6
たった一日だ。まだ一日しか経っていないのに。
クルツは嫌な焦燥感に襲われていた。クルツが寛子に、約束は守っているかと問い詰めた翌日、寛子は学校に来なかった。クルツがそれに気がついたのは、英語の授業が始まって、いつも通り彼が寛子の席に目をやったときだ。
いない。
そうとわかっただけで、全身に冷ややかな何かが広がっていく。
『もう、放っておいてください。できないなら、学校にバラして退学にすればいい。そうしたらあなたの視界からも消すことができますよ』
昨日、彼女が言った言葉が頭から離れない。
何度も何度も反芻し、頭の中に焼き付いてしまったようだった。
(消す?)
彼女が消える?
冷汗が服の下を伝った。ひとまず教卓に教科書と名簿を置き、冷静になろうと努める。押し寄せる不安。彼女が視界にいないだけで、恐ろしいほどの不安がクルツを襲った。
――今にも、押しつぶされそうだ。
「クルツ、アーユーオーケー?」
よほど顔色が悪かったのか、前にいた生徒の一人がそう尋ねた。クルツはハッとした。
「…すみません」
そう言った声は擦れていた。
「朝から少し体調が悪くて。今日のところは、自習にしますね」
その言葉を聞き、若干名が落胆の声を上げたが、他はみんなクルツの体調を気遣い、早く休む様に言った。
「ありがとう」
と、その表情に疲労の色を見せつつ、ぎこちなく笑った。それは振りではなかった。本当に、綺麗な笑みを浮かべる方法を忘れてしまったのだ。それに驚いたのは何より彼自身だった。長年演じ続けてきた、その仮面がいとも容易く剥がれ落ちるとは。視線をさっと寛子の席に走らせた。いない。彼女がいない。
(それだけなのに)
どうしてこんなにも苦しいのか。今この身を苛んでいるのは不安に間違いなかった。クルツは生徒たちにもう一度ぎこちない笑みを浮かべると、自習内容を指示し、そのまま教室を出た。後ろ手に扉を閉める。
(姿が見えないだけだ。どうして不安になる?)
わからない。
所詮《永遠の魂》の入れ物に過ぎないというのに。
彼女がいつか死に、その魂を手に入れることが出来れば、それで自分は不死身ではなくなるはずだ。それならば黙って、彼女が何をしようと、ただ彼女の死を待っていればいいはずなのに。生きている彼女など、自分には意味のない存在のはずなのに。クルツは自分の中に生まれた感情が何か理解できなかった。
(二人きりでいたときに、何かが満たされ始めたと感じたのは、いったいなぜ?)
そして、満たされ始めた何かは、寛子の姿が消えると、底に穴が開いたかのように、中身が空っぽになってしまった。寛子が去った瞬間に、心の中にこみ上げていた温かさが冷めていった。
(あんな温かさを、僕は知らない)
彼はその名も知れぬ温かさを渇望していた。一度触れた温かさは、もう二度と忘れることはできないし、一生求め続けるだろうとクルツは感じていた。
(もしかすると、死よりも…)
死を求めるより、クルツは名も知れない「何か」を求めている自分に気がついたが、正体の知れない感情に不安を抱き、そんなものは一時の気の迷いだと考えを振り払った。迷いから得られるものは何もない。
(僕が欲しいのは、死、のみだ)
そう自分に言い聞かせる。しかし、職員室に戻り、早退を告げて学校を後にした彼は、その足でまっすぐ、寛子を何度も見かけたあの夜の街に向かっていた。
他の誰をも見透かすことができたクルツが、たった一人見透かすことのできない存在、それが寛子だ。どこにいて何をしているのかまったく読み取れなかった。クルツはずっと、「見透かすことのできない存在」を渇望していたが、今は何より寛子のことを読み取りたかった。そう、知りたいのだ、寛子の何もかもを。クルツは無意識に寛子を求めていた。
