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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
最終章
56/64

藤宮寛子は、自分が身につけている服を見てカッと頬が熱くなるのを感じた。まるで気が付かなかった。Tシャツの上にカーディガン、下はジャージ。身につけている下着が自分にぴったりの大きさだということと、どうして下着を身につけているかということは考えないことにしたが。


問題は、Tシャツとカーディガン、そしてジャージだ。


(これ、これって、先生の)


ぼぼぼ、と顔が燃えたように熱くなった。









すっかり泣きやんだ寛子がソファの上で体育座りをしている姿を見て、クルツは再びコーヒーをセットしながら、ホッと安堵の息をついた。おそらく、彼女の中で今のところは一段階落ち着いたのだろうと判断する。


「お腹はすいてない?」


コーヒーを差し出しながら、クルツはにこりとそう尋ねる。しかし、寛子の顔が真っ赤なのを見、慌ててカップをテーブルの上に置き、彼女の前にしゃがみ込んだ。


「藤宮さん?どうしたの?」

「え、えっ、あ」

「?」


びくり、とした寛子に首をかしげる。熱があるわけではなさそうだけど、と観察するクルツに対し、寛子は思っていたことをぼそっと零してみた。


「あ、あの、この服って」

「服?僕のだけど?」


それがどうしたの、と言わんばかりの回答。自分が恥ずかしがっているのがどうかしているのかもしれない、と寛子は思った。


「下着は流石に持っていないから買ってきたよ」

「え」


下着については触れないようにしていたのだが、クルツはあっさり、にっこりと教えてくれた。恥かしいという概念はおそらくないのだろう。


(せ、先生が、買ってきてくれたのね…)


サイズとかそういうのはどうしたんだろう、と聞きたいところだが。そんな勇気、寛子は持っていない。聞いたら聞いたで平然と答えられそうで怖い。


(慣れてる、の?いや、慣れてるからって、いやいや)


もはやどこに突っ込んでいいのか分からない。


「ん、なんともなさそうだね」


よくよく観察した後、クルツは診断結果を述べる。


「それを飲んだら、藤宮さんの家まで送っていくよ」

「え?」

「今日は学校も休みだし。ね」


その申し出を断る理由など寛子は持ち合わせていない。お願いします、と小さな声で頷いた。


まだ朝は早く、通りにほとんど人はいなかった。

服がないのでそのままクルツの服を着て出ていくことになった寛子はほっと胸を撫で下ろす。


「藤宮さん、お腹はすいてない?」

「え、あ」


そういえば空いているかもしれない、となんとなく空腹を覚える。少し、と返した。


「流石にどこかで食べるってわけにはいかないか。その服だしね」


そう言いながら、なんとなく楽しそうなのは自分の気のせいか、と寛子は思う。自分は恥かしくて堪らないというのに。

この時間に空いているのはコンビニくらいだということで、クルツが何か買ってくると言い置き、寛子は帰りを待つこととなった。約十分後、白いビニール袋を持ったクルツが戻ってくる。コンビニ袋が似合わないことこの上ない。寛子は思わず笑ってしまった。






マンションには誰もいなかった。半ばホッとした気持ちで寛子は玄関先で靴を脱ぐ。後ろに立っているクルツを振り返り、どうぞと入室を促した。クルツは躊躇いつつも、それじゃあお邪魔するねと言って靴を脱ぎ、寛子のあとに続く。


「あれ、引っ越し?」


リビングルームに入ったクルツの第一声はこうだった。部屋の中には空の段ボール箱や梱包したものが置かれている。寛子は頷いた。


「ええ」

「もしかして転校、とか?」

「いえ、転校はしないつもりなんですけど」

「しないつもりって、それは」

「まだ次の部屋を決めていなくて」


寛子の横顔が強張って見え、クルツは怪訝に思う。


「あ、コーヒーでも淹れますね」


しかし何かを問う前に寛子がそう言ってキッチンに駆けて行ったので、クルツは問う機会を失った。


寛子はコーヒーカップをリビングテーブルの上に置き、ポットからコーヒーを注ぎ入れる。席を勧められたクルツは先に椅子に腰かけ、買ってきた品物をテーブルの上に並べていた。


「わ、たくさんありますね」

「どれにする?」


ようやく椅子に腰かけた寛子を見やり、クルツは問う。寛子はコーヒーを差し出しながらも、その視線をチョココロネに釘づけにしていた。彼女の大好物である。そして寛子はふと、食べ物の山の中にチョコレート味のものが多いことに気がついた。


「先生、って、チョコレート、好きなんですか?」

「まあ、好きか嫌いかで言えば」


応えるクルツは小さく笑っている。もしや自分がチョコレート好きなのを知っているのだろうかと寛子は疑ったが、まさかそんなことはないだろうと考えを否定する。少しでも好意的に捉えようとするのは危険だ。

