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それはある種の、「超直感」だったのかもしれない。
藤宮寛子は登校するなり、まだ誰もいない教室に鞄を置き、すぐに英語科準備室に足を向けた。
根拠はないが、(いる)と思ったのだ。
英語科準備室の扉の前に立ち、ノックしようと拳を握る。中には灯が付いていた。ドキドキと、心臓が早鐘のように打っていたのが、更に速くなる。
彼女は蓋を開ける。頑丈に閉じた蓋を開け、中から――気持ちを、封じられた言葉を、出そうと決めたのだ。
(先生に、好きだって)
言うと、決めたのだ。
意を決し、コンコンとノックする。
「はい」
と、返事が聞こえた。
ごく、と生唾を飲む。
ゆっくりと、扉を開けた。
向こう側にいた人物が、こちらを振り返る。
寛子の背筋が、自然に、ぴんと張った。
朝早くからの寛子の訪問に、少なからず美貌の英語教師―クルツフォートードは驚いたようで、寛子が入室し、彼の側に来るまでの間、しばらく瞠目したままだった。
「あ、え、と、藤宮さん。早いね」
ようやくそう言うと、強張った顔を若干緩める。
「すみません、こんなに早く。もしかしたら先生がいるような気がして、あ、おはようございます」
寛子の顔は少し赤い。
「ううん、全然構わないよ。丁度今用事も終わったしね」
座って、とクルツは寛子に席を勧める。はい、と寛子は示された椅子に腰かけた。
心臓はまだ、ドキドキと煩い。
クルツは開いていたノートを閉じ、寛子に向き直る。
「授業の準備ですか?」
「そう。ちょっと先週休んでいて、その分色々と用意があって」
「そういえば、昨日は一度も見かけませんでした」
「たまっていた授業をこなしていて、うん、昨日は凄く忙しかったんだ」
はあ、と盛大な溜息をついて見せるクルツだが、なんてね、とすぐに笑いを零す。
「藤宮さんは、その後、どう? もうすっかり元気そうだね。昨日会えなかったから心配していたんだ」
「もうすっかり元気です。平良くんにもお礼も言えて、昨日は凄く楽しかった」
「そ、っか。それはよかったね」
クルツの笑顔は若干堅かったが、寛子は俯き加減でいたので気が付かなかった。ぎゅう、と膝の上で拳を握る。
「あ、あの」
寛子は意を決し、顔を上げる。クルツはきょとんとした顔をしていた。はっ、と寛子はクルツの顔が至近距離にあることに気がつき、言いかけていた言葉を呑み込み、別のことを言ってしまう。
「あ。改めて、お礼を言いたくて」
「お礼?」
「助けてくれたこと、と、その、服とか…あっ、服はまた、洗濯して返しますね。それと、朝ごはんと、コーヒーと…」
自分は何を言っているのだろう、と寛子は内心で戸惑っていた。そんな寛子の心情を読みとったのかは分からないが、クルツはくすと笑いを零す。
「どういたしまして」
その優しい笑みに、寛子の心臓が「貫かれた!」と致命傷を訴えた。しかし、負けるものか、と寛子は自身を奮い起す。
「あの、それと、もう一つ言いたいことがあって」
そうだ、それだ。あと一息、と自分を励ます寛子。好きだと言うのだ。生徒と先生という問題は忘れていないが、気持ちを伝えるのは悪いことではないはずだ。生徒であるから断られるのは想像に難くないが、気持ちを伝えて、お礼を言って、――
(とにかく、言うのよ)
しかし、その決意はあっさりと、クルツによってくじかれた。
「紅茶でも淹れようか。ミルクティーでいい?」
クルツが突然立ち上がり、にっこりとした表情で寛子に尋ねた。
「あ…はい」
ありがとうございます、と自動的にお礼を言う寛子。
盛り上がった気分は最低点まで下がってしまっていた。
(なんだろう…)
なんだか彼女の様子が変だ、と紅茶を用意しながらクルツは思った。こうして朝一番に自分を訪れてくれたことは驚くほど嬉しいことだったが、それを「嬉しい」だけで片付けてしまうほど、クルツは鈍感ではない。ぐるぐると思考を巡らし、(まさか)とある考えに至る。
