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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
58/64

朝は再びやってきた。窓の向こうには輝かしい日の光。

薄いレースのカーテンを引き、青空に視線を向けた。

澄み切った、雲ひとつない空だ。どこまでも飛んでいける気がした。鳥になるわけでも、風になるわけでも、雲になるわけでもない。

だが、藤宮寛子は、まだ自分も、もしかすると飛べるのではないかと、そう思えた。








土曜、日曜とゆっくりと休み、寛子の体調はほとんど回復した。十分な水と、美味しい食事と、甘いチョコレートを得られる生活は、彼女の体に渇いた大地に染み入る水のように浸透していき、体が随分と軽くなったように思われた。

そして今日、月曜日の朝。新調した制服を纏って、彼女は学校へと向かう。



朝一番、誰よりも早く教室に到着するのが彼女の日課だった。

寛子は誰もいない教室の、しんと静まり返った、どこか寂しくはあるが、心を落ち着けることのできる雰囲気を気に入っている。時間が経てば、生徒たちの話し声や靴音が響き始め、喧騒に満たされていく。朝の静寂はまるで、学校での他の時間から切り離された、特別な空間であるような気がした。そこにゆったりと、沈み込む。窓の外を見れば、何もかもが美しく、或いは、取るに足らない小さなものに見える。それが楽しい。寛子は自分の席に座り、ついと口角を上げた。


ガラ、と教室の扉が開かれる。そちらを振り向けば、向こう側にいた者の表情が一瞬で、「あ」という驚愕に染まった。寛子も(あ)と思ったが、すぐにやんわりと笑みを浮かべる。


「おはよう、平良くん」


なんだかその一言が、神聖な呪文の一句のように感じられた。

しんと静まり返った教室に、魔法の波動が広がっていく。



『実はね、君の隣の席の子が、藤宮さんに元気がないって教えてくれたんだ。彼、とても心配していたよ。藤宮さんのこと』



「あ…おはよう、藤宮さん」


まだ驚きの表情を浮かべたままの生徒――平良直人は、何度かの瞬きの後、ようやくそう返すことが出来た。一瞬鞄を取り落としそうになったが、なんとか抱えなおし、自分の席に半ばぎこちない様子で歩いていく。

その様子がおかしくて、懐かしくて、寛子は内心で笑いを零す。


カタンと音を立てて椅子を引いて、平良は席に座る。隣に座る寛子をちらちらと伺う様に見て、そろそろと鞄の中に入っているものを机の中に押し込んでいった。


寛子は黒板の方を見つめていた。今では、見なれたはずのその光景が懐かしくて堪らないのだ。

平良はしばらくの逡巡の後、意を決したように寛子の方に体を向け、緊張しているのか、ごく、と喉を鳴らす。


「あ、あのさ」


声が裏返らなかったのは奇跡だ、と平良はホッとする。


寛子はゆったりとした動作で彼を見た。その表情はとても穏やかだ。しかし、平良にはそれがどういう意味を持つのか分からない。冷たく「何よ」と睨みつけてくれた方が、彼にはよほど安心できるのだ。


「あ、あのさ…えっと」


だらだらと冷や汗をかく。かつて味わったことのない緊張に苛まれていた。


「いい天気ね」


寛子はひとり言のように呟いた。平良は「へ?」と言う顔をし、自然と寛子の視線を辿って、窓の外を振り返る。確かに良い天気だ。


「あ、ホント、いい天気だよね」

「空ってこんなに青かったのね。眩しいくらい」

「昨日もこんな感じだったと思うけど…」


平良は怪訝な顔だ。


「似ているだけよ、きっと」


そう指摘され、まじまじと青空を観察する。似ているだけで違うのだろうか。自分にはまるで同じように見えたが。でもまあ、藤宮さんがそう言うなら、と平良は内心で考えを改める。


「少しずつでも変わっていると思うわ。変わらないものなんてないもの」

「……藤宮さん、さ」

「ん?」

「俺、なんか安心したよ。元気に、その、なったみたいで。あ、いや、別に心配しているとか、そういうことじゃなくて、どうしたんだろって思っただけだから。その、気にしないでほしいんだけど、俺が勝手に思ったことだし」


