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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第一章
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たった一日だ。まだ一日しか経っていないのに。


クルツは嫌な焦燥感に襲われていた。クルツが寛子に、約束は守っているかと問い詰めた翌日、寛子は学校に来なかった。クルツがそれに気がついたのは、英語の授業が始まって、いつも通り彼が寛子の席に目をやったときだ。


いない。


そうとわかっただけで、全身に冷ややかな何かが広がっていく。


『もう、放っておいてください。できないなら、学校にバラして退学にすればいい。そうしたらあなたの視界からも消すことができますよ』


昨日、彼女が言った言葉が頭から離れない。

何度も何度も反芻し、頭の中に焼き付いてしまったようだった。


(消す?)


彼女が消える?


冷汗が服の下を伝った。ひとまず教卓に教科書と名簿を置き、冷静になろうと努める。押し寄せる不安。彼女が視界にいないだけで、恐ろしいほどの不安がクルツを襲った。


――今にも、押しつぶされそうだ。


「クルツ、アーユーオーケー?」


よほど顔色が悪かったのか、前にいた生徒の一人がそう尋ねた。クルツはハッとした。


「…すみません」


そう言った声は擦れていた。


「朝から少し体調が悪くて。今日のところは、自習にしますね」


その言葉を聞き、若干名が落胆の声を上げたが、他はみんなクルツの体調を気遣い、早く休む様に言った。


「ありがとう」


と、その表情に疲労の色を見せつつ、ぎこちなく笑った。それは振りではなかった。本当に、綺麗な笑みを浮かべる方法を忘れてしまったのだ。それに驚いたのは何より彼自身だった。長年演じ続けてきた、その仮面がいとも容易く剥がれ落ちるとは。視線をさっと寛子の席に走らせた。いない。彼女がいない。


(それだけなのに)


どうしてこんなにも苦しいのか。今この身を苛んでいるのは不安に間違いなかった。クルツは生徒たちにもう一度ぎこちない笑みを浮かべると、自習内容を指示し、そのまま教室を出た。後ろ手に扉を閉める。


(姿が見えないだけだ。どうして不安になる?)


わからない。

所詮《永遠の魂》の入れ物に過ぎないというのに。

彼女がいつか死に、その魂を手に入れることが出来れば、それで自分は不死身ではなくなるはずだ。それならば黙って、彼女が何をしようと、ただ彼女の死を待っていればいいはずなのに。生きている彼女など、自分には意味のない存在のはずなのに。クルツは自分の中に生まれた感情が何か理解できなかった。


(二人きりでいたときに、何かが満たされ始めたと感じたのは、いったいなぜ?)


そして、満たされ始めた何かは、寛子の姿が消えると、底に穴が開いたかのように、中身が空っぽになってしまった。寛子が去った瞬間に、心の中にこみ上げていた温かさが冷めていった。


(あんな温かさを、僕は知らない)


彼はその名も知れぬ温かさを渇望していた。一度触れた温かさは、もう二度と忘れることはできないし、一生求め続けるだろうとクルツは感じていた。


(もしかすると、死よりも…)


死を求めるより、クルツは名も知れない「何か」を求めている自分に気がついたが、正体の知れない感情に不安を抱き、そんなものは一時の気の迷いだと考えを振り払った。迷いから得られるものは何もない。


(僕が欲しいのは、死、のみだ)


そう自分に言い聞かせる。しかし、職員室に戻り、早退を告げて学校を後にした彼は、その足でまっすぐ、寛子を何度も見かけたあの夜の街に向かっていた。


他の誰をも見透かすことができたクルツが、たった一人見透かすことのできない存在、それが寛子だ。どこにいて何をしているのかまったく読み取れなかった。クルツはずっと、「見透かすことのできない存在」を渇望していたが、今は何より寛子のことを読み取りたかった。そう、知りたいのだ、寛子の何もかもを。クルツは無意識に寛子を求めていた。


だが、街に向かうのは良いとして、それからどうすればいいだろう。衝動的に学校を出たはいいが、前に言ったように、彼には寛子の行動が全く読めないのだ。夜なら「夜の街」にいて、醜い豚と肩を並べてホテルに入っていくかもしれないが、今はまだ午後になったばかり。しかも彼は一際目立つ存在である。この時分から街を歩き回るのは良い考えではなかった。


