるし、怪しまれるだろ?」
「……そ、そうか」
気にするとこそっちなんだ。もうちょっとこう、女の子っぽいこと気にしようぜ。……いやまあ、ほんの一時間前まで男子だった楓にそんなことを求めるのもアレか。
「気をつけなきゃいけないのはそのくらい?」
「うーん……多分。股間さえ触られなければ、ばれないと思う」
「そんなことしてくる奴いないだろ⁉」
いや、それが男子校だと油断ならないんだなー。
「一応警戒はしとけ」
「……わかったよ」
俺が念を押すと、楓はしぶしぶといった様子で頷いた。
翌日、月曜日。寮室のキッチンから聞こえてくる調理音で目を覚ます。この音が聞こえてくるのは決まっていつも七時前後。発生源は、当然のように俺のルームメイト。
「……おはよう、楓」
「あ、おはよう広人。あと五分くらいで朝食出来るから、もう少し待っててな」
制服の上にエプロンという出で立ちでキッチンから振り返りながら告げる楓の姿は、もはや新婚の嫁である。
「……お前、やっぱりいい嫁になるよ」
「……あはは。今はそのセリフ、あんまり冗談に聞こえないな……」
毎朝告げている気がする定型句を口にすると、いつもと違って楓は苦笑いで返してきた。何故だろうと考えて、すぐに昨日のことを思い出す。そっか、楓、ほんとに嫁になっちゃったんだっけ。
「……一応ツッコんでおくと、女にはなったけど嫁にはなってないぞ」
「お? 漏れてた?」
「おう」
いかんいかん。ついうっかり思考が漏れだしていた。
「アホなこと言ってないでさっさと着替えろよ」
「あいよー」
言う通りに制服に着替えてテーブルに向かうと、ちょうど同じタイミングで朝食が出てくる。いつも思うが、この絶妙すぎるタイミングは狙っているのだろうか。
「……んで、今日の予定だけどさ」
出された朝食をありがたくモグモグしながら、向かいに座って同じように朝食を食べる楓に話しかける。
「時間もあるし、朝のうちに二組を覗いてみて、本人がいれば直撃、いなければ既に登校してる二組の奴に聞き込みでいいか?」
「…直撃って、どうやって尋ねるんだよ」
「……仲良くなりたいので、個人情報を教えてください?」
「不自然だし怪しすぎる!」
……確かに、直撃は危険かもしれない。
「じゃあ、二組に既にいる奴に聞き込み、ってことで」
「了解」
話し合いが纏まると、さっさと朝食を終えて寮を出る。時刻は七時半。八時半までに登校すればいいので、当然のようにこんな時間から校舎に向かう生徒はほぼいない。俺だって、楓がルームメイトじゃなければ八時二十分くらいまでは寝てただろうし。
「……少し早すぎたか?」
「……まあ、寮が徒歩五分の場所にあるんだから、わざわざこんな時間から登校するやつなんてそうそういないだろうな」
「だよなー…」
楓の意見に同意しつつ、しかし今更寮に引き返すのもアレなので、とりあえずは教室まで行ってみることにする。寮から徒歩五分の昇降口を抜け、すぐ脇の階段を四階まで上がる。校舎は四階建てで、四階が一年生の教室、三階が二年生、二階が三年生、一階が職員室やら図書室やら食堂やらという構造になっている。寮の四階から校舎の四階と、かなりアップダウンの激しい移動は大変面倒くさい。帰宅部の俺的には体力的にもしんどい。……え? 体力なさすぎ? はは、エリート帰宅部をなめんな。
「エリート帰宅部ってなんだよ……」
「ん? また漏れてた?」
「ああ。その癖、さっさと直せよ。いつかいらんことポロッと言うぞ」
「……善処する」
それは分かってるけどつい無意識にやっちゃうから癖なんだよなー、と心の中で言い訳をしつつ、一年三組に入る。まあ、誰もいない。荷物を自分の席に置くと、三組を出て隣の教室の様子を窺う。人は……あ、一人いる。しかも知り合いだ。
「おーい、望ー」
「あ、広人くん。それに楓くんも」
俺の声に反応して箒片手に振り返ったのは、同じ中学出身の安中望。彼を一言で説明するなら、男の娘という言葉以上にふさわしいものはない。全体的に小さく、顔も中性的で、可愛いもの好き。中学時代に一緒に遊んだ時の私服姿なんか、女子にしか見えないレベル。ただ、恋愛対象は普通に女の子。それが望だ。
「朝から掃除か?」
望の足元に溜まる埃を見て、そう尋ねる。
「うん。男子校の掃除は適当だから困るよねー」
とか言いつつどこか嬉しそうな望。家事好きの彼(?)的にはご褒美なのだろう。
「それより、広人くんたちは何か用?」
「あ、そうそう。このクラスに高崎葵ってやついるだろ?」
「高崎くん? ……あー、彼ね」
「知り合いか?」
だと非常に助かるんだが。
「ううん、知り合いではないよ。というか、このクラスで喋ったことがある人いないんじゃないかな」
「「……マジか」」
ハモってしまった。え、なに、高崎とやらはぼっちなの? だから調べて来いってこと?
「うん。教室の窓際の一番後ろの席なんだけど、いつも一人で窓の外眺めてるよ。授業中も昼休みも」
うーん、そりゃ典型的なぼっちだな……。
「高崎くんがどうかしたの?」
「あ、いや……」
素直に事情を喋ってもいいものだろうか。チラリと隣を窺えば、楓は全力で首を横に振った。……別に、そこは最初から言う気はねえよ。
「まあ……なんだ、詳しいことは説明できないんだが、二組の高崎葵と五組の館林悠輝について調べて来いと理事長から言われてな。できないと主に楓の学生生活がピンチだ」
「わー、それは大変だねー。わかった、ボクも協力するよ」
俺のアレな説明でも納得し、協力までしてくれる望。さすが望、超いいやつ。
「じゃあ、ボクは高崎くんと話してみるね。席も隣だし」
「ありがとう、恩に着る!」
手を取って感謝を述べる楓。一方突然手を握られて箒を取り落とした望は苦笑いだ。まあ、望は見た目こそアレだが中身はノーマルだし、男に手を握られても嬉しくはないだろう。実は桐生ちゃんになっているわけだが、そんなの望は知る由もないし。
「じゃあ、俺たちは五組の館林の方をあたってみるか」
「そうだね。館林くんは理事長の孫としても有名だから、情報は集めやすいと思うよ」
「「……え? 孫?」」
あの理事長、館林だっけ……?
