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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
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あいじょう。


それは自分には無縁のものだと、藤宮寛子は幼い時分に思い知った。それに焦がれた日もあった。喉から手が出るほど欲しかった。何をしてでも、手に入れたかった。

それは笑顔を生み出すものだと知っていた。


(でも、わたしにはだれもくれない)


じゃあ自分は、どうすれば笑えるのだろう。


(わらわないこ、って、きみがわるい、の?)


そう罵るのならば、「あいじょう」をくれればいいのに。

そう、何度願ったことか。









吉村香奈枝と楽しいティータイムを過ごしたあと、寛子は近くのスーパーで買い物をしてから、マンションに帰宅した。

鍵穴にキーを挿して、ゆっくりと回す。がちゃり、と音がして、ドアを開ける。しかし、中に入ろうと一歩踏み出したとき、視線を感じたのでふっと体を反らせ、ドアの向こうをちらと見やった。その瞬間、寛子の目は驚愕に開かれる。


「え…」


ぎょっとしたのは相手も同じだった。何か言おうと一端は口を開きかけたものの、寛子の表情を見て言葉を飲み込む。かつん、と踵を返そうとする革靴がコンクリートを蹴り。


「ま、待って!」


行ってしまう、と思われたその瞬間にはもう、寛子は相手のスーツの裾をはっしと掴んでいた。


「っ…!」


驚愕に満ち満ちた顔が振り返る。寛子はごくり、と生唾を飲んだ。





手を伸ばして、振り返った顔は笑顔であるはずだと思ったことがあった。しかし彼女の母親は忌々しげに一瞥するだけだ。


『なによ、忙しいのよ。今から出かけなきゃいけないの、準備しないといけないの。わかる?』


自分を置いてどこに行くのか。振り払われた手を呆然とした表情で見つめていた、あの頃の自分。


『わたしも、つれてって』


願いはむなしく散るだけだ。


『はあ?何言ってるの?あんたなんか連れていけるわけないでしょ。――そうね、もうちょっと私に似てたら、あの人にも可愛がってもらえたかもしれないけど、その顔じゃあねえ』

『あのひと?』


愛しそうに呼ぶ「あの人」とは誰か。そう尋ねただけなのに。


『あんた、少しは笑えないの?ったく、気味が悪いわね』


眉根を寄せられ、まるで汚いものでも見るように見つめられたとき、心が、割れたような気がした。



(この、顔)


いつもそうだった、と寛子は思い出す。驚愕に満ち満ちた顔。少しおびえたようにも見える、この顔。

寛子はしっかりとスーツの裾を掴んでいた。


母親が去った後を、幼い寛子は呆然と見送ったものだ。だが、ときどき、その後ろでカタンと何かが動く音がして、寛子はそちらを振り返った。


『おかあさん、いっちゃった』


報告するように淡々と言えば、後ろにいた者は驚き、サッと踵を返そうとする。いつだってそうだった。寛子はその後を追いかけた。そしてはっしと、服の裾を掴んだ。すると、相手は振り返って、ぐっと息をのんだものだ。そして手を放そうとしない寛子の名前を、観念したように呼んだ。


「…寛子」


あれから年月は経ったけれども、振り返ったその表情は変わらない。

精悍な顔立ちが、切ないほどに憂いを帯びている。


「…久しぶりね、お父さん」


寛子は少し困ったように、笑った。














藤宮道則。それが寛子の父の名前。

香川文子。それが寛子の母の名前。


文子は二人の結婚を、「失敗だったわね」と結論付けた。

文子は道則の上司の娘だった。すでに両親とも他界していた道則には、彼女との結婚が必要だった。彼女がどれだけ奔放な性格で、外に男を作ろうとも、じっと耐える日々が続いた。そんなあるとき、文子が妊娠した。彼らの間に事は行われていたので、寛子と名づけられた女の子は彼らの娘となった。

しかし、生まれた子は二人のどちらにも似ていなかった。文子は子どもが嫌いであったし、自分に似ていない子なら尚更だと言わんばかりに冷たく接した。文子の両親は彼女の兄がすでに初孫を与えていたので、娘にまるで似ていない寛子を可愛がろうとはしなかった。



