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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
62/64

部屋いっぱいに広がるコーヒーの香り。窓から注ぐ暖かい木洩れ日。

テレビから流れる、動物園に新たな命が生まれたという微笑ましいニュース。テーブルの上の朝食。

クロワッサン、ベーコンエッグ、サラダ。キッチンからはカチャカチャと何かを洗う水音がする。


(不思議な、感じだわ)


藤宮寛子は、見なれているはずのマンションの風景に新鮮味を覚えた。たった今、美味しそうな匂いに惹かれて、自室から起きてきたばかりだ。しんと静まり返っているはずのリビングには灯が点り、音が溢れ、遅い春が訪れたような感慨を覚える。


一瞬、どういうことだろうという思考に捕らわれたが、すぐに昨夜の出来事を思い出し、小さく笑みを零す。


キッチンにいるのは、彼女の父―道則だ。寛子が突っ立ったままでいる様子を見て僅かに驚いた顔をしたが、彼女と目が合うなり、照れたように笑った。


「ど、どうだ? お、俺だってこれくらいはできるんだぞ」


誇らしげに言う。これくらいというのはおそらく、朝食のことだろう。別宅で自炊していたというのは本当のようだ、と寛子は感心した。


「ホント、びっくりしたわ。美味しそう」


そう言えば、道則は満更でもなさそうに、くいと眉を上げた。






昨夜、寛子は父から全てを聞き、父の願いを受け取った。そのあと、寛子が落ち着くのを待って、道則は昇進とともに転勤することになったと告げた。それはつまり、向こうで一緒に住もうという意味を含んでいたが、道則は寛子が返事をする前に、全部を話す前まではそう思っていたのだが、と遮った。寛子の気持ちを聞いて、この地に新しく部屋を借りて、そこで寛子が一人暮らしするのが一番いいだろうと判断したらしい。マンションは手配しておくと寛子に約束した。


席についた二人が顔を見合わせると、道則はまだ慣れない様子で、視線をうろうろとさせていた。聞けば、小さい頃の夢は家族で向かい合ってご飯を食べることだったらしい。寛子の記憶には、藤宮家の一家団欒の図はなかった。おそらく、これが初めてなのだろう。

寛子はフォークで目玉焼きの黄身を割ってみた。とろ、と半熟の卵が流れ出る。


「わ…」


これくらいの焼き加減が好きな寛子は、思わず感嘆の声を上げた。


「あ、半熟は、嫌いだったか?」


おずおずと聞いてくる声に、寛子は首を横に振る。


「ううん。これくらいが好きなの」

「そ、そうか!」


ぱあ、と表情を輝かせる父は、なんというか、顔に似合わず可愛らしいと寛子は思う。昨夜色々と話をして、どうやら彼は仕事の鬼として部下に怖れられているらしいことが知れたが、彼らが今のやり取りを見たらきっと驚くだろう。


「お、俺も、実はこのくらいが好きなんだ」


好みは似ているんだな、と道則。そうね、と寛子は目を細める。

しばらく他愛ない会話を交わし、話題は転々と移り変わり、道則はふと高校はどうだと質問した。


「楽しいわ。最近、新しく友達が出来て」

「そうか。えぇと、昨日言っていた、香奈枝ちゃんだったか」

「香奈枝は前からの友達よ」

「そうか、新しい友達は何ていうんだ?」

「平良くん」


にっこりと応える寛子に、道則はカシャンとフォークを皿の上に落とした。「は?」と目が点だ。


「平良、何だって?」

「平良くん」

「は?男か?」

「え、うん」

「男の友達?」

「え、まあ」

「か、香奈枝ちゃん、は? 女の子だろう?」

「女の子よ。でも平良くんは男よ」

「男なのか?ホントに?」

「男の友達よ」

「…そ、そうか」


なんだか複雑そうな顔だ。道則は何か言いたげだったが、寛子の、人生で二人目の友達よ、という一言に、「ぐ」と言葉を飲んだ。代わりに出たのは、「…それはよかった、な」という少し苦々しい一言だ。