「あれ? 知らなかった? 結構有名な話だけど」
「「全然知らない……」」
しかし、自分の孫を調べて来いとは、いよいよどういうつもりなんだ、あの理事長。
「まあとにかく、どの生徒に聞いても何かしらの情報は得られると思うから。ボクの方の結果は、今日の夜くらいに報告しに行くよ。四一一だよね?」
「ああ。じゃあ、すまんが高崎の方は頼むな」
「ううん、気にしないで。楓くんのためだし」
「望……!」
今度は感極まって抱き付こうとした楓を、望はひらりとかわした。……お前、もう少し自分が女体化した自覚を持てよ。いくらぺったんこでも、抱き付くのは危険だぞ。
昼休みや放課後を利用し、同じクラスの奴や五組の知り合いに話を聞いてまわって得られた館林悠輝に関する情報はこんな感じだ。
館林悠輝。この男子校の理事長の孫。七月九日生まれのA型。一人称は僕。一年五組所属、寮室は四一七。部活は剣道部。誰とでも分け隔てなく接する好青年で、細かいところによく気がつく。大変頭がよろしく、入試トップ通過との噂。一方で運動は少々苦手な様子。
……とまあ、特徴的なプロフィールみたいなものは別段ない。集まった情報は、こんなの祖父でもある理事長なら知っているだろうというものばかり。多分、これでは理事長のリクエストを達成できていないのだろう。なにか、祖父でも把握していないような情報を掴まなければならない。……ハードル高くね、それ。
と思いながら楓作の夕飯を食べていると、部屋の扉がノックされた。
『望だよー』
「あ、今開ける」
扉の向こうの声を聞いて、楓が扉の鍵を開けに行く。そういえば、報告に来るって言ってたっけ。
「やっほー。報告に来たよー」
「おう。どんな感じだった?」
「うーん……あんまりいい情報は得られなかったかなー」
夕食途中のテーブルに着席しながら、望は会話の結果を話してくれる。
「高崎くんは、あんまり人と話したくないみたい。孤立しちゃってるというより、意図的に孤立してるって感じ? ボクと話してる時も、あえてきつい口調にしたり不機嫌そうな態度をとってる感じだったし。特に部活にも入ってないみたい。あとは……あ、ちょっと声が高い感じがしたかな。こう、女の子みたいとまでは言わないけど……あ、そうそう、ちょうど楓くんみたいな、声変わりに失敗したような声、って言えば伝わるかな?」
「なにその表現⁉」
「あー」
「しかも伝わっちゃってるし‼」
そっか、楓も元から結構声高かったっけ。それで、女体化しても特に声が変わったようには感じなかったわけだ。疑問が一つ解決。
「まあ、だから何だ、って情報ではあるんだけどね」
「……いや、案外そんなことはないかもしれないぞ」
苦笑いで付け加えた望に、俺は自分の推理を披露する。
「高崎はその高い声にコンプレックスがあって……例えば、昔声が高いことが原因で嫌な思いをしたとか、そういう事情があって、人と話すのが苦手、あるいは怖くなって、人と話したくなくなった、というのはどうだ?」
「「おおっ」」
二人が「それだ!」みたいな顔で声を上げる。我ながら当たっていそうな感じがするくらい、綺麗に繋がった。もう理事長への報告もこれでいいんじゃないだろうか。理事長が『高崎葵が孤立している理由を調べて来い』という意味で俺たちに調査させたのなら、これで要求は満たしたはずだ。まあ、あくまで推理にすぎないが、だからと言って本人に聞いたら答えてくれるのかというと、そんなことはないと思うのでこれは仕方ない。
「じゃあ、この推理が高崎に対する調査結果ってことでいいな?」
「ああ。とすると、残るは館林か……」
そう、楓が言うように問題はこっちである。こっちに至っては理事長がどういう意図で彼を調べて来いと言ったのかすら想像もつかない。
「館林くんの方はどんな感じだったの?」
「こっちはあんまり収穫なしだな。祖父でもある理事長なら知ってそうな情報しか集まらない」
「あー、そっかー。やっぱり、そういう情報じゃダメなのかな?」
「多分な」
自分が既に知っていることを調べさせる意味はないだろう。
「でも、周りへの聞き込みじゃそういう情報しか集まらないかもしれないね」
「だよなー」
聞き込みにも限度がある。加えて、まだ一年の五月である。館林と出会ってからまだ一か月弱という生徒がほとんどだろう。これ以上の聞き込みは無駄かもしれない。
「……仕方ない。直撃するしかないか」
「……大丈夫なのか?」
俺の出した結論に、楓が不安そうな声を出す。今朝のくだりを心配しているのだろうか。
「ああ。一応策はある」
この策を思いついたのは今日の調査のあとだから、そういう意味では今日の聞き込みも無駄ではなかったかもしれない。
翌日、放課後。俺は五組の前の廊下で館林を待っていた。昨日言っていた策を実行するためである。楓には先に寮に帰ってもらった。今回の策では楓はむしろ邪魔になるかもしれないためだ。
ほどなく、館林が教室から出てくる。姿は昨日聞き込みに行ったときにちらりと確認しているので間違いない。出入り口の正面で待っていた俺と目が合う。
「あーっと……館林、だよな?」
「うん、そうだけど……どちらさま?」
「あ、俺は四組の前橋広人だ」
「前橋君ね。それで、僕になにか用事かな?」
「ああ。実は俺、まだ部活に入ってなくてな。それで確か、館林って剣道部だったよな?」
「うん。……あ、もしかして!」
「ああ。少し、見学させてもらえないか?」
これが、昨日思いついた策である。エリート帰宅部の俺だからできる声のかけ方だ。最終的に入る気は全くないのが申し訳ないところだが、どうにかして彼を調査しない事には楓の高校生活が危ういので仕方あるまい。
「もちろん、大歓迎だよ!」
「ほんとか?」
「うん! うちは部員が少なすぎてちょっと困ってたから。見学に来てくれるだけでも十分嬉しいよ!」
本当に嬉しそうに笑う館林に、少しばかりドキッとした。……お、落ち着け俺、こいつは男だ、男。しかも憎き爽やかイケメン野郎だ。ドキッとしてんじゃねえよ馬鹿。
「じゃあ、さっそく部室に案内するよっ。ついてきて!」
自分を戒めるように心の中で素数を唱えながら、俺は館林の先導に従って教室前から歩き出した。
「館林って、なんで剣道部に入ろうと思ったんだ?」
校舎を出て、グラウンドの横を通って剣道場に向かいながら、俺は館林に話しかける。
「えーと……実は僕、運動があんまり得意じゃなくてね」
それは昨日の聞き込みで既に知っている。
「だから、それを克服するために運動部に入ろうと思っていろいろ見学してたんだけど、そのとき剣道部が部員ゼロで廃部になりかけててね」
「……部員ゼロって、どうやって勧誘してたんだよ」
「顧問の藤岡先生が、剣道場の前で一人で必死に声出してたんだ。だから、思わず入っちゃった」
「思わずって……じゃあ、別に好きで剣道やってるわけじゃないのか?」
「あ、それは違うよ。実際にやってみて、すごく楽しいから。今はちゃんと剣道が好きでやってるよ」
まあ、それならいいけど。好きでもないことを無理に続けるのはよくないからな。例え憎き爽やかイケメンであれ、あまりそういうことはしてほしくない。……っと、こういうのは俺の柄じゃないか。
「……別に、そんなことはないと思うよ。『憎き爽やかイケメン』ってところが気になるけど、でも、心配してくれてありがと」
俺の心の声に対してフォローもお礼もしてくれる館林。……どうも、心の声が三度漏れていたらしい。ほんと、この癖早くどうにかしないと楓の言う通りになりそうだ。
話に一区切りがついたタイミングで、剣道場に到着する。剣道部の部室はこの建物の中にあるらしい。入り口で靴を脱いでから中にお邪魔する。中はとても静かだった。道中では聞こえていたたサッカー部や野球部の掛け声はまったく聞こえなくなり、まるでこの場所だけが周りから隔絶された空間のようにも感じられる。……というか、これから部活を始めようという場所にしては静かすぎないだろうか。
「……なあ、館林。他の部員は……?」
二年や三年の先輩がいないのはさっき聞いたが、無事廃部の危機を脱して今も存続しているのだから一年生が何人かはいるのだろう。まだ誰も来ていないのか。
「ん? 剣道部員は僕しかいないよ?」
「……ん?」
今、なんて?
「だから、今の剣道部の部員は僕しかいないよ。部の新設には部員が五人以上必要だけど、既に成立してる部に関しては部員が一人でもいれば存続できるからね」
「なん、だと……!」
部員一人の剣道部って、いったいどんな練習すんだよ。練習試合の相手すらいないじゃねえか。あ、顧問がいるから一応できるか。……顧問と一対一の部活って、しんどくないか?
「そんなことはないよ。藤岡先生は剣道初心者でかつ運動も苦手な僕にも丁寧に教えてくれるし」
その藤岡先生とやらにはまだ会ったことがないのでよくわからないが、まあそういう感じの先生ならしんどいってことはないか。というかまた漏れてた。
「ごめ~ん、待ったかしら~?」
この短時間で二回目となる癖の発動に自戒していると、やけに間延びした声と共に誰かが剣道場に現れた。
「あ、藤岡先生。いえ、僕もさっき着いたとこですよ」
どうやら件の藤岡先生がやってきたらしい。剣道場入り口に目を向けてみれば、おおよそ『剣道部顧問』という肩書きには似つかわしくない、おっとりした感じの女性が立っていた。……え? この人が剣道部の顧問? マジで?