平良が言葉を必死に取り繕っているように感じ、そういえば、心配など余計だと言ったような覚えがある、と寛子は思い出した。


「その、見た感じ、顔色もいいようだし、疲れてたのかなって思ってたけど、今日はそうでもないし。それに、朝一番に来てるし、だから」


どこかぼんやりとしている寛子をよそに、平良はドギマギしながら話し続けていた。



『隣の席の子って、平良くん、ですか?』

『さあ、名前までは知らないけどね』



平良は依然、何か延々としゃべり続けている。そうしないと落ち着かないのだろう。


「その、つまり何が言いたいかというと、藤宮さんが元気になってよかったなあと、あ、いや、それが俺にとってどうとかそういうことではなくて、なんていうか」


ごにょごにょと、語末がフェードダウンしていく様子に、彼の自信の無さが表れていた。

寛子はすっかり俯いてしまっている彼を見、くすと小さく笑う。


「――心配かけて、ごめんね」

「え!」


弾けるように顔を上げる平良は、ぽかんと間抜けな顔だ。

寛子の笑顔を目の当たりにし、これでもか、と目を丸くした。


「――あ、いや、心配とか、いや…えっと、なんていうか。うん」


ぐるぐると視線を泳がせた後、何か納得したように頷いた。寛子がふわりと笑うと、かあ、と平良の頬が赤くなる。


「ここのところ、ちょっと色々あって。それで、――クルツ先生にね、励ましてもらって」


クルツという名前を聞いて、平良は詳細を聞かずとも事の成り行きを想像できた。なるほど彼女の悩みは先生に相談して解消したのだろう、と推測する。


「そっか、よかったぁ…」


ほおっと安堵の息をつく。全身から強張りが解けていくようだった。


「平良くんが、先生に言ってくれたのよね。先生がそう言ってたわ」

「え、あ…ごめん、その」


寛子は平良の言葉を遮り、首を横に振る。


「謝らないで。…嬉しかったわ、凄く。――ありがとう」


寛子が少し照れたように微笑むと、平良は「う」と僅かに仰け反り、その表情は林檎のように真っ赤だ。


「あ…いや、ど、う、いたしまして」


へらりと、誤魔化すように笑い、平良は恥かしさのあまり寛子から顔を背けた。


それから二人が言葉を交わすことはなく、時間が経つごとに生徒たちが一人、また一人と席についていく。しばらくすると、後方から「あっ」と高い声が上がり、バタバタと駆け足の音が響いた。


「ひーろこっ!おはよー!今日は朝から来てるんだ!」


元気いっぱい、吉村香奈枝の登場である。がばっと寛子を後ろから抱き締めると、寛子の呻き声も気に留めず、「おはよう」を連呼する。


「…お、おはよう、香奈枝。ご機嫌ね」


ようやく挨拶を返せる頃には、寛子はぐったりとしていた。


「そーなの!超いいことがあったんだー!あとで寛子にも教えてあげる!」


にっこにこ、よほど嬉しい出来事があったのだろう。ハイテンションのまま、香奈枝は俯いている平良を見、「おっはよー」と彼の机を軽く叩いた。


「わ…あ、おはよ、吉村さん」


平良は微妙に表情を引きつらせながら挨拶した。ちら、と寛子と視線が交わり、グッと目を見開く。

その変化を目敏く見た香奈枝は、にやりと悪い笑みを浮かべる。ついと寛子に向き直り、ポンポンとその肩を叩いた。


「ねえ、寛子。そろそろいいんじゃないの?ほら、いくらモテるからってさ、いつまでも友達とびっみょーな雰囲気醸し出してたら、寂しいじゃん」


その言葉にぎょっとしたのは平良だ。吉村さんは何か勘違いをしている、そう瞬時に察した。


「や、ちょっと吉村さん。俺と藤宮さんは」


何と言おうかおろおろしつつ、平良は吉村を止めようとする。


「平良くんもさ、そりゃね、君みたいなイケメンと一緒にいると周りの女子に恨まれちゃうかもしれないけど、そんなの気にしてたら友達なんでやってられないよ?私たちの安全を考慮してくれるのもいいけどさ。そんなのは彼女にやってあげればいいんだよ。私たちは君に守ってもらう彼女じゃない。友達じゃん」


に、と香奈枝は白い歯を見せる。平良は呆気にとられていて、寛子も動きを止めていた。


「なんだろうね、やっぱり友達は平等じゃなくっちゃ。どっちかがもう一方のために辛い思いをするのはふびょーどーってやつだよ。水くらい皆で被ればいいし。あ、被るのは私たちだけかもしれないけどさ、なんだったら私たちが平良くんに浴びせてあげてもいいよ」

「…そ、れは、遠慮、したいけど」


何とも言えない顔で平良が応えると、香奈枝は「ははは」と高らかに笑う。


「寛子もそう思うよね?またさ、対応策は、恨まれてから考えようよ。皆でさ」


香奈枝の言葉に、寛子はふ、と笑みを零した。半ば青い顔で二人の様子を見ていた平良は、寛子の表情の変化に動きを止める。


「対応策は、恨まれてから、ねえ…」

「そうそう!」


香奈枝の頷きを見た後、寛子は平良に視線をやる。彼の顔は強張っていて、その目はどこか諦めを感じさせるように切ないものだった。


(…変わらないものなんて、ない、か)


自分が言った言葉を反芻する。


平良は以前の平良ではない。酷く打ちのめされたはずだ。そして同時に、自分も、酷く打ちのめされた。それは何を壊したか。おそらく、二人の間に育つはずだった友情の芽だろう。

だが、二人とも、どこか、どこでもいい、何か、変わったとしたら?以前の自分たちと、違っていたら?


(私たちの間に芽生えるのは、新しい芽、かも)


そう思えば、心が安堵に暖かくなる。


「―――そうね、水くらい、皆で被ればいいわ」


寛子は吹っ切れたようにそう言った。香奈枝の表情が輝き、平良の両目はますます開かれる。


「え、…藤宮、さん?」

「香奈枝の言うとおりだわ。平等にしないとね」


また、育てていけるかもしれないと思い、とても大きな安堵が生まれた。


(私は、育てたい)


もしもまだ、その可能性があるのならば。


「ふ、藤宮さん、それって、つまり」


平良の声は震えていた。寛子は頷く。


「――だって、友達だもの」


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