「藤宮さんは?」

「え?」

「チョコレート、好きなの?」


向けられたのは、悪戯っぽい視線だ。その視線だったら人を心臓発作で殺してしまえるのでは。そう思えるほどの魅力的な笑みだった。見とれつつ、寛子は慌てて応える。


「え、はい、大好物、です」


とたん、ふふ、とクルツは微笑んだ。


「藤宮さんのお菓子ってね」

「え?」

「なんとなく、チョコレートの香りがするんだよ、知ってた?」

「う、そ。ホントですか?」


そんなまさか、と寛子は驚きを隠せない。


「なんてね」


ふは、とクルツは笑いを零す。寛子はホッと胸を撫で下ろす。これまでバニラエッセンスやらラム酒やらを入れてきたのが無駄だったのかと本気で残念に思ったからだ。クルツはコーヒーを一口飲んだ。ふと思いついたように言う。


「まあ、チョコの香りはしないけど、藤宮さんのお菓子は香りで分かるよ」


ぽつりと言い、ちらと寛子を見やる。寛子は少し困ったような顔をしていた。


「…月曜日、だったかな。お菓子、届けてくれたよね?」

「え」

「このくらいの包みに入った、マフィン」

「あ」


言われているのが、麗しい国語教師に遭遇した日のことだと瞬時に察して、寛子はサッと青ざめる。あのとき落してしまったマフィンだ。そう、あのとき。クルツがクッキーを捨てたのだと聞かされたあの日。

そして、今、彼は決定的な一言を放ったではないか。


『藤宮さんのお菓子は香りで分かるよ』


(…つまり、私のだって、知ってて?)


ぎゅ、と心臓の辺りに痛みを覚える。


「直接もらったわけじゃないけど、僕が食べ――って、藤宮さん?」

「捨てた、ん、ですよね?」


寛子はぽつりと、そう零していた。









何か彼女はとんでもない誤解をしているようだ、とクルツは思う。


(彼女のお菓子を捨てた?僕が?そんなまさか)


信じられない気持だが、寛子は冗談を言っているようには見えなかった。顔色はすっかり青ざめ、視線をクルツから逸らし、所在なさげに俯いている。


「捨てたって、いや、勝手に悪いとは思ったけど、全部美味しくいただいて――」

「嘘、つかないでいいです」


今度はキっと半ば睨みつけるようにして視線を向けてくる寛子を見、クルツは疑問を覚えずにはいられない。どうしてそう思うのか。


「…クッキーも、捨てたんでしょ」


ぽつりと、再び悲しげな表情を見せる。

クッキーと聞いてクルツはひらめいた。瀬戸が準備室から出るときに踏んでしまったクッキーだ。クルツはアレが寛子の作ったものだと知っていた。まさかと思って廊下を確認した後、ゴミ箱から拾っておいたのだ。袋を開けてみればやはり、彼女のお菓子の香りが広がって。


(そして、食べた)


そう、彼は食べたのだ。捨てるなんていう選択肢は端から無いのだ。クッキーもマフィンも食べた。それなのに、捨てたのだときっぱり言う彼女は――おそらく誰かにそう言われたのだとクルツは確信した。


(瀬戸先生か)


彼女しか思い当たらなかった。「現在」の瀬戸と、「あのとき」の瀬戸は最早別人だ。そして「あのとき」の彼女なら、お菓子を持ってきてくれた寛子に辛く当たったことも想像できる。しかし、瀬戸のことを寛子に言う気はなかった。


「…信じてもらえないかもしれないけど、マフィンはもちろん、クッキーもどっちも食べたよ」

「いいです。そんなに、気にしてないですから」


瀬戸は何と言ったのだろう。寛子は全く信じてくれない。クルツはどうしたものかと思う。誤解はときたい。何より嫌われたくないのだ。


「マフィンは、初めて藤宮さんが作ってくれたのと同じ味がした。クッキーは藤宮さんの好きなチョコの入った、チョコチップクッキー。生地はコーヒー味だった」


お菓子作りの知識はないが、おそらく間違ってはいないだろう。クルツは自信を持って言う。


「どっちも凄く美味しかったよ。これがもし、僕に宛てたものじゃなかったらどうしようかって思いながら、結局全部食べてしまったんだ」


びっくりしたような顔の寛子を見れば、自分の指摘は当たっていたのだろうと知れた。


「…先生に、作ったんです」


寛子は小さな声で言った。


「…どっちも、先生にあげようと思って」


おずおずと上げた顔は紅潮していた。可愛いな、とクルツは頬を緩ませる。


「よかった。ホントにありがとう、藤宮さん」


にっこり、彼の可愛い人に笑いかけた。


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