「あら~? 館林くん、そっちの子は~?」
「あ、はい。剣道部の見学に来てくれた前橋君です」
「ど、どうも。一年の前橋広人です」
見た目や喋り方と肩書きとのギャップに戸惑いつつ、自己紹介だけはなんとかこなす。
「おぉ~。期待の二人目~?」
「はいっ!」
目を輝かせて喜ぶ藤岡先生と館林。あー……なんかどんどん断り辛くなっていく……。このままだと罪悪感に押しつぶされそうになるんだが。
「じゃあ~、逃がすわけにはいかないわね~」
「はいっ。といわけで、早速着替えてきます!」
言うや否や、館林は『剣道部部室兼更衣室』と書かれた部屋に飛び込んでいった。剣道場には俺と藤岡先生の二人が残される。
「前橋くん、剣道の経験は~?」
「あ、いえ、まったくないです」
小中高と帰宅部だし、体育の授業でもやる機会はなかった。剣道は完全に未経験である。
「そっか~。じゃあ、館林くんと同じなんだね~」
「……そういう先生は、剣道経験はどうなんですか?」
気になって仕方がないので聞いてみた。だってほら、もしかしたら廃部寸前だった剣道部の顧問を、なんの経験もない藤岡先生が押し付けられた、みたいなパターンかもしれないし。というか、そう言われた方が百倍しっくりくる。
「先生はね~、中高六年間剣道部だったんだよ~。全国も行ったし~」
「⁉」
結論:人は見かけによらない。
「まあ~、辞めてからしばらくたつけどね~。今はただの家庭科教師だし~」
そっちの方がウルトラしっくりきますよ、先生。
「着替え終わりましたーっ」
館林が更衣室から出てくる。早いなー、と思って見れば、彼は体操着に着替えただけだった。……あれ? 剣道着じゃないの?
「いきなり動いたら危ないからね~。まずはストレッチからだよ~」
俺の疑問に藤岡先生が答えてくれる。……これは、俺の思考が漏れていたのか、先生が察してくれたのか。判断に困る。
二人がストレッチを終えると、いよいよ練習開始である。館林が今度こそ剣道着に着替えるために再び更衣室に向かい、またも俺と藤岡先生が残される。
「前橋くんも~、練習に参加してみる~?」
「え? いや、俺は……」
完全に見学だけのつもりで来ていたので、体操着を用意してもいなければ運動をする心の準備も出来ていない。というか、ぶっちゃけ運動したくない。
「まあ~、いきなり参加するのも大変かな~。取り敢えず、今日は見学しててね~」
「あ、はい」
そんな内情を見抜かれたのか、そう提案してくれる藤岡先生に頷き返す。それと時を同じくして、館林が更衣室から出てきた。まだ面は被っていないが、首から下はしっかり剣道着である。
「じゃあ~、練習を始めようか~。時に前橋くん、スポーツで一番効率のいい練習って~、なんだと思う~?」
館林が面を装着するのを待つ間に、藤岡先生が俺に尋ねてくる。うーん、なんだろう。ちょっとエリート帰宅部には難易度が高い。
「筋トレとかですか?」
取り敢えずそれっぽいことを言ってみた。だってほら、筋トレしといて損はない気がするし。
「確かに~、それも大事だよね~。でも~、スポーツには競技によって必要な筋肉と要らない筋肉があったりするの~。その競技にとって必要な筋肉ならいくら鍛えてもいいんだけど~、試合で使うことのない筋肉を鍛えても~、無駄に体重が重くなるだけで~、むしろパフォーマンスが落ちちゃう場合があるの~」
「へー」
それは勉強になった。藤岡先生がすごく運動部の顧問っぽく見える。いやまあ、実際そうなんだけど、まだ見た目や喋り方とのギャップに馴染めていないというか……。
「私の自論ではね~、一番効率のいい練習は実戦だと思うの~」
「実戦……つまり、試合ってことですか?」
「そう~。それなら~、試合で必要な筋肉だけが自然と鍛えられていくしね~。それに~、いくら練習でできてもそれが本番の試合で出来なかったら意味ないからね~。だから~、この部活の練習内容の八割は練習試合よ~」
「八割……」
運動部について詳しいわけじゃないが、多分こんなに練習試合をするのは異常だろう。もっと基礎練習とか体力作りとかするはずである。でもまあ、元全国が指導してるんだから間違いではないはずだ。
「その練習試合の中で私が見つけた気になる点を直したりとか~、館林くんが質問してきたところを教えたりしながら~、「習うより慣れろ」の精神で部活が進行していくのよ~」
見た目に反して意外と体育会系な藤岡先生だった。先生、もうこれ以上ギャップはいらないです。
なんてことをしているうちに館林が面の装着を終え、宣言通り早速一本目の練習試合が始まった。俺はその様子を剣道場の端っこから見学する。館林が運動音痴で剣道初心者という情報に嘘はないようで、鋭さのカケラもない攻撃を館林が繰り出しては、元全国の藤岡先生が防具も身につけない状態のまま簡単にいなしていくという展開が繰り返される。というか、なんで藤岡先生は防具つけてないんだ。一本目が終わったあとの休憩時間に尋ねてみたところ「今の館林くんの攻撃は当たる気がしないからね~。まずは私に攻撃が当たりそうな気配を見せて、私に防具をつけさせるのが当面の目標かな~」というたいへん手厳しい答えが返ってきた。スパルタだな、藤岡先生。
このやり取りが館林の耳にも届いていたのか(というか、多分藤岡先生はあえて届くように話していたんだろうが)、まだ完全に回復しているわけではなさそうなのに「二本目、お願いします!」と館林が立ち上がる。そりゃまあ、あんなこと言われたら誰だって奮起するだろう。
二本目の館林は、当然というか、かなり気合が入っているように見えた。繰り出す攻撃は先程より鋭さを増している。だが、先生としてはその方が攻撃を読みやすいのか、むしろ先程よりぜんぜん余裕がある。
「そんなに『気』を出したらダメよ~。どこをいつ、どう攻めようとしてるのか、すぐに相手に伝わっちゃうわ~」
「は、はいっ」
……『気』って何だよ。バトルマンガかよ。
だがまあ、先生が言わんとすることはなんとなく分かる。確かに館林の攻撃は鋭くなったが、とにかく攻撃を当てなければという焦りが傍から見ている俺でもはっきりわかる。そんな状態で力任せに振るう竹刀は単調で、藤岡先生からすれば読みやすくて仕方がないのだろう。
先生のアドバイスを受けて多少落ち着きを取り戻した館林だが、状況はあまり変わらない。依然として藤岡先生は余裕なまま、館林の疲労だけが溜まっていく。
「はあっ、はぁっ」
運動が苦手ということは当然体力もあまりないわけで、それなのに完全に体力が回復する前に二本目を始めたもんだから、館林の体力はかなり限界に近いらしい。先程からずっと肩で息をしているし、呼吸音も離れた位置の俺まではっきり聞こえる。妙に色っぽく聞こえてしまうのは、俺にそっちの気があるからではない断じて。
先生も館林の限界を感じ取ったのか、二本目の時間は残っていたが練習を中断しようと構えていた竹刀を降ろした。
瞬間、それをチャンスだと勘違いしたのか、館林が踏み込んだ。竹刀を上段に構え、先生の頭上に振り降ろ――
「わわっ?」
――そうとしたところで、やはり疲労が祟ったのか、自らの足につまずいた。そして館林が体勢を崩したことで、先生の頭を捉えようとしていた剣先が喉元へと向かう。
「あぶ――」
――ない、と反射的に言いかけたところで、俺は目を疑う光景を見た。……いや、正確には見えなかった、と言うべきか。今まさに先生の喉元を突かんとしていた館林の竹刀は、いつの間にかなくなっていた。そして、降ろされていたはずの先生の竹刀が頭上にある。この状況証拠から察するに、恐らく先生が竹刀を振り上げることで館林の竹刀を払ったのだろう。俺が視認することもできない、神速とでも呼ぶべき速さで、ということになるが。これが元全国か。
一方で、先生の超絶的竹刀捌きによって竹刀を払われた館林は、当然のごとくその衝撃に耐えうる握力など備えておらず、竹刀は館林の手を離れて宙を舞う。竹刀は高速で回転しながら垂直に上昇し、やがて重力に負けて落下し始める。そしてそれは、何が起こったのか理解できずに固まったまま、竹刀の行方など追っていない館林の頭上に。
――ごすっ
「っあぅ」
えげつない音と共に、凶器と化した竹刀が叩きつけられる。
「……きゅう」
体力の限界がきていた館林がその衝撃に耐えられるはずもなく、館林は道場に倒れ込んだ。
「……さすが元全国」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないよ~!」
