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どうしてこんなことになったのか。
よく聞く後悔のフレーズだが、彼女の置かれた状況は、普通の女子高校生が陥るにしては少し「よくある」とは言い辛いものだろう。
(…やば、記憶が)
飛んでいる。
酷い頭痛がしたが、原因はよく分かっていた。飲み過ぎだ。
男に連れられてバーに入り、そこでしこたま飲んだのだ。
いくら考えても、自分の求める「私」とは何か分からなかった。所詮、誰かに与えてもらわないとそれは確立しないものなのだろうと彼女は思う。
頭が痛いからか、体がだるいからか、それとも両方が原因なのかは定かではないが、彼女は意外と冷静だった。自分が足を運んだのは夜の街。大人の街。明るい昼間の世界ではない。何が起こるか分からないし、大抵悪いことだということも分かっていた。それに対する覚悟があるかは別として、自分が置かれている状況が「悪い」ものであり、自分の体を縛っている縄はなかなか丈夫だろうという察しもついた。
(その手の縄だったら嫌かも)
などと呑気な考えが浮かぶ。あまり知識はなかったが、一度「縛らせて」と男に言われたことがあるので、裸に剥かれて縄で「美しく」縛らせている自分の姿をちらりと思い描いた。幸いなことに、今の彼女はちゃんと服を着ていたし、手首と足首が縛られているだけなので、イメージからはかけはなれたものだったが。
(今、何時よ)
学校は始まっている…ような気がする。そう思ってがっかりした。皆勤賞をこっそり狙っていたのだ。そんなもの貰ったとしても喜んでくれる人はいないけれど。そう思って苦笑する。
「起きたようだなあ」
不意にそんな風にのんびりとした口調で声がかけられ、彼女――藤宮寛子は顔を上げた。視界に入ったのは一人の男だった。どこかで見たことがある。薄ぼんやりとだが、寛子は男の顔を覚えていた。たぶん、昨日の夜一緒にバーに入った男だろう。
「いい格好だなあ」
その一言を聞き、その手の趣味があるのかと冷やりとした。男は舌なめずりしている。
「おいたはしちゃいけないよ?」
「おいた?」
寛子が訝しげに聞き返すと、男は扱けた頬をカリカリと指で掻いた。
「制服好きのおじさんがいただろ。他の女と一緒にいるときに余計なことしちゃったんだってなあ?その女ねえ、おじさんにご執心だったようでね、他に女がいたと知って逆上してね。チクっちゃったんだよ、会社に」
「制服にやられたんだから、本望じゃないの?」
「言うなあ、なかなか。まあ、どうでもいいさ、俺は依頼されただけだ」
ひょろりとした男はすっと目を細めた。値踏みしているように見えた。
「…私をどうする気?」
「んー、どうするかなあ。とりあえず、色々」
淡々と言われただけに、男の言葉は全くの本気だということを寛子は悟った。さんざん危ない橋を渡ってきた寛子だったが、さすがに事態の重さに恐怖を覚えたようで、顔を青くした。しかし、一方では自分の行く末にまったく不安を感じていなかった。
「で、そのあとどこかに下げ渡すとか。まあ、そんな感じだろうなあ」
「……」
「怖いか?」
「そうしたら、私はどんな「私」になれるの?」
「は?」
「制服?それとも、穴?」
「なるほど、イカレてるのか」
男はそう言ってため息をついた。
「男を手玉に取る雌豚が。何になれるって?変わりゃしないさ。薄汚い女め。制服着て足開いて、まわされて、そうして堕ちていけたら本望だろ?」
「何かになれるなら本望だわ。でもきっと、違う。あんたの言っている「私」は、私がなりたいものじゃないのよ」
「なりたいだあ? なるんだよ。問答無用でな」
「本当になれるの?それは本当に、変わったってことになるの?」
「わかんねえ女だな」
男は苛立たしげに頭をガシガシと掻いた。
「とにかく、どうするにしろおまえを下げ渡すことは決定だからな。店に売り渡すってことだ。分かるな?」
「私を待ってる?」
「あーそうだ。待ってるんだよおまえを。奴らはおまえみたいなのを必要としてるんだ」
「必要としてる?それって、「私」を?」
「おまえと話してると気味が悪くて仕方がねえ。そうだ、おまえ。おまえだ」
「私の身体じゃなくて?」
「はあ?体に決まってるだろ?」
「それは「私」じゃないじゃない!体だったら今までと同じでしょ。制服と同じ!何も変わらないじゃない!私は、「私」を…」
そこまで言って、寛子はハッとした。
私は「私」を。
(そうか…「私」を、私自身を、必要としてほしいんだ)
私だけ、私がだけが持っているものを。
制服じゃない、体じゃない。藤宮寛子だけが持っている何かを見つけて、それを必要としてくれる人が欲しいんだと、寛子は思った。
(きっと、その人は、私が欲しい「私」をくれる)
そう気がついた時、寛子の眼からぽろぽろと涙が流れた。その雫に、男よりも寛子の方が驚いていた。なんだか綺麗に見える。一つ一つのしずくが、キラキラと光っていた。
「なんだおまえ、何泣いて」
そう呟く男の声など、寛子の耳には聞こえていなかった。だからこそ、彼が次の瞬間うめき声をあげたことも気がつかずに済んだのかもしれない。涙で濡れた視界には、いつの間にか痩せた男ともう一人、黒いコートに身を包んだ人影が映っていた。だが、痩せた男が地面に仰臥したとき、寛子の意識も薄れ、やがて眠るように瞼が閉じられたので、彼女が詳細を知ることはなかったし、ほとんど記憶にも残らなかった。ただ、
「いい豚だ」
そう嬉しそうに呟く男の声が聞こえたことを、彼女は再び意識を取り戻したときもちゃんと覚えていた。