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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
61/64

その叫び声は、彼女の言葉も、部屋の静寂も、何もかもを呑み込み、部屋全体を揺るがしたように感じられた。


「やめろっ!顔を上げろと言っているだろう!」


肩を大きく上下に揺らし、藤宮寛子の父―道則はそう叫んだ。


父が声を荒げるのを初めて聞いたせいか、寛子は承諾が成されるまでは顔を上げないと決めていたことも忘れ、思わず頭を上げる。父の顔を見た瞬間、息をのんだ。


「え…」


父は泣いていた。









頬を滑る涙。その雫がぽたり、とフローリングに落ちたとき、道則の体も、ぐったりと床に崩れ落ちた。


「お、父さん?」


信じられない気持で呼ぶ寛子の声はかすれていた。


「…そんなことを言うな。言ってくれるな」


道則は指の腹で涙を拭いながら、呆然と見つめる娘にそう言った。娘がおずおずと手を差し出すのを見て、それを取ろうと指が動いたが、自分の力で立ち上がり、ソファにぐったりと腰掛ける。


「頭を下げなくてもいい。学費はもちろん、生活費も、おまえが必要なものは全部俺が用意する。そんなこと、当たり前だ」

「で、でも」


寛子は動揺を露わにしたまま、父の側に座り込んだ。


「でも、全部私の我儘で」

「何が我儘だ!」


くそっ、と悪態をつき、道則は苛々と頭を抱える。びく、と寛子の体が揺れた。


「おまえの我儘は俺が叶えるのが当然だろう!」

「え…」


そのとき、一瞬二人の間の時が止まった。寛子はぽかんとしている。道則は深いため息をつき、手を額に置き、ソファの背に身をもたげ、ぐっと身を逸らせて天井を仰ぐ。そして、まるで自分に言い聞かせるように呟く。


「…当然だ。おまえは、…おまえは、俺の、娘なんだから」

「おとう、さん?なに、言って」


今この人は何を言っただろう。

頭では理解できないままだというのに、寛子の目に涙が滲む。

道則は体を起こし、再び娘と向かい合った。しばらく見つめ合う様に逡巡して、彼は口を開く。


「…高校卒業までなんて、言うんじゃない。大学も…その、なんだ、行きたいだろう? おまえは、頭がいいからな。大学でなくてもいいが、もっと、学びたいだろう?」


道則はそっと、躊躇いがちに寛子の頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。

その瞬間、寛子の背が震え、両目から涙が零れる。これが、初めてではない。寝ているとき、誰かがこうしてくれた覚えがあった。だが今、こうして、言葉とともに――


「うっ…ん」


ずっと、こうしてほしかったのだ。涙が溢れて止まらない。道則は恥かしそうに、その顔に笑みを浮かべる。寛子は無意識に手を伸ばしていた。こうして何度、手を伸ばしたか。けれども、こんな風に、嬉しそうに笑っている顔は見たことがなかった。


「…あまり、その、泣くな。目が腫れる。寛子、ほら」

「ごめんな、さい、ごめんなさい、私、わたし」

「な、何を謝る?別に怒っているわけじゃない。ただ、目が腫れるから、あまり泣くなと」

「いき、いきた、い。いきたいの。かなえと、た、いらくんと、ともだちに、なっ…て、それで、ふたりと、もっといっしょに、…っ、だい、だいがく、も、いきた、いきたい…」


ぐず、と寛子は鼻をすする。

道則はようやく願いを吐露した娘の頭を、慣れない手つきで伺う様に、しかし、優しく撫で続けた。






道則はスーツの内側に手を入れ、内ポケットから一枚の写真を取り出し、それを寛子に手渡した。寛子の目はすっかり赤くなっていたが、嗚咽も止まり、涙もうっすらと滲んでいる程度だ。道則はようやく落ち着いた娘を自分の隣に座らせた。

寛子は手渡された写真に視線を落とし、そこに映っている一人の女性の顔を見て驚きに息をのんだ。


「…わた、し?」


そんなわけがない、と寛子はすぐに否定する。顔は自分そっくりだったが、着ているものは全く見覚えがないし、第一写真が白黒だった。


「よく似ているだろう、おまえに」


寛子を慰めている内に、つっかえつっかえだった言葉は滑らかになったようだ。道則はどこか懐かしい色を含む声でそう言った。


「…この人、は?」

「俺の母親だ」

「じゃあ、私の」

「祖母になるな。…寛子は、俺の親はどちらもすでに他界したということは知っているだろう?母は――おまえの祖母は、俺を産んだ代わりに亡くなった。父は、――おまえの祖父だが、そのことを恨んで、俺には母を教えてやるかと思ったらしい。だから、俺は母親の顔も、声も知らなかった」

