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唸り声を開ける片腕の男。それに対峙する美貌の男。
香奈枝は目の前で起こる攻防戦が現実であることを、信じられないものでも見るような目で見つめていた。
「っ…」
片腕の男は――いや、今やもう腕のない男は、腕がないにもかかわらずバランスを保ち、美貌の男に対峙していた。美貌の男は眉根を寄せ、腕のない男の猛攻に耐える。
(苦戦、してる?)
まるで余裕がなかった。どうしてだろう、と男が勝つのが当たり前だとどこかで思っていた香奈枝は、驚きを隠せない。ハラハラして見つめている自分と男の視線が時々交わるのを知って、もしかして、とあることに気がついた。
(私が、見ているせい?)
しかし、そんなことはないだろうとすぐに打ち消す。すぐに立って少しでも距離を取るべきなのだろうけれど、腰が抜けて立ち上がれそうになかった。
美貌の男は何度も香奈枝を見やる。だが、香奈枝はどうしていいのかまるで分らなかった。
「っ」
腕のない男の攻撃が掠り、美貌の男はバランスを崩す。もしかして怪我をしたのではないかと香奈枝の脳裏に心配が過った。だが、確かめる、そんな余裕はなかった。美貌の男の視界から一瞬、腕のない男の姿が消えた時、その一瞬の隙をついて、腕のない男は香奈枝を再び振り返った。
「あ」
にやり、と口角が上がる様を見て。男が頭を下げたのを見て、そのままぶつかってくる気だと直感した。だが、香奈枝は全く動けない。
もうだめだ、と今度こそ思った。動け私の馬鹿足、とも思った。しかし、彼女の身に衝撃が訪れることはなかった。ただ、目を閉じた彼女の顔に、生温かい水のようなものが降り注いだのを感じた。
瞼を、開ける。
「…あ」
見えたのは、真っ赤な、噴水。
(くそっ!)
ゼグヌングは内心で舌打ちする。腕のない男と対峙して、香奈枝からその視線を外すことが出来たのは良かったが、今度は香奈枝の視線が、ゼグヌングに注がれることとなってしまった。
このままでは。
男に止めを指すことが出来ない。
思いだすのは、血の海で、愛する男が殺されているのを呆然と見ている女の姿だ。あれはもう、不運と言うしかない遭遇だった。首をはねた瞬間を、血が迸る様を、女は見てしまったのだ。
(あんなことは、もうたくさんだ)
あのときの彼女の目。化け物でも見るような、恐怖に満ちた目だった。見開かれた目には嫌悪が滲み、憎しみさえ見てとれた。
だから、見ている前では決して、この男を殺してはいけないとゼグヌングは思っていた。
しかし、男は自分がバランスを崩した一瞬の隙をついて香奈枝に飛びかかろうとした。止める術はただ一つ、たった一つしかなかったのだ。
バシュッと、ゼグヌングは男の首を刎ねた。
赤い、水たまりの中で、香奈枝は腕のない男の体が地面に倒れ込むまでの間、その様をぼんやり視界に映していた。ばしゃり、と音がして、ハッと我に返る。
「あ」
目に映ったのは、美貌の男。その表情は切なさに満ちていて、悲しそうな、痛そうな、苦しそうな――そんな顔をしていた。香奈枝と目があったかと瞬間、男は気まずそうに視線を逸らす。その動作が痛みを堪える様子に見えて、香奈枝は思わず、腰が抜けていたのも忘れ、男の胸に駆けこんだ。
「え?」
上から落ちてきたのは男の驚きの声だ。しかし香奈枝にそんなことを気にしている余裕はない。男に怪我がないか、ペタペタと怪我のありかを探っていく。
「え、おい、おいちょっと、おい」
「ここもない、ここもない」
「おい、おい!おい、ちょ、何して」
慌てたように問われて、香奈枝はきょとんと顔を上げる。血糊とその間抜けな表情のコントラストといったら、…少し気味が悪い。男はぎょっとしつつ、その手で香奈枝の頬を拭うように撫でる。しばらくその愛撫にうっとりしていた香奈枝だが、急に我に返り、男に詰め寄る。
「怪我!」
「へ?」
「怪我、してない?!」
「は?」
思わず半眼する。
「だから、怪我だよ、怪我。さっきほら、あの男に攻撃されてどこか怪我したのかと思って」
そう言って、香奈枝はへらりと笑った。
香奈枝が飛びついて来た時、正直ゼグヌングは抱きしめ返したかったのだが、ペタペタと自分に触れてくる香奈枝に不審を覚え、しばらく固まってしまった。