あまりに超次元的な一連の出来事に思わずそんな感想を漏らした俺にそう言いつつ、先生は倒れた館林の元へ駆け寄る。俺も先生に感心している場合ではない。同じく館林の元へ駆け寄り、面を外して状態を確認する。面が衝撃の大半を吸収してくれたのか目立った外傷はなく、脈拍も正常、呼吸もしている。単に気を失っているだけのようだった。取り敢えず一安心。
「よ、よかった~。いや、気絶させちゃってるからよくはないんだけど~。むしろ先生としては絶対やっちゃいけないんだけど~。でも~、その辺を後悔するよりも先に保健室に連れていくべきよね~」
「まあ、そうですね」
素人判断だけで済ませるのはよくない。あと、焦っているときでも変わらない先生の喋り方は、緊張感が抜けてしまうのでどうにかした方がいいと思う。
「じゃあ~、前橋くんにお願いなんだけど~、館林くんを体操服に着替えさせてあげてくれる~? 剣道着のままじゃアレだし~、先生が着替えを手伝ってこれ以上問題を重ねるわけにはいかないの~」
「了解です」
男子高校生(気絶中)を着替えさせる女教師の図はかなり危険だと感じたので、素直に応じる。面だけ外した道着姿の館林の背中と膝裏に手をさし、お姫様抱っこのようにして抱え上げる。非力代表のエリート帰宅部でも簡単に持ち上がった。どんだけ軽いんだよ、館林。
そのまま館林を部室兼更衣室まで運び、中の長椅子に横たえると、館林の体操着を探す。たった一つしか使われていない部員用ロッカーであっさり発見。長椅子に戻り、着替えさせるために道着に手をかける。……これはこれで、図がよろしくない。一部の人がはかどってしまう。さっさと終わらせようと決意し、一気に上着を脱がせる。そこで、一つ違和感が生じる。
「……さらし……?」
館林の胸元には、なぜかさらしが巻かれていた。確かに、剣道女子はよくさらしを巻いているイメージがあるが、館林は紛れもなく男子である。何故巻いているのか理由がよくわからない。……でもまあ、何か理由があるから巻いてるんだろうし、俺が気にしても仕方ないか。後で本人に聞いてみればいい。
というわけで、今度は下を脱がせにかかる。相変わらず危険な図なので躊躇なくスパッといく。淡いピンク色の、女性用下着が出てきた。
「………………」
……これは、どうしたらいいんだろう。やはり、見なかったことにすべきだろうか。しかし、先程まで普通に会話していたあの館林が、という衝撃でまったく記憶から消去できないし、今後館林とまともに会話できる自信もない。なぜ、なにゆえ女性用下着。さっきのさらしと言い、持ち上げたときの軽さと言い、まるで女子じゃねえか。…………。
「…………いや、まさか」
そう言いつつ、もう一度館林の姿を確認する。さらしを巻いていて、女性用下着を着用していて。体重は筋肉があまりついてないにしても軽すぎる気がして。ついでに手足は男子にしては細すぎるような気がして。
それらすべての違和感を解消する答えが、一つだけある。それは本来、男子校ならば絶対に選択肢には浮上しない答えで。だが、あの理事長ならば百パーセントないとは言い切れない答えで。その証拠に、似たような境遇の奴がすぐ身近にいて。
「……………………」
気絶中の館林に、そっと手を伸ばす。伸ばす先は、股。……いや、決してやましい目的があってのことではない。確実に確認するには、この方法しかないのである。というか、そもそも男子同士のはずだし。男子高校生同士なら、これくらいはコミュニケーションのうちにいれてもいいだろう。……い、いいよね?
戸惑いつつゆっくり伸ばした手が、目的地に到達する。その答えは――
「ん……ここ、は……」
「お、気がついたか?」
保健室に運び込んでからほどなく。館林が目を覚ました。俺たちとすれ違うように保健室を出ていった養護教諭の話では特に問題はなく、すぐに目を覚ますだろうとのことだったが、その通りだった。無事に目が覚めてくれて一安心。
「あ……前橋くん。僕、どうして……?」
「上空から降ってきた竹刀が突き刺さって、気絶したんだ」
「そ、そう……あ、運んでくれてありがとね」
「気にすんな」
男子をお姫様抱っこで運搬した結果、かなり変な目で見られたが。明日学校に行ったら、変な噂が流れているかもしれない。
「それより、体調はどうだ? 先生は特に問題ないって言ってたが」
「あ、うん。全然平気だよ。すぐにでも部活戻れるくらい」
「……いや、さすがにそれはやめとけよ。というか俺、藤岡先生から『今日の部活はもう終わりにするから~、目が覚めたら館林くんを寮まで送ってあげて~』って頼まれてるんだが」
「あ、そ、そうなんだ……」
部活する気満々だったらしい館林に藤岡先生からの伝言を声真似付きで伝えると、館林は残念そうな顔になった。あ、俺のモノマネへの感想とかなしですか、そーですか、了解でーす。
「そういうわけだから、問題なさそうなら帰るぞ」
「あ、うん。用意するからちょっと待ってて」
腹いせに帰りを急かすと、館林は慌ててベッド脇の自分の荷物(俺が一緒に持ってきた)に手を伸ば――したところで、急に動きを止めた。
「……あれ? 僕、いつの間に着替えを……?」
……あー、気付いちゃったかー。そりゃま、気付くよなー。
「剣道着のままじゃアレだから、俺が着替えさせたんだ」
「……そ、そう………」
みるみるうちに館林の顔が青ざめていく。まあ、着替えさせたということは、当然館林のあれやこれやを見たということだからな。その反応も当然である。
「あー……別に、誰かに言ったりはしねーよ。その、館林が女性用の下着をはいてることは」
「……え?」
「だから、館林の女装趣味を言いふらしたりはしない、ってことだよ」
「あ……そ、そっか」
俺の答えを聞いて、心なしか表情が柔らかくなる館林。多分、本当にバレてはいけない部分まではバレてなかったと確認できたからだろう。つまり、俺が言ったことは真実は違う。本当は、館林は女装趣味などではない。むしろあれが、館林本来の姿である。
そう。結論を言えば、館林悠輝は女だった。しっかり確認したので間違いない。俺がたまにドキッとしていたのも、正しい反応だったのである。だが、多分このことがバレてしまえば楓同様非常に困ったことになるのだろう。だから俺の選択は、見てみぬフリ、知らないフリである。
「用意できたか?」
「あ、うんっ」
秘密がバレてなかったことでよっぽど安堵したのか、満面の笑みを浮かべる館林。……ダメだ、知ってしまったせいでどうしても意識してしまう。気付いてないフリをしようと決めた直後なのにこれではいけない。館林は男、館林は男……。
「じゃ、帰るぞ」
「待った、今このまま帰るわけにはいかない理由ができたんだけどっ!」
さあ保健室を出ようというところで、急に大声を出した館林に呼びとめられる。……? あっ、もしや………。
「気付いてないフリって、どういうことかな……?」
俺の悪癖が、ついにやってはいけないところで出てしまった。
「…………もう、お嫁に行けない………」
うっかり失言から問い詰められた俺は、結局館林が気絶してからの一切合切を説明せざるを得なくなった。そして説明し終えた直後の館林のセリフが、今の絶望感しか読み取れない声音を伴った定番の嘆きである。でもまあ、実際館林は女子だったわけなので、そのセリフにもとくに違和感はない。
「……まあ、その、なんだ…………マジですいませんでした」
ちなみに俺は先程からずっと土下座の姿勢である。性別確認のために仕方なかったとはいえ、やったことは完全に変態行為である。別にここまで馬鹿正直に話す必要はなかったんじゃないかと今更ながらに思うが、既に話してしまった後なので本当に今更である。
「……あの、えっと、そろそろ顔上げていいよ…?」
「いやいや、そういうわけには」
俺、警察に突き出されてもおかしくないわけだし。謝罪の姿勢を緩めるわけにはいかない。
「いやいや、本当にいいって。……過ぎたことは、仕方ないし。前橋君だって、その……変な意図があってやったわけじゃないでしょ?」
「当然だ」
そこは断言しておく。あくまで性別確認のためにやっただけで、変態的な意図は全く持ってない。
「……なら、これ以上の謝罪はいいよ。だから、顔上げて?」
「館林……」
寛大な館林の言葉に顔を上げると、館林は俺に向かって微笑んでいた。
「あ、でも、私の性別の事バラそうとしたら、分かってるよね?」
「アッハイ」
……女の子の笑顔って、こんなに怖かったっけ……?