「…今、なんとなくだが、男親のなんたるか、を、垣間見た気がする」


ぼそ、とそう呟く。寛子はたまらず噴き出した。





「いってきます」


寛子は玄関先まで見送りに出てきた父に向かってそう言った。自然と笑みがこぼれる。そんな娘の様子に、道則も目を細め、「気を付けてな」と表情を緩めた。


「寛子」


と道則は娘を呼ぶ。寛子が振り返る。


「俺はしばらく、準備でこっちに来られないが、マンションが決まったらすぐに知らせる。転勤前にはまた一度顔を出すが、…その、体には気を付けてな。何かあったら、気にせず携帯にでも、いや、会社にでも、藤宮に取り次げと言ってやれば繋がるから、いつでも気兼ねせずかけてくるんだぞ。それと、えぇと…なんだ」

「?」


道則は少し顔を赤らめる。


「…その、たまには、俺と出かけてやってくれ。高校生の娘が父親と出かけるなんてとんでもないとか、世間ではそういうことらしいんだが、ちょっとそこら辺りは世間の常識を曲げて、だな」


相当な照れ屋なのね、と寛子は父の性質を一つ知った。自分に関することのほとんど全てが父にとっては、おっかなびっくり、手探り状態なのだろう、と。


「その、なんだ、ケーキ屋さんだのなんだの、少々可愛らしいところでもまあ、覚悟はできている。おまえに一任するから」


随分緊張しているらしく、物言いがだんだん硬くなってきた。寛子はくすと笑う。


「了解です」

「ほ、ホントか?」

「可愛い喫茶店でも探しておくわ」

「あ、いや、可愛くなくてもいいぞ。普通なところも俺は好きだ」

「ふ…ふふ、うん、わかったわ。普通のところね」


仕事の鬼の顔を見たいものだ、と寛子は思わずにはいられなかった。


家を出て、学校に向かう道すがら、寛子はふと、居場所というものについて考えていた。つい先日までは、そんなもの自分にはないのだと思っていた。だが、今はどうだろう。


(私の、居場所)


今の彼女には、掛け替えのない友達がいる。可愛らしい父親もいる。心配してくれる先生もいる。彼らは自分の居場所なのだ、と寛子は思う。その側にいれば安心する。わくわくする。ドキドキする。ときには泣きそうになる。怒ることもあるだろう。嬉しい、楽しい、温かい気持ちが溢れてくる。

きっと、どれだけ痛めつけられたとしても、そこはずっと、優しい場所なのだ。そして、ふと思いついた。それらが全て、愛情なのではないかと。


(私にも、愛情のある居場所が、ある)


その居場所に立つことができる。そしてそこで、自分はどんな「私」になれるだろう。私は何者かと考えたことがあった。何かになりたいと願っていた。


(私は、皆と一緒に生きていきたい。きっと、皆と一緒に生きることが私のこれからを作っていくわ。誰かの「友達」となり、「生徒」となり、「娘」となる。色んな私を作っていくの。私が大事に思う人たちの「何か」になる。私はそれを、すごく、――すごく、嬉しく思う)


そして、何となくだが、分かったような気がしたのだ。


「――愛されてるって、こういうことね」


そして、寛子は決意した。今ここにある自分を愛そうと。許してやろう、と。これから一生付き合っていく「私」を、もっと楽に、生きさせてやろうと。

随分回り道をした。辛い思いもした。取り返しのない罪を犯し、自分を汚したとも思った。だけど今なら、あのとき傷つき、自分を罵った「私」を、慈しみたいと思う。可愛いと思う。よく頑張ったと、褒めてやりたいと思う。――結局、自分が最大の断罪者だと気がついたからだ。黒い衣装に身に纏った彼女の中の断罪者は、強張った表情を解き、僅かに笑みを浮かべていた。そして言うのだ。「もう、戒めの鎖は解いたよ」と。


だから寛子は決めた。


蓋を開けよう、と。


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