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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第一章
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目が覚めたら全て夢だった、そんなうまい話があるかと思っていたが――

今回はどうやら信じても良いかもしれない。


とりあえず頬を抓って確認する。

痛みを感じてから、彼女はしばらく呆然としていた。視界に移るのは見慣れた景色。そう、そこは彼女の家だった。


(うそ…いつの間に?)


制服オヤジに依頼された痩せた男。寛子はまだ男の顔を思い出すことができた。男に縄で縛られて、まさに売り飛ばされる危機に瀕していたのに、どうして自分は今家に戻ってきているのだろう。それもご丁寧に、ベッドに横たわった体には蒲団がかけられていた。家までの記憶どころか――いや、さっぱりだ。どうやって帰ってきたかまるで見当がつかなかった。こうなると、不気味である。


(い…今何時だろう)


とりあえずベッド脇の時計を見やった。


「し、七時半!」


しかし、それは午前か午後か。デジタル時計ではないので判断しかねた。急いでベッドから起き上がり、閉まっていたカーテンをシャッと音を立てて勢いよく開けた。眩しいほどに視界に飛び込んできた太陽の光。手でさっと遮り、その温かい光に目を細めた。


(朝、だ)


今までに、これほど心地よく感じられた朝はあっただろうか。


(私は、「私」を、か)


思い出していた。ようやく気がついたこと。自分自身を必要としてほしいということ。


(藤宮寛子だけが持っているものって、なんだろう)


答えはそうそう簡単には見つからないだろう。しかし、探そうとすることができるだけ、彼女は自分が前に進んだことを感じていた。「役割」を与えてくれる誰かを探してさまよっていた彼女は、ずっとその問いを探していたのだろう。寛子だけが持つもの。彼女が在ることで存在するものとは何か。そしてそれを求めてくれる誰かを探すことが、これからの彼女の生きる目的になった。


(ある意味、何者でもない自分が、「私」なのかもね)


制服を脱ぎ捨てても、この肉体を脱ぎ捨てても、それを「私」だと呼んでくれる存在。何物でもない自分としての「私」を求めてくれる存在。


(何物でもない…すべてを脱ぎ捨てた私…)


そういえば、と新任教師の言葉を思い出した。


――すべて脱ぎ棄て、魂だけの存在になれる?


(なんだか、似てるわ)


でも、魂だけの存在とはなんだろう。

魂とかそういうの、なんだか難しい。


寛子はそう思った。しかし、気になる一言ではあった。


(確かあのとき、続けて)


――そしてその魂を、僕にくれる?


(そう言った)


魂とは、何か形があるものなのだろうか。とりあえず新任教師、クルツフォートードは不思議な人だと思った。


(むちゃくちゃ綺麗なのは尺に障るけど)


そう思って苦笑する。


(でも、私のこと、気にしてくれた…よね)


外見だけでなく、人当たりも良いと絶大な人気を誇る先生。それがクルツだ。


(考えてみたら、あんなふうに構ってくれた人、いなかったかも)


愛情に飢えていた。両親はどこへ行ったか知れず、自らは何かを求めてさまよい続けていた。でもようやくそこから抜け出て、寛子は新しい一歩を踏み出そうとしている。自分は変われるはずだと自信がわいてきた。


(お礼、言わなきゃ)


そう思えた。







英語科準備室。大抵ここにいると言っていたのを思い出し、寛子は放課後そちらに向かった。英語教師、クルツは突然の寛子の訪問に驚き、しかしその姿を見てなんだかホッとしているようにも見えた。一瞬強張った顔がすぐに柔らかいものになる。それを見た寛子は、もしや今は忙しかったのではと思い、申し訳なさそうな顔をした。


「あ、お邪魔でしたか?」


おずおずとそう尋ねる様は、すっかりクルツを「信用できる教師」として見ている生徒だった。言葉に棘がない。


「え…いや、まさか。大丈夫だよ、どうぞ」


クルツは我に返り、ようやくそう応えた。花のように美しく寛子に笑いかける様は、実は寛子限定だということを、寛子だけでなく本人も知らないところだ。「嬉しい」と言葉にしなくても伝わる笑顔。仮面がはがれ、感情をそのまま表情に移す。それだから、余計に美しいのだ。


「昨日は、どうしたのかな?」


カップに紅茶を注ぎながら、クルツはそう尋ねた。勿論、大体のことは聞き及んでいるのだが。対する寛子は一瞬びくりと体を震わせたが、すぐに笑みを浮かべて応えた。


「風邪、引いちゃって」

「…そう。もうすっかり良くなった?」

「はい。おかげさまで」

「それはよかったね。…それで、今日はどうかしたのかな?」


が注がれたカップを寛子に手渡し、クルツは遠慮がちに尋ねた。


「あ、いえ…少し、報告と言うか…」

「報告?」

「決めたことがあって」

「それはつまり?」


クルツはマグカップを片手に、寛子の向かい側の席に腰かけた。


「こ、この間…先生に、いい生徒にはなれなかったって言ったでしょ?」

「…そうだったね」


いくぶん、クルツの表情に影が差す。あのとき感じた気持は、理解し難い苦さを含んでいたからだ。


「でも、私…これから、いい生徒にもなってみようって思ったんです」

「?」

「先生は、私のことホントに気遣ってくれて、今まで気がつかなかったけれど、今まで出会った誰よりも、一番先生らしかったって言うか…凄く、嬉しくて…だから、私も、いい生徒になりたいんです」

「それは…つまり」


「もう、行かないって決めました。あそこには私の欲しいものはないって、良く分かったから。私は、私がまだ何を求めているか分からないんですけど、私はきっと、誰かから与えられることを必要としていたんじゃなくて、誰かから必要とされたかったんだと思うんです。私じゃないとダメって、そう言ってくれる存在に出会って、私自身を、なにも背負っていない「私」を必要だって言ってもらえるように、今よりずっといい人間になりたいなって、そう思ったんです」


晴れ晴れとした顔で言った寛子の言葉に、クルツはすぐに反応することができなかった。しかし、なんとか笑顔を浮かべ、言葉を返す。


「なれるよ、君なら。そしてきっと、君を必要とする存在は現れる」


心からそう思えた。クルツの言葉を聞き、寛子は表情を綻ばせた。


「先生、ありがとう。ホントに、私、先生と出会えてよかった」そう言ってから、「あ、あの、甘いものとか好きですか?今度、お礼にお菓子作ってこようと思って」

「好きだけど…え、僕に?」

「先生以外に誰がいるんですか」


寛子はくすくす笑う。


「それ持って、また遊びに来てもいいですか?」


その人ことは、クルツにとっては思いがけない一言だった。


「もちろん、いつでも歓迎するよ」


クルツがそう応えると、寛子はまた嬉しそうに笑った。

ほんの少しでも気を緩めると、その笑顔に見とれている自分に、クルツは気がつかなかった。


やがて寛子が「それじゃあまた」と言って部屋を出ていくと、クルツは一人呆然としていた。


――先生と出会えてよかった。


その一言を聞いて込み上げてきた気持ち。

そして何より、寛子の笑顔を見て芽生えた気持ち。


(苦しいけれど、苦くはない)


そんな悩ましい気持ちを抱えながらも、クルツは自分が微笑んでいたことに気が付いていなかった。

芽生えた気持ちは、まだ咲いてはいない。


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