制服に着替えた館林と共に保健室を後にし、学生寮へと足を向ける。今更ながら、養護教諭が保健室にいなくて助かった。もし一連の会話を聞かれていたら大ピンチだったからな。俺も館林も。
「……その、理由とかって、聞いてもいいのか?」
「なんの?」
「だから……その、館林がうちの学校に入った理由?」
周りに下校中の生徒もいるので、言葉を選びつつ尋ねてみる。
「あー……やっぱり、気になるよね」
「まあ、うん」
女子……しかも理事長の孫が、わざわざ男装してまで男子校に入る理由とか、気にならない方がおかしいと思う。
「……まあ、前橋君には話しといたほうがいいか。でないと海底に沈むかもしれないし」
「……は?」
何やら不穏極まりない単語が聞こえてきたので聞き返してみたが、館林はそれには答えず自分の話を始める。
「えっと……僕の家、館林家がそれなりに大きな家だってことは、知ってるかな?」
「……まあ、想像はできる」
おじいちゃんが高校の理事長とかやってるくらいだからな。
「じゃあ、そういう家にはよくわかんない謎の慣習とか、変なしきたりとかがあったりする、っていうのは想像できるかな?」
「……あー、アニメとかゲームではありがちだな」
現実ではそんなことはそうそうない気がするが。いやまあ、実情を知っているわけではないので、断言はできないけど。
「……うちの場合は、その変なしきたりが実際にあるんだ……」
悲壮感漂う表情で館林が呟いた。アニメやゲームの話ならよかったのに、と言わんばかりである。あ、本当にあるんだ……。
「……つまり、そのしきたりのせいでこの学校に通うことになった、ってわけか」
「うん。のみ込みが早くて助かるよ」
「……ちなみに、そのしきたりについて詳しく聞いても?」
どこまで踏み込んでいいのかわからないが、気になったので尋ねてみる。
「あー……話してもいいけど、それは寮室に戻ってからね」
「……まあ、そうだな」
これ以上は往来で話すことではないか。
そこからは雑談にスライドして寮まで向かう。校舎と寮は徒歩五分なので大して時間はかからず、あっという間に寮に着く。
「前橋君は、何階?」
階段を上りながら、館林が尋ねてくる。
「四一一」
「あ、じゃあ同じ階だね」
二人で階段を一番上まで上がり、階段から近い俺たちの部屋の前で一度立ち止まる。
「どっちの部屋で話す?」
万が一にも桐生ちゃんがバレるとまずいので、できれば俺たちの部屋は避けたいのだが。
「んー……前橋君のルームメイトは、もう帰ってきてる?」
「楓か? 多分、もう寮室にいると思うぞ」
先に帰ってろって言ったし、楓も今の桐生ちゃん状態じゃあまり外にはいたくないだろうし。
「そっか。じゃあ、話すのは僕の部屋にしようか。僕のルームメイトも多分寮室には帰ってるけど、食事時以外はあんまり部屋から出てこないから」
「了解」
幸いにも館林の部屋で話す流れになったので一安心。
廊下を少し歩いて、館林の寮室にお邪魔する。
「ただいまー。そしていらっしゃ――」
「お邪魔しま――」
「―――――」
時が、止まった。
起こったことを、そのまま説明しよう。館林が扉を開けたのに続いて、俺は四一七号室に足を踏み入れた。すると目の前には、バスタオル姿の女の人が立っていた。胸部のバスタオルを押し上げるD、いやEはあろうかというそれは紛れもなく本物で、詰め物などではない。正真正銘、女子。男子校の寮では(一部の例外を除いて)有り得ないその光景に、俺も館林も動きを止める。一方のバスタオル女子も、なにか信じがたいものを見たような驚きの表情でこちらを見て固まっている。
寮室のドアが、音を立てて閉まる。その音で、止まっていた時間が動き出した。
「た、たたたっ、高崎君っ⁉ そそ、その格好は一体⁉」
「た、館林⁉ なんでこんな時間にっ……」
「え、これ高崎なの⁉」
館林の発言に心底驚く。高崎も、実は女子……? あ、でもそう言われてみると納得できる部分もある。声が高いというのも女子だったのなら当然だし、周りと話したがらないのも、自分が男装女子だというのがバレないようにという理由があったのだとしたら納得だ。
「……知られた、からには……消すしか……っ」
考えごとをしている場合ではなかった。実は女子だったことがバレてしまった高崎が、殺気を放ちながら人を殺せそうな目でこちらを睨んでいた。と、止めねば。
「は、早まるな高崎! 俺たち別に周りにバラしたりしないから!」
「そ、そうそう! それにほら、実は私も女の子だし!」
あ、館林があっさりカミングアウトした。
「…………は?」
その突然の告白が功を奏したのか、高崎から殺気が消える。ナイス館林。でも、バラしちゃってよかったのか?
「……いや、え? は?」
なにを言ってるのコイツ、という表情で館林を見たまま固まる高崎。まあ、正常な反応だろう。
「ほ、ほら、証拠」
言いながら館林は、数日前に楓が俺にそうしたように、高崎の手を取って自分の股に持っていった。館林の顔は赤く、突然そんなことをされた高崎も真っ赤になっている。まあ、胸にはさらしを巻いてるからそれしか方法がなかったとはいえ、やはりこれは女子同士でも恥ずかしいのだろう。
「ちょっ、なにす――…………」
「わ、わかってもらえたかな?」
「………ああ」
どうやら信じてもらえたらしい。
「……えっと、取り敢えずここから移動しないか? あと、高崎は着替えな」
玄関先でする話でもないし、目のやり場にも困って仕方がない。
「「………………」」
俺が発言した途端、二人が固まった。……ん? もしかして俺の存在、忘れられてた?
