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悪い予感は当たるもの。そう言ったのは一体誰だったか。
寛子は小さく苦笑した。向かう先は、英語科準備室。
「それで、約束はちゃんと守ってくれているのかな」
クルツは美しい顔に笑みを浮かべ、そう尋ねた。ゆったりと椅子に腰掛け、何度か頷きながら向い側に座る寛子に返答を促す。
「日本語が思ったより下手ですね」
「そう?」
くいと肩をすくめるクルツ。
「久々だからかな」
「?」
「なんでもないよ。それで?」
「それで?」
「約束の方はちゃんと守れているのかな?」
「約束を破ったよね、って言った方が分かりやすいですよ。曖昧さが大好きな日本人も、ときにはダイレクトに言わないと、ホントに伝えたいこと、伝わりませんから」
「なるほどね、勉強になるよ。でも、君にはちゃんと伝わっていたみたいだ」
「疑ってかかるのが私ですから」
「覚えておくよ」
とにっこり頷くクルツを見、寛子は苦笑した。
「笑えないなら、笑わないでよ」
「君といると、ホントに勉強になる。それに、新鮮でいいね。見透かされるっていうのは」
「誰でも分かるわ、そんなの」
「君だけだと思うよ。他の人なら、僕は見透かされているということを見透かすことができる」
「…。そこまで私って嫌味な存在ですか?」
「フランクな君の方がいいとは思うね」
「思いだしたんです。あなたは先生だった」
「それで敬語に戻したの?」
「バラしてもらってかまいませんよ」
「何?」
「寝ました、一昨日」
放たれた一言に、クルツのこめかみが震えた。
「…醜い豚と?」
「ええ、醜い豚と寝た私は、それより劣る醜い雌豚ですから」
「どうしてそこまで自分を卑下する」
クルツの言葉には怒りが籠っていた。
「自分? なんですそれ」
本当に分からないと言った風だった。いや、実際分からないのだ。自分とは何か。卑下すべき自分とは何?反対に、卑下しなくていい「自分」などいったいどこにいる?
「制服以下なのよ、私。脱ぎ捨てた私なんかいったい何になるの? 床に脱ぎ捨てられた制服よりも劣った存在なのよ。アレよりも必要とされない存在なのよ? 制服を着て「私」がいるの。でも、脱いだとたん「私」はどこへ行くのよ? 私は何?制服じゃない私はいったい何?豚でも良い。醜い豚でも構わない、それが私なら。「好きもの」の私が欲しいならいくらでもあげる。嫌味な私が欲しいならいくらでも嫌味になれる」
「君はどんな役割も背負っていない。唯一無二の存在だ」
「唯一無二?! どこにも存在しない私が唯一無二? 綺麗事もいい加減にしてよ! 私が「どんな」私だか、与えられなければ私は存在できない。与えてくれなきゃ! 誰かが私に与えてくれなきゃ! 制服の私、雌豚の私、好きものの私、なんでもいい…欲しいのよ! それが欲しいの!」
どうして自分は叫んでいるのだろう。バカみたいだ。
「そんなものは君じゃない」
「私の何を知ってるのよ! あんたなんか! 何も知らないくせに! 私がどこにいるかも知らないくせに!」
「君が!」
クルツは叫んでいた。その怒気を孕んだ声に寛子の体がびくりと跳ねる。限界まで荒ぶっていた精神が、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
「もう、放っておいてください。できないなら、学校にバラして退学にすればいい。そうしたらあなたの視界からも消すことができますよ」
「消す、なんて」
「先生。私は、こういう生き方しかできないんです」
役割を与えてもらわないと、生きていけない。それが私。寛子は冷静にそう結論を下した。
「先生。先生はとてもいい先生でした。それだけで十分です。私は、「いい生徒」でいられなかったけれど、最後まで「生徒」でいられました。ありがと、先生」
言って、寛子はくるりとクルツに背を向けた。英語科準備室の扉が開き、静かに閉じた。一人残されたクルツは、苦しげに、喘ぐように何かを呟いた。しかし、それは寛子に届かない。まだ、届かない。
彼女に与えられるものは何か。彼にはまだ、分かっていなかった。まだ、自分の中に渦巻く感情の名前さえ知らなかった。彼女に対する心の動きが何か、それさえも。
病欠以外で学校を休んだことなど一度もなかった。特に理由はなかったが、学校を休むことだけは嫌だった。どれほど行きたくなくても、休めば「負け」だと思っていた。誰に負けるのかは分からない。だが、「負け」なのだ。
冷え切ったリビングルームのソファに腰掛け、寛子はぼんやりと天井を見上げていた。電気は消したままだ。思えばずっと消えたままだった。寛子はいつも、帰宅するとまっすぐ自分の部屋に入る。その間にどこの部屋の電気もつけない。一種願かけのようなものかもしれない。彼女以外が明りをつける、そんな夢みたいなことを願った
――それこそ、無為な願かけ。
(ねえ、娘の顔を覚えてる?)
どれくらい彼らの顔を見ていないだろうと、父と母の顔を思い浮かべようとしたが、寛子は彼らの顔をよく思い出せなかった。
(美しい人とのロマンス。犠牲にしたのは実の娘)
綺麗なキッチン。綺麗なリビング。綺麗な、綺麗な、人の気配がすっかり抜け落ちた家に一人、寛子はぽつんと存在していた。
学校は休みたくなかった。ここよりいくらかマシだから。寛子は思った。家にいると、心まで凍りそうだ。いや、すでに凍ってしまった心が、砕けそうだったのかもしれない。でも、実は砕けていたのだ。その事実を、寛子はようやく知ることができた。誰か拾って、私の破片。誰が拾ってくれるのだろう、私の、私でさえ見つけられない、破片を。
「…う…っ…」
あふれ出る涙。それがいったい何になる?泣いたところで何も変わらないと分かっていた。傍にあったエアコンのスイッチを握りしめた。ピッピッピッピッピッピッピッ。どんどん温度が上がっていく。ピッピッピッピッピッピッピッ。寒い、寒い、寒くて死にそう。
(どうして死なない?)
こんなに寒いのに。暖かさに餓えていた。肌に感じる温度は決して心を温めることはなかった。ああでも、異常なほど暖められた室温は、寛子の意識を朦朧とさせた。
「あ」
死ねるかもしれない、このままいけば。
(死ぬ?)
何が死ぬと言うのだろう。
ここにいる私は、何?
ここに私はいる?
いない。いないのだ、「私」なんてものは。
じゃあ、ここで死ぬのは何?
死ねるかもしれないと思ったのは、一体誰?
「私」はここにはいないのに。
誰も与えてくれないから、「私」なんてもの、ここにはいないのに。
(死ぬのは、「私」じゃない)
そう分かった時、寛子は確かにエアコンのスイッチを切っていた。全身汗まみれだった。ぽたぽたとカーペットに汗のしずくが落ちる。
「私」を、手に入れに行かなきゃ。
寛子はそう思った。