1
(…まぶしい)
瞼を通して、眩い光を感じた。体を何か、柔らかく暖かいものが包んでいる。
このまま再びまどろみの中に落ちていってしまいそうなほど心地良く、何もかもが満たされている気分だ。
うっすらと瞼を開けると、目に映るのはクリーム色の天井。
見なれた白い天井とはっきりとした相違を感じ、閉じかけていた瞼を瞬かせる。
(え?ここ、どこ?)
藤宮寛子は驚きのあまり、その場でがばっと起きあがった。
そのとき、くすくすと笑う声が聞こえ、その柔らかな耳触りの良い声にハッとそちらを向く。
「――起きた?」
にっこりと笑う麗人が一人。
「え」
寛子は驚きにこれ以上ないほど目を丸くした。
「おはよう、藤宮さん」
そこには、コーヒーカップを手にし、壁にもたれかかる、彼女の愛しい英語教師がいた。
「え、あ、え、お、はよう、ございます」
状況把握がまったくできず、寛子はまるでロボットのようにカチコチとした動きで、つっかえつっかえ挨拶を返す。なんだこの状況は、と言わんばかりだ。その様子が面白くて、英語教師――クルツフォートードはまたふっと笑ってしまう。
「びっくりした?」
「あ、あの、ここは」
「僕の部屋」
「え」
今、この人は何と言ったのか。自分の部屋?それはつまり…。
「先生、の、部屋?」
「どこに連れていこうかって思ったんだけどね、とりあえず僕の部屋に連れてきたんだ。勝手に君の部屋に入るのもどうかと思って」
にこにこと説明をするクルツはどう見てもご機嫌だ。持っていたコーヒーカップを寛子に差し出す。
「そろそろ起きるかと思ってたんだ。どうぞ」
「あ、ありがとうございます…」
おずおずと受け取る寛子。ますます訳が分からない。どうして先生の部屋にいるのか、それが当たり前のように言うクルツの説明は、寛子には簡単に受け入れられるものではなかった。
ベッド際にきちんと座りなおし、ふー、と温かいコーヒーに息を吹きかける。ふわりと湿った湯気が頬を撫で、寛子は記憶を辿ろうと黙り込んだ。ゆっくりとコーヒーを飲みほしていく。何かを飲むという行為が、酷く懐かしく思えた。
(…昨日、は)
記憶は、恐ろしいほど鮮明だった。つい昨日のことなのだから。まざまざと身に起こった狂気に満ちた出来事を思い出し、背筋がゾッと寒くなった。
(そうだ、私は、寺門に)
拉致され、殺されるのだと、そう思っていた。だが、ここは先生の部屋。寺門の部屋ではない。
(どういうこと?)
そう己に問いかける彼女は、内心では分かっていた。
先生が助けてくれたのだと。
だからここにいるのだ。
――しかし、それは、つまり。
(――みら、れた)
愕然とした。手が震え、唇が震え、寛子はすっかり青ざめた顔でハッとクルツの顔を見る。視線が合致し、空になったコーヒーカップが床に落ちた。フローリングの床に落ちて、幸い割れはしなかったが、ゴトと鈍い音を立てる。
「あ、あ…いや、そん、な」
見られた、先生に。あの、
まだ覚えている。あの男の声、指の感触、舌の這う、音。
「や、だ」
「藤宮さん?」
クルツは寛子の変化に驚き、慌てて彼女の元に走る。
震える肩を支えようとすると、寛子にぐいと押しやられ、阻まれた。
「やっ!」
「ふじみやさ」
「やだ、せんせい、せんせい、は」
どうして、どうしてそんな。この人だけには見られたくなかったのに。
あんな姿見られたくなかったのに。約束したのに。やくそくしたのに。
いい生徒になるってやくそくしたのにあのざまは、あのざまは!
「いやああああああっ!」
腕の中で嫌だいやだと叫ぶ彼女を、クルツは痛々しく思った。だが、それは仕方がないのだとも思った。彼女の嘆きの理由も、怯えの理由も、全て想像のことではあるが、知っているのだ。この身に感じたことはない。だが、たとえその無知を罵られたとしても、この慰めの手を引くことはしない。クルツはぐっと唇を噛む。
記憶を取り除こうかと、一度だけそう思った。だが、それはしてはいけないことなのだ。全てを理解したわけでも、全て、彼女の身に起こったことを知ったわけでもない。だが、彼女がその身をもって友人を守ろうとしたことをクルツは知っている。涙が出るほど、美しいと思った。
胸のあたりが、彼女の涙で冷たくなっていく様を、クルツはじっと黙って感じていた。この腕が少しでも、彼女にとっての癒しとなればいい。そう思うのは傲慢だろうか。
「せん、せい、せんせい、せんせい…」
その悲痛な声は、まるで許しを請うようだった。許しを請うべきは、あの醜い男のほうだ。幸いに、もうこの世に存在してはいない。天使が罰し、悪魔が喰らったのだから。自分が言えるのは、それを伝えることだけだろうとクルツは思う。
「あの男はもう、君の前には現れないよ」
そう一言放てば、寛子の体がびくと震え、しゃくりあげる音が高くなった。
「もう、あの男を怖がる必要もない」
自分の、この手で殺しても良かったと、クルツは今でも思っている。しかし、腕を奪って彼女から離れた男に、もう構っている余裕などなかった。彼女が生きているか、それだけが知りたかったのだ。
「吉村さんも、無事だよ」
そう連絡を寄越してきた天使は、お姫様にはどれだけ礼を言っても足りないと零していた。
「君も生きていた。それが僕は、嬉しいよ」
これ以上、自分に言える言葉ない。気を抜けば、ごめんと謝りそうで怖かった。もっと早く気付けなかった自分を、罵ってほしくて。結局何もできなかった自分を責めてほしくて。だが、そんなことが彼女にとって何になるだろう。
「せんせい…せんせ…」
震える声は小さくなっていき、すすり泣きもゆっくりと沈黙に呑まれていった。
優しく背を撫ぜる。髪に手を差し入れ、甘い息を胸に感じて、とくんとくんと脈打つ体を腕の中にしまいこむ。
(生きている)
それが嬉しくて、涙が流れて仕方がなかった。
寛子は心が震えて仕方がなかった。先生の優しさが切ないほど感情を揺さぶる。あんなことになった理由も、寺門との関係も、彼は尋ねようとはしなかった。おそらく、全て分かっているのだろうと、寛子にはそう思えた。あんなことがあったというのに。それを見ただろうに。
(私を、抱きしめてくれている)
躊躇いもせず腕の中に引き寄せてくれたその瞬間、絶望の中でも、胸が震えた。許してほしいと思った。心の底から、そんなことを願っても仕方がないと言うのに、願いを叫ぶのを止められなかった。
せんせい、と呼ぶ。許して、と願いを込めて。
ごめんなさい、ごめんなさい。また良い生徒になれなかった私を許してください。
こんな私でも、嬉しいと――先生にこうしてもらえて嬉しいと、そう感じることを許してください。
(好きです先生、好きです、あなたが好き。だから今だけ、今だけ、今だけでいい)
あなたの優しさに、甘えさせてください。