「そ、そういえば前橋君がいたんだった……! ううっ、私ってば男の子の前でなんてはしたないことを……!」
「……きっ、きゃあー!」
「ぐふっ」
両手を顔に当てて恥ずかしがる館林と迫り来る高崎の右拳を最後に、俺の視界は途絶えた。
目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
「……まさか、いきなり殴られるとは……」
「あ、気付いた?」
気絶前の状況を思い出して思わずぼやくと、ベッドの脇から館林が覗き込んできた。先程とは真逆のシチュエーションだ。
「ここは……?」
「私の部屋。高崎……さん? は自分の部屋で着替え中だよ」
じゃあ、そんな長いこと気絶してたわけじゃないのか。まあ、女子のワンパンで長時間気絶してたら恥ずかしいもんな。え? 女子のワンパンで沈んでる時点で既にアウト? ……ちょっと何言ってるかわからないな。
なんて益体もないことを考えていると、館林の部屋に高崎が入ってきた。
「どう? アイツ起きた?」
「あ、高崎さん。うん、ついさっき起きたよ」
「おう。よくも殴ってくれたな」
しかも人中。
「わ、悪かったよ……。でも、人の裸見続けてたアンタも悪い」
「すいませんでした」
それは、うん。普通に俺が悪いね。
「……えっと、話が一区切りしたところで、そろそろ本題に入らない?」
「……そうだな」
本題、というのは、二人の男装女子の件についてだろう。二人としては俺が周りにばらさないか不安だろうし、その辺はしっかり断言しておかねば。
「高崎さんも、男装して男子校に通ってる……んだよね」
「……ああ。まさか、同じような境遇のやつがもう一人いるとは思わなかったけどな」
「あ、それは私も。しかも寮室まで同じだなんて、すごい偶然だよねー。私これから三年間、男の人と同室で暮らさなきゃいけないのかな、って凄く不安だったんだけど、これなら安心だよね」
「それは本当にそうだな。あたしも同室が女の人で安心したよ」
……本当に、この二人が同室なのは偶然なのだろうか。この部屋割りは、確か理事長が決定したはずだ。そして男装女子という、本来なら男子校への入学など許されるはずがないこの二人がこうして通えているのは、間違いなく理事長が黙認しているからだろう。桐生ちゃんだって「バレなきゃいいんじゃね?」とあっさり認めたし。
つまり、理事長はこの二人が男装女子だと知った上で、同室にしたはずだ。偶然とは言い難い。
「高崎さんは、どうして男装を?」
「あたしは……その、家の事情、だな。詳しくは、説明できないんだけど……」
「あ、そんな無理して喋らなくて大丈夫だよ。言いたくないこともあるだろうし」
「……ありがと。館林の方は、なんで男装してるんだ?」
「私は、家のしきたりだよ。家が無駄に大きいせいで、変なしきたりがあるんだよー」
「あー、そりゃ大変だな」
「でしょー?」
となると、理事長がこの二人を調べて来いといったのも、この辺と関わっている可能性が高い。男装女子となてしまった桐生ちゃんを黙認する代わりに、二人の男装女子について調べてこい。……なんとなくだが、嫌な予感がする。今後更なる面倒事を押し付けられそうな、そんな気が。
「……で? 結局アンタはなんなんだ? 館林の男装のことは知ってたっぽいけど」
「……あ、俺?」
「アンタ以外に誰がいんだよ」
考え事をしていたせいで二人の話はろくに聞いていなかった。
「んー、ざっくり説明するなら、偶然館林の正体を知ってしまった者、だな」
正確には偶然ではなく、理事長がそうなるように仕向けた、っていうのが正しそうだが。
「で、より詳しい事情を聞くために館林の部屋に来たら、高崎の正体も知ってしまった、という感じだ」
「主人公かよ」
……確かに、最近の俺ちょっと主人公体質っぽい。面倒事に巻き込まれるところとか、偶然女の子の秘密を知ってしまうところとか。
……いや、でも、男装女子三人に囲まれた主人公とか聞いたことないな。ヒロインが全員男装女子ってどんなラブコメだよ。やっぱ俺は主人公とは程遠いな。
「「……三人?」」
「………え? あ……」
……もしかしなくても、漏れてたっぽい……?
「……ねえ、前橋君。三人って、どういうこと?」
「あたしら以外に、まだ男装女子がいんのか?」
「…………あー……」
「というわけで、バレちった。桐生ちゃん、ごめんね?」
「……は?」
とても誤魔化せる状況ではなかったので、仕方なく事情を説明するために四一一号室に移動。ダイニングでテレビを見ながらくつろいでいた楓に開口一番で謝ると、何を言ってるか分からないという顔をした。……まあ、まだ何も説明してないからな。
「いや、だからな? 俺の悪癖がタイミング悪く発動して、こちらの二人に桐生ちゃんのことがバレてしまったというか……」
俺の後ろに控える私服姿の高崎と館林を示しつつ事情を説明する。
「……はあ⁉ もうやらかしたのか⁉ 昨日注意したばっかだろ⁉」
「昨日の今日で癖が治るわけないだろ」
「偉そうに開き直るなよ!」
怒る楓。どうやら本気っぽい。まあ、それもそうか。桐生ちゃんのことがバレてしまったら楓は退学という約束だったし。
「……でも安心しろ、楓」
「は? 何が?」
「この二人も男装女子だ」
「…………………はい?」
俺の後ろに立つ館林と高崎を示しながら告げると、楓は固まってしまった。
「……あ、ごめん、もう一回言ってくれるか?」
「だから、館林と高崎も、お前と同じで男装女子なんだよ。同じように、周りにバレなければOKって条件でこの男子校に通ってるんだ。だから、楓の男装がチクられて退学になるなんてことはないから安心しろ」
「……はあ⁉ 男子校に女子が二人⁉ この学校どうなってんだよ‼」
「まあまあ、ボリューム抑えろ。周りに聞こえるぞ。あと、お前も含めて三人だ」
「俺を女子に入れるな!」
声のトーンを落としつつ文句を言う楓。そんなに女子扱いは嫌なのか。……まあ、嫌か。
「……ねえ、前橋君」
今まで黙って俺たちのやり取りを聞いていた館林が、俺の制服の袖をくいっと引っ張って尋ねてくる。……男子の格好でそういうことするのは心臓に悪いのでやめてくれ。
「なんだ?」
「彼女……えっと、桐生さん? は、本当に男装女子なの? なんか、私や高崎さんとは違う感じがするけど」
「……あー」
確かに、結果として男装女子という言葉でまとめられてしまうが、この二人と楓とでは事情がかなり異なる。内緒にしていても仕方ないし、説明しておくべきだろうか。
「(お前の事情、喋っちゃっても大丈夫か?)」
アイコンタクトで楓に確認を取る。
「(……いいよ。女子扱いされても嫌だし)」
よっぽど女子扱いが嫌らしい。まあ、了承は得られたので二人に楓の事情を説明する。
「楓は、元は男なんだ。だが、化学の吉岡の作った変な薬入りのクッキーを食べてしまったせいで、女の子になってしまったんだ」
「「なにそのファンタジー⁉」」
……その反応が普通だよなー。常識では考えられない事態だし。
「……こんな時に嘘言っても仕方ないし、多分本当なんだろうけど……そっか、吉岡先生ついにやっちゃったんだね」
「まあ、いつかやらかすとは思ってたがな」
吉岡の認識が底辺すぎる件。……別にフォローの言葉はないが。
「じゃあ、私たちとはちょっと違うんだね。身体は女の子だけど心は男の子、って感じ?」
「……ああ。大変遺憾なことにな」
怒りのこもった言葉が楓からもれる。幼馴染としての経験上、こういう時の楓はマジでキレている。次に吉岡とエンカウントしたときが少し心配だ。吉岡、生きて帰れるかな。
「館林と高崎は、話を聞く限り本当に女子なんだろ? どうして男子校に通ってるんだ?」
楓の当然の疑問に、二人は俺が聞いたのと同じ理由を述べる。これで、全員の事情の共有が完了した。
「全員退学にはなりたくないだろうし、この場の四人以外には事情は知られてないはずだから、男装女子の件は俺たちだけの秘密、ってことでいいな?」
俺の纏めた結論に、三人が頷いた。まあ、この三人はお互いにナイフを突き付けあっている状態なわけだし、自分以外のことを誰かにバラしたりは絶対にしないだろう。問題は……。
「……広人、これ以上のうっかりは許さないからな?」
「眼が怖いですよ楓さん⁉」
俺の癖がこれ以上発動しないことを祈るしかない。
その後、学校での接し方や注意点についていくつか話し合い、夕食の時間が近づいてきたところで解散にする。
「じゃあ、私たちはこれで。事情を知ってる者同士、助け合っていこうね」
「おう。俺の場合バレたら社会的に死ぬのでマジでお願いします」
楓が必死すぎる。
「……何度も言うけど、学校であたしに声かけんなよ?」
まあ、声の高さから怪しまれる可能性もなくはないからな。
「善処する」
「お前はあたしに近づくな」
「ひどい……」
高崎が俺の何を警戒しているのかは分かるが、そこまで言わなくても……。
「あはは……。まあ、私の方はぜんぜん話しかけてくれて平気だよ。剣道部の件もあるしね」
「……お、おう」
……忘れてたー……。俺、剣道部に興味があって見学しに行ったことになってるじゃん。……でも、藤岡先生と二人きりの部活というのもいつバレるかヒヤヒヤもんだし、フォローできるように入った方がいいのだろうか……? いや、でも運動部はな……。
「じゃあ、またー」
「……またな」
俺が葛藤している間に、二人は四一一号室を後にした。……まあ、この件は後回しにしよう。それよりも今は……。
翌朝。俺と楓はかなり早い時間に登校し、教室に荷物を置くこともせずに理事長の部屋に殴り込みに向かう。調査の結果報告もあるし、理事長には聞かなければいけないことが山ほどある。
一応ノックをし、しかし中の反応を待つことなくドアを開け放つ。
姿見に向かってポーズをきめるパン一の理事長がいた。
「「…………………」」
一度、ドアを閉める。
もう一度、今度はそっとドアを開ける。
「おー、お前ら確か……前橋と桐生ちゃんだったか。こんな朝からどったの?」
きちんと服を着て、デスクに座った理事長が出迎えた。
((……いやいやいやいやいやいや!))