だが、街に向かうのは良いとして、それからどうすればいいだろう。衝動的に学校を出たはいいが、前に言ったように、彼には寛子の行動が全く読めないのだ。夜なら「夜の街」にいて、醜い豚と肩を並べてホテルに入っていくかもしれないが、今はまだ午後になったばかり。しかも彼は一際目立つ存在である。この時分から街を歩き回るのは良い考えではなかった。
気づけば、クルツはその場に立ちつくしていた。人々の喧騒が聞こえる。
(今まさに、僕は無力な人間だ)
呆然とした。
いつだって人間を上から見ていたのだ。所詮、決められた時を生きるだけしかない存在。そんな人間を、儚く可哀そうな存在と思っていた時もあったが、そんな遠い過去をクルツはもう思い出せなかった。
「仮面、剥がれてんぜ」
呆然としていたクルツの耳に、突然そんな、からかいを含んだ声が聞こえた。クルツの声が「青年」という言葉の優しいニュアンスを感じさせるものならば、この声は「男」を感じさせる、色を含んだ低い声だった。クルツはこの声の主を知っていた。
「ゼグヌング」
とクルツは僅かに笑った。
「恐ろしくタイミングがいいね」
そう言って振り返ると、そこには黒髪の男が立っていた。見えたのは少し不機嫌そうな顔。金の目を伏せ、小さくため息をつく。
「ゼグだ」
ゼグヌングと呼ばれた男は言った。
「変わらないね、君は」
クルツは苦笑する。
「フン、クルツフォートードのほうがマシってもんだ」
「君には似合わないよ」
「だとしても、おまえにはゼグヌングのほうがお似合いだな。死の旅に出る人間に、旅の幸運を祈る祝福の天使。『ありがとう、天使さま。私の願いを聞いてくれて』。そんな言葉、俺は生まれてこの方聞いたことねえぜ」
「酷いね、天使さま。好きでそう言われているわけじゃないのに」
「へえ。じゃあその言葉を借りるならこうだな。俺は好きで天使に生まれてきたんじゃねえ」
「なんだ、奇遇だね。僕も好きでこんな風に生まれてきたわけじゃない」
クルツがそうきっぱりと言うと、男はプっと笑いを零した。
同じようにクルツも笑った。しばらく笑い続け、ようやくゼグが口を開く。
「見つけたんだって?」
「うん、ようやく。見失って、今探しだそうとしてるんだけどね」
「見えないくせに」
「助けてよ」
「えらく素直だな。気味が悪い」
「ハハ、それは僕が一番良く知ってるよ。あの子と出会ってから、自分自身が良く分からない。気味が悪い」
「ははっ、それは悪くねえな。なんでも見透かせるおまえが、てめえのことが良く分からないって?まあ、俺に言わせりゃ、自分ってもんが一番理解し難い存在かもな、意外と。――で、どうする?」
ゼグがくいと眉をあげてそう尋ねると、クルツはその顔からすっと笑みを消した。
「探して。ああ、近くに豚がいたら」
「豚?今夜はご馳走だな」
ゼグはククッと低く笑った。
「好きに料理したらいい。吐き気がするほどまずいと思うけど」
クルツが眉間にしわを寄せてそう言ったのを聞き、
「そりゃ、俺にとってのご馳走だ」
ゼグは愉快そうにそう言う。
「そうだったね」
「また仮面、剥がれてんぞ」
「仮面なのかな」
「知らねえよ」
ゼグは小さく笑った。
「とにかく、おまえはあんまり動き回るなよ。せんせーしてるんだろ?歓楽街に昼間から教師がいたんじゃ、ほら、色々と示しがつかねえ」
「驚いた。君がそんなこと言うなんて」
「ここはそういう国だろ?」
言って、ゼグは肩をすくませる。
「おまえは家で大人しくしてろ。胸に手ぇ当てて、てめえのことでも考えるんだな。俺は行く。今夜はご馳走。それだけでわくわくするな」
「…頼むよ」
それだけ言って、クルツは苦笑した。
「ああ」
スッと唇を薄くのばし、ゼグは笑って頷いた。
彼の姿が視界から消えた後、クルツはまだその場に立ち尽くしていた。
心に湧き起こっているのは、明らかにゼグへの嫉妬だった。これだけは分かった。
(頼むことさえ、癪なんだ)
クルツは踵を返し、歓楽街に背を向ける。
(…自分で君を、見つけたいよ)
そう思い、表情を曇らせた。