彼女がゼグヌングを見た瞬間、彼は彼女の目が嫌悪に塗れていないかと思い、怖くて視線をそらした。すると直後には飛びつかれていたという次第。どうしたのかと問えば、返ってきたのは「怪我はない?」の一言だ。どうやら自分に怪我がないかを心配してくれていたらしいと知り、その後にへらりとした笑みを見て、心にあった重い過去が、ゆっくりと融かされていくような気分がした。
(なんか、拍子抜け、だな)
香奈枝が自分を見る目が変わっていないことに喜びを感じつつ、その喜びを押し込めようと内心でそう思う。照れ隠しみたいなものだろうか。
「怪我なんかしてねぇよ」
「はー、よかったあ」
しかし、そう漏らす彼女の体が微かに震えているのを知って、喜んでいる場合ではないと気づく。
(怖かったに、決まってるじゃねえか)
そう自分を叱咤する。再び彼女の頬に手を当て、血を拭ってやる。
「あーあ、こんなに汚れちまって。もうこの服は駄目だな」
「はは、ホントだ」
「怪我はないか?」
「ないよー。ぜんぜん平気」
「そうか」
「うん」
ごしごしと頬を撫でる。香奈枝は大人しくされるがままだ。まだ震えは止まらない。自分が震えていることに、こいつは気づいているのだろうか、とゼグヌングは思う。
「…怖かった、か?」
馬鹿な質問をした。でも、ゼグヌングはそれを言った自分を愚かだとは思わなかった。
「こわ、いとか、はは」
香奈枝はじ、とゼグヌングを見つめる。
「怖かったなら、俺が慰めてやる」
二人とも、面白いくらい血まみれで。
そう言えばあの時は、自分だけが血まみれだったと思いだす。香奈枝がすぐ、と鼻をすすった。
「こわ、こわかった、こわくて、しぬかと」
ひっく、としゃくりあげる。うん、とゼグヌングは頷いた。
「うん、俺が慰めてやるからな」
「うええ…こわかった、なにあのひと、なに、わけわかんなくて、ち、とか、もうわけわかんなくて」
ぐずぐずと泣く少女の背を撫でる。
そういえばあの時は、ただ視線で、怖いと、恐ろしいと訴えられただけだった。
「――怖かったか」
俺じゃないんだな。怖かったのは俺ではないんだな。そう自分に言い聞かせる。
「こわかった、うええ…たすけてくれてありがどおお」
「どういたしまして」
ひっくひっくとしゃくりあげる、その姿が愛しい。焼きが回ったか、と思った。
「もう、もうあえないかと、あえないかとおもったああ」
「会えないって、俺に?」
「ぅう」
「そうかそうか。会えるからな、これからいくらでも会えるから」
優しく、甘く、蕩けるように、囁いてみる。懐かしいな、と思った。
「なっ、なまえも、まだなまえもよんでもらってないのに、しねないって、おもった、けど!」
「名前?」
「でもしぬかとおもったああ」
うえええ、と泣く。見事な泣きっぷりだ。えぐえぐ、と泣きっ面のまま、香奈枝は涙やらなんやら他の液体も含めてでろでろになった顔をゼグヌングの胸に押し付ける。ぶほ、と変な音がした。
「お、おい」
そう呼びかけると、香奈枝はバッと顔を上げる。
「なまえ!名前をおしえて!」
「名前って、俺の?」
「あなたの!」
まるで酔っ払いみたいだと思いつつ、ゼグヌングは香奈枝の頬をゆるりと撫でた。
「ゼグヌング、だ」
「ぜぐぬんぐ?どういう意味?」
「祝福って意味」
「祝福かあ。素敵だ」
「素敵か?似合わないだろ?」
自分ほど「祝福」が似合わない天使はいないだろうとゼグヌングは思っていた。だからこそ、悪友には「ゼグ」と呼べと強要しているのだ。
「私は好きだけどなあ」
「…へぇ」
あっさりと言われた一言に、満更でもない表情を浮かべるゼグ。
「ね、私の名前、教えてあげようか?」
自分を指さしながら言ってくる香奈枝を見、ゼグは小さく笑う。
「知ってる。香奈枝だろ」
「わ!」
「なんだ?」
「もう一回!ワンモアプリーズ!」
「香奈枝?」
「わ!」
わ、と感嘆にしながら、香奈枝は嬉しそうに表情を綻ばせた。
「なんだ、どうした?」
「いつもの三十倍くらい、自分の名前が好きになった」
恥かしげもなく言われ、ゼグは思わずぶは、と噴き出す。もう駄目だ、もう無理だ。
(可愛いじゃねぇか、どうするマジで)
どうせ二人とも血まみれなんだ、とゼグは香奈枝を抱きしめる。ぶは、と香奈枝は変な声を出した。




