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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
59/64

少しずつではあるけれど、自分に関わる物事が変わりつつある。

藤宮寛子はふとそう感じた。もう決して手にすることが出来ないだろうと思った平良直人との友情が、再び彼女の中に育ち始めている。


―――あのあと、朝のHRが始まるので、吉村香奈枝は自分の席に戻っていった。残された二人は互いに笑みを交わし、まだそれは幾分かぎこちないものではあるけれど、二人の間に流れたのは穏やかな雰囲気だった。

言葉で探り合うようなことは止めて、素直に話をしようと寛子は思った。おそらく、平良の方もそうするだろう。


香奈枝という存在を通して、寛子は友達とは何かを知った。それは自分が多くを失って、希望さえ見失ったときでも、まるで一つの光明のように輝き、生の縁に留まらせてくれるものだ。だからこそ、寛子は香奈枝を守りたいと思った。自己満足の、自己犠牲だと言われればそれまでの行為だったかもしれない。だがこうして無事に日常に戻ってから振り返れば、それは寛子の誇りになっていた。


(守りたいと思えるものがある。それは、人生の糧)


と寛子は思う。少なくとも自分はそれがあれば生きていけると、今の彼女は知っていた。


(だから、もしも、)


もしも平良も、そのような掛け替えのない存在になれば、おそらく人生はもっと豊かに、尊いものになるような気がした。そんな未来を想像すると、明日が待ち遠しく、生きることが楽しみで満ち溢れているように感じた。

ちら、と平良を見やる。彼はまだ少し赤い顔をしていていたが、その顔からは憂いの色は消えていた。

彼との間に起こったことを忘れることはできないだろう。だが、それでいいのかもしれない。


(…それでも、友達になりたいって思うんだから)






その日の授業は、すっきりとした頭で受けることが出来たので、久しぶりにまともに授業を受けた、という印象があった。疲れがどれほど思考を鈍らせるか。もう二度と体験したくないことだ。

昼休みになり、寛子は平良と購買に行き、パンを購入した。談笑しながら香奈枝の待つ教室へ向かう道すがら、「あ」と飲み物を買い忘れたことに気づく。怪訝な顔をする平良に先に行ってほしいと告げ、飲み物を買いに来た道を戻った。ココアか紅茶どちらにしようと考えつつ、その足取りは軽く、気分も楽しげだ。しかし、購買へ向かう途中にある職員用トイレの前に差しかかった時、寛子の表情は一瞬で青ざめた、強張ったものになる。


「あ…」


ちょうどトイレから出てきたのは、麗しい国語教師、瀬戸麗華だった。彼女も寛子が立ち止まり、その表情に驚愕を張り付けているのを見て、ハンカチで手を拭いていた動作をぴたりと止めた。