「え…」

「別に、そのことがどうというわけでもなかった。正直に言えばな。そのうちに、父が死んで、俺は一人きりになった。文子と結婚して、――おまえも、知っているだろう?文子は」


その先を言わせまいとして、寛子は強く頷く。


「分かってる。結婚して、私が生まれて――…」

「おまえは、その、文子の子だ。それは間違いない」

「う、ん」


父が言わんとしていることが、寛子には良く分かっていた。母は奔放な性格だ。男にも。だから、どちらにも似ていない自分を、父は「もしかすると自分の子ではないのかもしれない」と、そう思うことは十分あり得ることだ、と。


「俺は、――正直、分からなかった。どうすればいいのか。初めての子だったし、父とはどう子どもと接するものかも、恥かしいが、良く知らなかった。おまえが、俺の子であるということも、その」

「似てないものね。私たち。私は、お父さんにもお母さんにも似てない。お母さんの事を考えたら、…お父さんが信じられないのも分かるわ。でも、それなら鑑定して確かめればよかったのに」


寛子は少しおどけたように言う。道則は苦笑した。


「…怖かったんだ。もし、おまえが俺の子ではなかったら、俺は多分離婚しただろう。その頃にはもう俺は文子の両親の後ろ盾など必要なかったしな。そうなると当然おまえは文子に引き取られる。文子も表向きはちゃんと母親をしていたからな。…それが、怖かった。文子の態度を見ていれば、おまえが引き取られた後のことなど容易に想像がつく。…だから、確かめることはしたくなかった。でも、しないならしないで、自信が持てない。おまえが俺を見るたび、何かをしなければいけないと思うたび、混乱して」

「……」

「何もできずに、見ているだけだった。それなのにおまえは、俺に手を伸ばしてきて、俺はいつも、その小さな手が怖かった。俺が掴めば壊してしまいそうで、強張った顔をもっと、堅くしてしまいそうで。…あけすけな台詞だが、外に女はいない。ただ、逃げていただけだ」


膝の上の拳に、ぎゅっと力が込められ、また、フッと力が抜ける。


「――離婚を決めたのは、文子に何度か言われたこともあったし、それと、文子には言っていないが、昇進したんだ。本社の新しいポストに就くことになった。新しい場所で、環境を変えて、…おまえも、その、もう高校生で、母親のほうが重要ということもないし、十分な年収があれば、父親でも、その、構わないだろうと思って、な」

「それって…」


と口を開いた寛子を、道則は言葉で遮る。


「その前にその写真だ。今寝泊まりしている部屋に父の荷物から何からを置いていたんだが、この機会に整理しようと思って、まとめていたんだ。そうしたら、奥の方から小さな箱が出てきて、開けてみたら、母の写真と、テープが入っていた」

「テープ?」

「父が生前の母の声を取ったものだ。父に宛てたもので、推測だが、テープで声を取っては、お互いに交換していたようだ。吹き込まれた内容が手紙の返信に似ていた。――それを、その、聞いてみたら、だな。声が、おまえとそっくりで。それはもう、びっくりするくらい、な」


ふ、と道則は微笑する。悪戯が見つかった子供のような、少し困った顔にも見えた。


「写真と、テープと。それを見て、確信した」


嬉しそうに表情を崩す父を見て、寛子は胸の内で凝り固まっていた冷たい塊がゆっくりと氷解していくように感じた。


「――寛子は、俺の娘だ、と」


隔世遺伝というやつだな、と道則は付け加える。


「だから、その顔で、その声で、他人行儀な台詞は言うな。ようやく俺が、自分に自信が持てたんだ。俺にも父親になってもいい権利があるんだと、確信できた。どれだけ俺が嬉しかったか分かるか?思わず天を仰いだ。――世の父親が、自分の子供にどう接したらいいかなんて、そんなことは分からない。だが、自分がしてもらえなかった分だけ、いや、それ以上に、おまえにはたくさん我儘を言ってほしいし、それを何だって叶えてやりたい」


ぱたり、と写真の上に涙の雫が落ちる。泣いているのは寛子だった。道則はその眦を指で拭ってやる。


「…寛子、その、全部、ぜんぶ、…今更な話だが、少しでもいい。おまえが許してくれる分だけでいい。俺を、おまえの父親に、してくれないか?」

「…っ、うん…す、る…」


ぐずぐずと再び涙の堰を切ってしまった娘を、道則は愛しげに見つめる。あーもう、泣くと目が腫れるじゃないか、と呆れたように言った。しばらく躊躇った後、寛子の頭をその胸に抱え込んだ。寛子はギュッと、スーツの裾を握りしめた。嬉しさで心が満たされるのを感じながら、寛子は抱きしめてくれる温かさにそっと頬を緩める。涙は止まっていなかったが、彼女は確かに笑っていた。


(ようやく…)


その手が届いたのだ。

感じたのは、ずっと欲しかった愛情の温かさだった。


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