気づけば、クルツはその場に立ちつくしていた。人々の喧騒が聞こえる。


(今まさに、僕は無力な人間だ)


呆然とした。

いつだって人間を上から見ていたのだ。所詮、決められた時を生きるだけしかない存在。そんな人間を、儚く可哀そうな存在と思っていた時もあったが、そんな遠い過去をクルツはもう思い出せなかった。


「仮面、剥がれてんぜ」


呆然としていたクルツの耳に、突然そんな、からかいを含んだ声が聞こえた。クルツの声が「青年」という言葉の優しいニュアンスを感じさせるものならば、この声は「男」を感じさせる、色を含んだ低い声だった。クルツはこの声の主を知っていた。


「ゼグヌング」


とクルツは僅かに笑った。


「恐ろしくタイミングがいいね」


そう言って振り返ると、そこには黒髪の男が立っていた。見えたのは少し不機嫌そうな顔。金の目を伏せ、小さくため息をつく。


「ゼグだ」


ゼグヌングと呼ばれた男は言った。


「変わらないね、君は」


クルツは苦笑する。


「フン、クルツフォートードのほうがマシってもんだ」

「君には似合わないよ」

「だとしても、おまえにはゼグヌングのほうがお似合いだな。死の旅に出る人間に、旅の幸運を祈る祝福の天使。『ありがとう、天使さま。私の願いを聞いてくれて』。そんな言葉、俺は生まれてこの方聞いたことねえぜ」

「酷いね、天使さま。好きでそう言われているわけじゃないのに」

「へえ。じゃあその言葉を借りるならこうだな。俺は好きで天使に生まれてきたんじゃねえ」

「なんだ、奇遇だね。僕も好きでこんな風に生まれてきたわけじゃない」


クルツがそうきっぱりと言うと、男はプっと笑いを零した。

同じようにクルツも笑った。しばらく笑い続け、ようやくゼグが口を開く。


「見つけたんだって?」

「うん、ようやく。見失って、今探しだそうとしてるんだけどね」

「見えないくせに」

「助けてよ」

「えらく素直だな。気味が悪い」

「ハハ、それは僕が一番良く知ってるよ。あの子と出会ってから、自分自身が良く分からない。気味が悪い」

「ははっ、それは悪くねえな。なんでも見透かせるおまえが、てめえのことが良く分からないって?まあ、俺に言わせりゃ、自分ってもんが一番理解し難い存在かもな、意外と。――で、どうする?」


ゼグがくいと眉をあげてそう尋ねると、クルツはその顔からすっと笑みを消した。


「探して。ああ、近くに豚がいたら」

「豚?今夜はご馳走だな」


ゼグはククッと低く笑った。


「好きに料理したらいい。吐き気がするほどまずいと思うけど」


クルツが眉間にしわを寄せてそう言ったのを聞き、


「そりゃ、俺にとってのご馳走だ」


ゼグは愉快そうにそう言う。


「そうだったね」

「また仮面、剥がれてんぞ」

「仮面なのかな」

「知らねえよ」


ゼグは小さく笑った。


「とにかく、おまえはあんまり動き回るなよ。せんせーしてるんだろ?歓楽街に昼間から教師がいたんじゃ、ほら、色々と示しがつかねえ」

「驚いた。君がそんなこと言うなんて」

「ここはそういう国だろ?」


言って、ゼグは肩をすくませる。


「おまえは家で大人しくしてろ。胸に手ぇ当てて、てめえのことでも考えるんだな。俺は行く。今夜はご馳走。それだけでわくわくするな」

「…頼むよ」


それだけ言って、クルツは苦笑した。


「ああ」


スッと唇を薄くのばし、ゼグは笑って頷いた。


彼の姿が視界から消えた後、クルツはまだその場に立ち尽くしていた。

心に湧き起こっているのは、明らかにゼグへの嫉妬だった。これだけは分かった。


(頼むことさえ、癪なんだ)


クルツは踵を返し、歓楽街に背を向ける。


(…自分で君を、見つけたいよ)


そう思い、表情を曇らせた。


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