「…あなた」


瀬戸が呟いた時、寛子は立ち止まったことを後悔した。気づかないふりをして通り過ぎればよかったのだ。


「…こん、にちは」


おずおずとそう挨拶する。瀬戸も戸惑った様子を隠すことなく、同じ挨拶を返した。しばらく、二人の間に妙な沈黙が流れるが、それを破ったのは瀬戸の方だった。


「…この間は、ごめんなさいね」

「え?」


瀬戸の口調の柔らかさに寛子は瞠目する。その驚きを「何のことですか?」という意味に受け取った瀬戸は、僅かに口元を緩めた。


「この間、お菓子を差し入れに来ていたでしょう?ほら、クルツ先生に」


先生、と付け加えられた呼称を聞いて、寛子は瀬戸の変化を敏感に察した。小さく頷く。


「あ…はい」

「…あのときのこと、謝りたいと思っていたの。でないと、前に進めない気がして。自己満足みたいなものかしら。でも、謝りに行くのは気が引けてしまって」


だからこうして出会えてよかったわ、と瀬戸は言う。


「嘘を、ついたの。クルツ先生は、誰かが作ってくれたお菓子を捨てたりするような人じゃないわ。嘘をついた理由は、言えないけど。…詰まらないプライドね」


綺麗に整った眉を歪め、苦笑する。寛子は目を丸くしていたが、つまりクルツの言葉が真実だったと証明されたのだと知り、ゆっくりと首を横に振った。


「いいんです。先生はそういうことする人じゃないって、知ってたはずなのに、…怖くて、逃げ出してしまっただけなんです」


寛子は僅かに笑って見せる。瀬戸は安心したように目元を緩ませた。


「あなた、少し前と雰囲気が変わったわね」

「そう、ですか?」

「ええ。私に言わせれば、そうね、私好みになったわ。まだ、完全とは言えないけど」

「え?」

「ふふ。私も、今度はもっと、私を綺麗にしてくれる人を好きになるわ。此処だけの話、クルツ先生を狙ってたんだけど」

「え?先生って、クルツ先生と付き合ってるんじゃ」

「え?!何それ、そんな、ふふ、付き合ってないわよ。クルツ先生は、そうね、難攻不落よ。もう少し、努力したらその分褒めてくれるような人を探すわ」

「え」


それはつまり、と寛子は考える。目の前の美しい教師は楽しそうに笑っていた。









「え、それじゃ、瀬戸先生とクルツ先生はなんでもなかったってこと?」


駅前のとある喫茶店で、香奈枝は口に手を当て、驚きに目を丸くする。


「うーん、多分、少なくとも今は」


と寛子は苦笑する。


あっという間に一日の授業が終わり、寛子は香奈枝に誘われ、久しぶりに二人で仲良くティータイムを過ごしていた。おそらく香奈枝に話したいことがあるのだろうとは予想できたが、正直に言えば瀬戸との一件を話しておきたかったので、表には出さないが、寛子もこの時間を楽しみにしていたのである。


「へえー、それはよーござんして寛子殿。これで心おきなく先生にアタックできるではありませんか」


にやあ、と香奈枝は悪い笑みを浮かべる。


「アタックって…」


相手は先生だとか、そういうことは考えていないんだろうな、と友人の思考を分析する寛子。寛子もこの一件は喜ばしく思っているのだが、このままではくどくどと強気な恋愛指南をされると思い、話を変えることにした。


「そういえば、香奈枝、朝言ってた、超いいことって何だったの?」

「おおお!よくぞ聞いてくれました!寛子にね、ぜひね、聞いてほしくてさあ!

ゆさゆさゆさ、と肩を揺さぶられる寛子。


「聞きたい、聞きたいから、ストップ、プリーズ」


香奈枝は寛子の方から手を放し、へらりと表情を崩す。


「実はね、こ、こ、こ、ここ、恋を!」

「恋?」

「そう!恋をしたの!何と初恋!ブラボー!」

「ぶ、ぶらぼー」


若干引いている寛子。


「それで、相手はどんな人なの?同じ学校の?」

「ううん。超大人。超イケメン。超ヤバい」


きゃ、と頬に両手をあてる香奈枝。


「ほら、この間寛子にクッキーの作り方教えてもらったじゃん?」

「あ、もしかしてそのお礼に手作りお菓子を所望したっていう」

「そう!その人!もしかして好きなのかなあって思ってたんだけど、イマイチ分かんなくて。でも、名前を呼んでくれた時、もう、こう、きゅんってしてね。好きだーって思ってね!」

「な、なるほど」


初々しいなあと思ってしまった自分に気づいた寛子は、表情は引き気味だが、内心では初恋にはしゃぐ友人を微笑ましく思っていた。


「――なんかね。こう、ぎゅってしてもらったとき、温かくって。ここなら安心だって、そう思った」

「ぎゅってして、って。え?抱きしめられたってこと?」

「そう、それがさ、もう優しくて、うっとりするっていうかね」


香奈枝は目を閉じ、事の詳細を思い出そうと耽っている。


(抱きしめられたって、それってつまり)


相手も香奈枝を好きなのではないか、と寛子は推測した。しかし、相手が年上ならば、妹目線でぎゅっとすることもないこともないし…とぐるぐる考える。


「それでね、今度、二人で出かけるかって言ってくれてね。それで、どこに行きたいって聞かれて、すぐに思いつかなかったんだけど、そしたらじゃあ今度会う時までに考えておけって言われてね」


うんうん、と友人の言葉に耳を傾ける寛子。


(ほとんど百パーセント、ね)


相手もきっと香奈枝のことが好きなのだ、と思う。それならば、一先ずは事の成り行きを見守っていけばいい。きっと、香奈枝に待ち受けているのは辛い恋愛ではないだろうから。


「あ、今度寛子にも紹介するね!」

「ふふ、ありがと。楽しみだわ」


変な男だったらどうしようかと思いつつ、香奈枝の選んだ男がそんな男ではないと分かってはいるが、もしかしたらということもあるので、その場合は遠慮なく、秘密裏に潰してやろうと黒い考えを巡らす寛子だった。


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