さっきそんなんじゃなかったろ⁉ 鏡に向かってボディービルっぽいことしてただろ⁉ お前の方がこんな朝から何やってんだよ‼ 引くわ‼
「あ、はい。高崎葵と館林悠輝に関する調査結果が出たので、その報告に」
……と、心の中で全力でツッコみを入れつつ、表面上は何事もなかったかのように振る舞う。この人はこういう人だから、多分ツッコむだけ時間の無駄だ。
「はえーな。……それで?」
「二人とも、男装した女子でした」
「……なるほど」
「まあ、この二人の入学を許可したり、同室にさせたりしている理事長なら知っていることだとは思いますけど。館林に至ってはあなたの孫ですしね。……で、この二人の事情を俺たちが知るように仕向けて、何がしたいんです?」
視線を鋭くして理事長に尋ねる。
「……君は察しがいいみたいだな」
対する理事長は、お気に入りなのかゲ○ドウスタイルを取り、俺に鋭い視線を返した。
「だが、今説明するには役者が足りない。話は放課後にしよう。高崎と悠輝を連れてここに来い」
珍しく真面目なトーンで話をする理事長の眼力に、俺たちは頷くしかなかった。さすがに一学園の理事長、適当なだけではなかったか。
その日の放課後。楓と二手に分かれて高崎と館林を捕まえに行く。俺の担当は高崎。教室前で待ち伏せし、出てきたところで声をかける。
「高崎」
「…………」
高崎は俺をちらりと見ると、そのまま無視して歩き出した。
「おいこら」
慌てて肩を掴み、どうにか高崎を引き留める。……肩小さっ。こ、これが女子か。
「…………学校で話しかけんなって言わなかった?」
こちらを振り返りながら、超絶不機嫌そうな声が返ってきた。そういえば確かに昨日そんな話をしたが、今回は理事長からの伝言なので不可抗力だ。
「理事長から呼び出しだ。放課後、俺と楓と館林とお前で理事長室に来い、って」
「理事長から呼び出し……? しかもその面子って……アンタまさか、またやらかしたのか……⁉」
「ちげーよ」
俺はどんだけやらかすと思われてんだよ。……まあ、実際ここ数日でかなりやらかしてるが。
「楓の事情も絡んでるから、ここじゃ説明できないが……とりあえず、理事長室までついてきてくれ」
「……まあ、そういうことならついてくが……」
往来の激しい放課直後の廊下ではあの件絡みの話はできないと理解してくれたのか、高崎も不機嫌そうな態度を収めて素直に従ってくれる。
「……前橋、ケータイ出して」
人の多い廊下を抜け、普段あまり使われない、昇降口から遠い体育館側の階段を降りているときに、高崎が突然そんなことを言った。
「ケータイ? なんで?」
「……今回は仕方なかったとはいえ、やっぱり学校で話しかけるのは勘弁してほしいんだ。だから、次にこういうことがあったらメールで連絡してくれれば、と思って」
……なるほど。だから連絡先を交換しよう、ってことか。
「そういうことなら……ほれ、これが俺のアドレス」
俺がスマホの画面に自分のアドレスを表示させると、高崎はたどたどしい手つきでそれをケータイに入力していく。まさかの旧式、いわゆるガラケーだ。
「高崎って、スマホにはしないのか?」
「……ああ。うちの親が『あんなチャラチャラしたもんはいらん!』って聞く耳持たずでな。ガラケーを買ってもらってのだってつい最近だ」
なるほど。だからあんなに入力がたどたどしかったのか。
「……っと、入力し終わったぞ。空メ送ればいいか?」
「ああ」
しばらくすると、高崎と思しきアドレスからの空メールが届いたので、そのアドレスを登録する。高崎のアドレスは英字と数字が適当に組み合わされた、いわゆる初期状態のままだった。
「……なあ、アドレス変更しないのか?」
これじゃ覚え辛いだろう。なんかの書類に書くときとか面倒だぞ。
「……したいけど、いまいち方法が分かんないんだよ」
ああ、そっか。ケータイ初心者だし、周りに聞こうにもこの学校の人たちには聞けないのか。
「じゃあ、俺で良ければ後で教えようか?」
だから、俺がこう提案するのは当然の流れで。
「ほ、ホントか⁉ マジで助かる!」
しかし、ここまで食いつかれるのはちょっと予想外だった。アドレス変更の手助け程度でここまで喜ばれてしまうのは、なんだか申し訳ないのだが。
「お、おう。理事長の話の後とかでいいか?」
「ああ! 頼む!」
初めて見る高崎のテンション高い姿にやや戸惑いつつ、階段を降りきってすぐのところにある理事長室の前に辿り着く。そこでは既に楓と館林が待っていた。
「悪い、待ったか?」
「いや、俺たちもちょっと前に着いたとこだ」
「おじいちゃんの話って、何だろうね?」
「まあ、入ってみりゃ分かんだろ」
四人でそんな言葉を交わし、一応ノックをしてから理事長室に入る。中には、自分のデスクでゲンド○スタイルをとる理事長と、どういうわけかこの場にいて、ずっとあわあわしている藤岡先生、そして今回の事のすべての元凶、化学の吉岡がいた。
「失礼しまーす。高崎と館林も連れてきましたけど……こちらの先生二人は?」
何故、この二人もいるのだろう。まあ、楓の件に関しては元凶が吉岡なのでそっちがいるのは分からなくもないんだが、藤岡先生はホントになんでいるんだろう。
「……来たか、悠輝と愉快な仲間たち諸君。実は今回のこの件に関しては、吉岡と藤岡先生にも知っていてもらった方が都合がいいんだ。だから、この二人にも話を聞いてもらおうと思う」
「そうですか。じゃあ、これで役者がそろった、ってことですね?」
「ああ」
「(……なあ、悠輝。あたし今、すごくツッコミ入れたいんだが……)」
「(耐えて、葵ちゃん。うちのおじいちゃんは年中あんな感じだから)」
いつの間にか名前で呼び合う仲になっている二人のそんな会話を聞きつつ、本日のメインの話が始まる。
「……ではまず、藤岡先生に質問だ。今この部屋に、女子は何人いる?」
「……女子、ですか~? えっと、私と吉岡先生の二人だと思いますけど~」
藤岡先生が、何を当たり前のことをといった感じで答える。
「まあ、そうだな。だが、正解は二人ではない。前橋、正解を教えてやれ」
「………」
それはつまり、藤岡先生にも楓たちの事情を明かす、ということか。……まあ、この場に同席してる以上そうなるか。
「……正解は、五人です」
「その通りだ」
「「⁉」」
こちらの事情を全く知らなかっただろう藤岡先生と吉岡が驚きの声をあげる。まあ、そりゃそうだ。ここは男子校なのに、女子生徒が三人も紛れ込んでいるとあっては驚かざるを得ないだろう。
「そこにいるうちの孫娘、悠輝は、館林家のしきたりで男装をしている。その隣の高崎も、家の事情で男装をしている。二人とも、やむを得ない事情で男子校に願書を出しているんだ。その二人の事情を汲んだ優しい私は、男装がバレないことを条件に入学を許可した」
「(…悠輝)」
「(耐えて)」
「しかし、じゃあバレないように各自努力してくれ、というのは、入学を許可したものとしてあまりに無責任だろう。万一バレてしまえば、うちの孫娘が『あのエロ同人みたいに!』的なことになってしまう恐ろしい危険もある。二人のことがバレないようにサポートする責任が、私にはあるのだ」
「(……ねえ、葵ちゃん)」
「(こ、こらえろ、悠輝)」