リビングのソファに腰掛け、父―道則は小さく息をつく。寛子は紅茶を用意し、カップを手渡したあと、リビングテーブルの椅子に座った。

道則はカップを口につけると、まるで自身を落ちつけようとするように温かい液体を喉に流し込む。


「聞いたわよ、離婚のこと」


明るいトーンで寛子が言うと、道則はハッとした顔で彼女を見上げた。


「ようやくって感じね」


両親の間に愛情があるとは思ってはいない。母親が外に恋人を作っているのは明白だ。父親のほうも、おそらく、これだけ家に帰ってきていないのだ、外に、もしかするともう、家族がいるのかもしれない。彼もまた、外見上では文子に見劣りしないほどの容貌を持っていた。


「お母さん、もしかしたらすぐに再婚したりするかも。このマンションに住んだら、面白いわね」


言いだしたら止まらなかった。自虐的だ、と寛子は思う。


「お父さんのほうは?」


そう質問するのは当然の成り行きだった。少なくとも寛子にとっては。しかし、道則には驚愕を浮かべるほど衝撃を受けるものであったらしい。


「なっ…にを、おまえは」


激高しかけそうになる自分を必死に抑える、寛子の目に父親の態度はそのように映った。


「私は気にしないわ。お父さんも結婚するの?もう弟か妹がいたりして?」


ふふ、と楽しそうに笑った。しかし、その瞳に映る色は暗い。

道則は思わず立ち上がり、何かを言いかける。


「ばっ…」


馬鹿なことを、と言おうとしたのだろうか。そんなことはないだろう。寛子は小さく笑う。しかしすぐに笑みを消し、父にその場で頭を下げた。道則の顔が一瞬で強張る。


「――お願いします。高校を卒業するまで、学費の援助を続けてください」


そう言ったのち、寛子は椅子から立ち上がる。まっすぐ背を伸ばしたあと、一度父の顔を見て、再び腰を折った。


「生活費は自分で、バイトでもなんでもして払っていきます。アパートも自分で探して、家賃も、自分で。――だから、それまで、高校卒業まで、お願いします」


高校を止めることはできない。それは自分の生きる糧だから。多くを失ったから、何が大切なのか、寛子には良く分かっていた。


「我儘だって、よく分かっています。だけど、学校には行きたいんです。本当は、学費も自分で何とかしないといけないって分かってるけど、でも、それじゃ学校に行けなくなる。払ってもらった分は、時間がかかっても返します。だから」


お願いします、と更に頭を下げた。


「…顔を、上げなさい」


小さく、道則の声がした。寛子は構わず頭を下げる。欲しいもののために、手を伸ばすことはしない。幼いころとは、もう違うのだ。


「お願いします」

「寛子、顔を」


道則の声は震えていた。どんな顔をしているのか、寛子には分からない。驚いているのだろうか。いつもそんな顔をしていたのだから。


「我儘は、これっきりにします、だから」

「やめなさい、寛子、顔を」


やめる?


そう反芻して、馬鹿なことだと内心で笑う。新しい芽を育てたいのだ。無くしたくない場所がある。会いたい人がいる。――止めてしまえば、こうして頭を下げるのを止めてしまえば、光を失ってしまうのだ。


「お願いします」


頬を髪が撫でる。寛子にとってその行為は、父と、そしてここにはいない母への決別を表していた。二人はこれから新しい道を歩いていくだろう。


(私もきっと、見つけられる)


あそこならば。光溢れる、あの場所ならば。

だから寛子は、やめない。


「っ……!」


道則はぐっと拳を握る手に力を入れる。寛子は微動だにしない。

これでいいのだ。「可愛い子ども」ではなかったのだから。愛らしい笑みを浮かべることもできず、人懐っこい口も利けなかった。


(ずっと、可愛げのない子だった)


もっと似て生まれてくれば良かった。

もっと、愛されるように生まれてくれば良かった。


(そんなもの、思っても今さらだわ)


でも一度だけでいいから、手を伸ばして振り返った顔が、嬉しそうな笑顔であったらよかった。そうならなかったのは、相手が「わたし」だからよね。


(ごめんなさい。でも、愛されたかった)


それが我儘だと、知らなかったの。


でも、最後くらい、もう一つだけ、我儘を、どうか。


「お願いします。私を、卒業させてください」


寛子ははっきりと、そう願いを口にした。


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