クルツは思った。キーワードは「平良くん」だ。
(まさか、彼女があの男に、私のために先生にまで相談してくれたなんて、とかなんとか…心配してくれてありがとう、とかなんとか…そして極めつけは)
――そんな平良くんが、ずっと好きだったの
(とか、なんとか…)
恐ろしい想像を膨らませ、愕然とするクルツ。
だから今日、先生に平良くんと付き合うことになった報告をしに来ました、先生は恋のキューピッドです。
そう言って恥かしそうに笑う彼女。
(…ひどい、酷過ぎる。いや、それはない。ない、と)
信じたい。クルツはちらと寛子を見やる。すると彼女もクルツを見ていたのか、目線が合い、少し慌てたようだったが、にっこりと笑みを向けてきた。
(あ、可愛い)
色んな思考をすっ飛ばして、クルツも飛びきりの笑顔を返す。そしてふと、彼女の顔が切なげに歪み、瞳が潤む想像をして、ぐ、と息をのんだ。それもこれもゼグのせいだ、と悪友の顔を脳裏に描く。自覚への手続きだか何かをゼグが行ってから、クルツは以前のように落ち着きはらった態度を続けることに、とてつもない精神力を要するようになっていた。こうして二人きりでいることが、もう何か試されているような気がしてならない。
「寛子が可愛いのがいけない…」
ぼそ、と拗ねたように呟く。その呟きを拾う者など誰もいないと思っての発言だったのだが、ふいにすぐ近くで「え?」と声がして、慌ててクルツは自分の隣を振り向く。
「えっ、わっ、ひ、いや、藤宮さん?!」
なんと、すぐ隣に寛子が立っていた。きょとんとしているので、おそらく内容は聞こえていなかったのだろう。しかし、クルツは目を丸くして驚いてしまった。
「あ、えと、先生が何か言ったのかなって思ったんですけど、聞こえなかったから」
「え、ううん、何も言ってないよ、うん」
「そうですか?それならいいんですけど…」
寛子はしばらく疑っている様子であったが、すぐに何か納得したのか、内心ドギマギしているクルツをホッとさせるような穏やかな表情になる。トポポポポとカップに紅茶を注ぐクルツの手を見つめていた。しかし、ふと、ふふ、と笑いを零す。
どうしたのという視線でクルツが見ると、寛子は少し頬を染めた。
「あ、いえ、さっきの先生のびっくりした顔で、平良くんの驚いた顔を思い出して、その、笑ってしまって」
「平良くん」
そう繰り返し、浮ついていた気持ちが下降していくのを感じた。
「最近気がついたんですけど、平良くん、結構赤面症なんです」
楽しそうに言う彼女を見ながら何とも言えない苦々しい気持ちがこみ上げる一方、聞いてみたいという思いが膨れ上がる。
「…藤宮さんは、平良くんと、付き合ってるの?」
とうとう聞いてしまったと思った瞬間、クルツは寛子の顔が意外なことを聞いたとでも言わんばかりの表情になったのを見た。
「私が平良くんと、ですか? まさか、そんなことないです。平良くんと私は友達です」
にっこり、嬉しそうに言い切る。
「え、いや、でも、彼凄く心配していたし、それに、藤宮さん、前に言ってたよね。ほら、本気の恋を知ってるって」
クルツはその相手を平良だと思っていた。だが、彼女の様子を見る限り、それはどうやら違うらしい。
寛子はクルツの言葉に、懐かしいものでも思い浮かべたように、ふわりと笑みを浮かべる。
「はい、知ってます」
彼女はそう頷く。
「でも、相手は平良くんじゃないんです」
寛子は一歩、クルツから遠のいた。
少し恥ずかしそうに頬を赤く染めて、クルツをジッと見つめる。
「先生、なんです」
言われた言葉に、クルツは理解が追い付かず、目を瞬かせた。寛子はくすっと小さく笑う。
「私の本気の恋の相手は、先生です。クルツ先生、私、あなたが好き」
蓋は見事に、開いた。