「だから二人の寮室は同じにしたし、さすがにクラス分けには口出しできなかったが、代わりに体育は二組と五組が合同でやるようにした。二人一組の体操とかで男どもがうちの孫娘に触れるとか虫唾が走るのでな」
「(……なあ、悠輝。もういいだろ?)」
「(……うん。さすがにもういいかな)」
なぜかうちの高校の体育は妙な組み合わせ(一組と四組、二組と五組、三組と六組)でやるなー、と思ってたが、そんな理由だったのかよ。あと、そろそろ後ろの二人が限界っぽい。
「だが、私だって男子校に男装女子が紛れ込むなんていうマンガみたいな話は初めてでな、何をどうフォローしていけばいいのか正直分からないんだ。それに、六月に入ればプール開きもあるし、今後体育祭や文化祭、修学旅行なども控えている。私一人が手を回したところで、孫娘たちの安全が確保できるかはかなり微妙だ。理事長という立場上、職権を乱用しすぎるのもよくないだろ?」
「「「「いや、アンタ(おじいちゃん)なら大丈夫だろ(でしょ)」」」」
マジメなはずの話にもツッコミ所を挟まずにはいられない理事長に、ついに全員が耐えきれずにツッコんだ。アンタは既にそういう人間だと認識されてるから今更な心配だ。
「そんな折、とある男子生徒が女体化したという話が入ってきた」
しかし理事長は、そんなツッコミなどなかったかのように話を続ける。この人のメンタルは一体どうなっているんだ。
「これは大変由々しき問題だし、その原因である吉岡には早急な解決を求めるつもりだが……同時に私はこうも思った。これは、使えると」
「「「「おい」」」」
「桐生ちゃんの付き添いで来た幼馴染の前橋は、事情を知っている者として、また桐生ちゃんを退学にさせないために、桐生ちゃんが男装女子になってしまったことがバレないようフォローしなければいけなくなる。……だったら、悠輝と高崎も前橋にフォローさせればいいんじゃね? と思ったわけだ」
「おいこらぶっ飛ばすぞクソジジイ」
……昨日からなんとなくそんな予感はしていたが、できれば当たってほしくはなかった。男装女子のフォローなんて俺もやったことないし、楓だけでも苦労しそうなのに同時に三人とか。エリート帰宅部の俺を何だと思ってんの?
「だから私は、前橋が二人の事情を偶然知ってしまうように仕向け、こちら側に引き込むことにした。まさか二日で二人の事情を知ってしまうことになるとは、少し想定外だったがな。悠輝たちの危機管理能力が心配になった」
「「ぐっ……」」
館林と高崎が言葉に詰まる。確かに、俺たちが探りを入れ始めて二日で男装女子であることがバレてしまったのを考えると、今後の高校三年間が果てしなく不安だ。不本意だが、フォローをする人員が必要だという点は理事長に全面同意だ。……いやまあ、俺がたった二日で二人の事情を知ったのは、かたやちょっと人にはお聞かせできない変態的なやり方、かたやラッキースケベと、少し……いやかなり特殊なケースなので、普通にしていれば二人とも気をつけているからそうそうバレることはなさそうだが、それでも事情を知る人のフォローがあるのとないのとでは全然違う。その必要性は否めない。
「というわけで、今後悠輝と高崎、それから桐生ちゃんの学校生活に関するフォローは前橋に一任する。私の力(権力)が必要なら、遠慮なく申し出てくれ。ただし、悠輝に手を出した場合は二〇〇分割して富士の樹海に埋める」
「骨単位で分解⁉」
そんだけ孫娘への愛が深いなら男子校に入学なんてさせるなよ、とツッコみたくて仕方がないのだが。ツッコんだら負けだろうか。
「というのが、この生徒たちの事情だ」
俺たちへの説明は済んだ、と言わんばかりに、理事長が今までポカンとして話を聞いていた教師二人へ視線を移す。いや、ちょっと待て、俺がこの三人のフォローをすることが決定事項になってるんだが。了承した覚えはないぞ。
「しかし、生徒に任せきりにしてしまうのもよくないだろう。できれば大人の協力者も欲しい。というわけで、その役目を藤岡先生に任せる」
「……私、ですか~? 正直私、人のフォローとかまったく向いてませんけど~」
それについては激しく同意です。
「そんな気はしていた。だから藤岡先生には、この三人の男装生活によるストレスを発散する場所、素に戻れる空間を用意してほしい。具体的には剣道場とか」
「あ~……つまり、館林くんたちが男装がバレるのを気にせず、事情を知っている人たちだけでのびのび出来る場所、具体的には防音が完璧で、私と館林くんしか部員がいない剣道部がいるだけの剣道場を放課後の居場所に~、ってことですか~」
おっとりしているのに意外と頭の回転の速い藤岡先生。もうギャップはいらないと言ったのに……。
「そういうことだ。秘密がバレる心配がなくのびのび出来るという意味では寮室でもいいんだが、部屋にこもりきりの学校生活では楽しくないからな。だからこうして剣道場の管理人であり、悠輝の顧問でもある藤岡先生にも事情を聞いてもらったというわけだ」
「「「理事長……」」」
……意外といいところあるじゃないか、理事長。ほんの少しだけ見直してやらないこともない。
「あ、ちなみに来年以降、剣道部に入部希望者が来た時は私はノータッチだから。君たちで頑張って解決して」
「「「おい」」」
はーい前言撤回ー。結局理事長は理事長でしたー。
「……で、吉岡」
「あい」
……理事長も理事長だが、吉岡も吉岡だな。一応とはいえ上司に対する返事が「あい」って。トラブルメーカーはみんなこうなのか。
「桐生ちゃんが女体化したのは、君の薬のせいらしいが」
「あ、やっぱり! あのクッキーに混ぜた薬、ちゃんと効いたんスね! いやー、あたしも凄いの作っちゃったなー!」
「俺は実験台かよ⁉」
ヘンな薬の実験台に自分の生徒を使うとか。普通に裁判沙汰だぞ、それ。
「うむ。薬の効果については大変素晴らしい。あとで欲しいくらいだ」
「「「「おい」」」」
そろそろマジでぶっ飛ばすぞ。
「だが、女体化してしまった桐生ちゃんは困っているし、学園側としても生徒を女体化させちゃったなんて事実が明るみになったら大惨事だ。というわけで、吉岡には桐生ちゃんを元に戻す薬を作ってもらう。ちなみに完成するまで給料は半減だ」
「…………マジすか」
「マジです」
さっきまで自分の大発明に興奮していた吉岡の顔が、すごい勢いで青くなっていく。自業自得以外の言葉が見つからない。
「……アレ、割と偶然の産物なんで、もう一度同じものを作るのも厳しそうなんスけど、その逆っすか……?」
「うむ。吉岡ほどの科学者ならできるって信じてるぞ」
「……‼ やるっス! 絶対作るっス!」
「うむ。期待しているぞ」
「あいっス!」
((((吉岡チョロっ!))))
さすが理事長、吉岡の扱い方を心得ている。
「というわけだから桐生ちゃん。吉岡が薬を作るまでの間、しばらく我慢してくれ」
「はあ………まあ、わかりました」
まあ、楓としてはそれを待つ以外の方法がないのでそう答えるしかない。
「というわけで、今日の話は以上だ。前橋、うちの孫娘を含め、三人のフォローは任せたからな」
こうして俺は、男子校に紛れ込んだ男装女子三人のフォローをするという、ライトノベルでも見ねーよ的な超展開に巻き込まれてしまったのだった。