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今日はバイトもないし、雑誌も買ったし、家に返ってベッドの上でゴロゴロしながら、お菓子でも食べようかなあ。吉村香奈枝は雑誌の入った紙袋を抱え、ご機嫌な様子で帰路を辿っていた。
(明後日はバイト、バイト、バイトっ、と)
ふんふんふーん、と鼻歌交じりで歩みを進める。
辺りはすっかり日が暮れて暗くなっていたが、危機感のない香奈枝にとって暗闇はそれほど恐れるものではなかった。学ぶ、ということがスッポリ抜けている。
思考はすっかり、先日のバイト先での出来事に向いていた。香奈枝はバイト先に現われる美貌の男が気になって仕方がない。男が顔を寄せ、耳に甘い言葉を囁いたあの日の出来事を思い出すたび、なんだかニヤけて仕方がないのだ。
『おまえはいつも甘い香りがする。顔も、声も、言葉も、まるで砂糖菓子のようだ。どこもかしこも甘いんだろうな…――』
どうしてあんなことが言えるのだろうか。というよりも、どうしてあんなことを自分に言ったのだろう。その理由を知りたいような、知りたくないような。
(ヒャー…恥ずかしい)
恥かしさのあまり思わず頬に手を当てる。ほんのり暖かい。赤くなっているかもしれないな、と香奈枝は思った。
『――その甘さに眩暈がしそうだ。一度舐めると止められない。くらくらする』
くらくらするのはこっちのほうだと香奈枝は内心で言い返す。男の顔を思い出すたびにドキドキして仕方がなかった。
(これって、たぶん)
好きなのかなあ、とのんびり考える。これが恋ってやつかなと首を捻る。
香奈枝は男の、からかうような口調が好きだった。もちろんその美貌も捨てがたいが、会話が楽しいのは重要なところだろう。
(それに)
ときどきふっと寂しそうな顔をする男の表情が、香奈枝は気になって仕方がなかった。慰めてやろうかと言われたことがあるが、あの切ない表情を見れば、自分が慰めてあげたいと思わずにはいられなかった。
(ん、慰める?)
慰める、というとなんだか違う気がして、香奈枝はまた首を捻る。その言葉はどうも、母親が「いい子、いい子、大丈夫よ」と頭を撫でるイメージがあるのだ。
(確かに、側にいたいとは、思うけど)
何かが違う。もんもんと考えつつ、とにかく好きなんだろうなあ、初恋かあ、と感激する香奈枝だった。
「あれ、そう言えば、あの人の名前聞いてない」
うっかりしてたなあ、と頭をかく。今度会ったら聞いてみようと固く決意し、またふんふんと鼻歌を歌い始める。
(名前かあ。香奈枝って、呼ばれたいかも)
あの声色で、甘く呼びかけられたら。
(うわ、超嬉しいかも…)
ボッと顔が熱くなる。
(こう、からかうような軽い感じで、「香奈枝」っていうのもいいし、この前に見たいに甘く、「…香奈枝」とか!きゃー、照れる!)
乙女の妄想は止まらない。
「かなえ、かあ」
あの人に呼ばれたら、自分の名前を今までの三十倍くらい好きになれそうだと思った。
「かなえ、かなえ、かーな」
楽しそうに自分の名前を舌の上で転がす。だから、気が付かなかったのだ。小さく、唸るように、後方から、『かなえ』と、予期しない声色で、己の名を呼ばれていることなど。
『かなえ』
ようやくその呼び声が彼女の耳に聞こえ。香奈枝は何の気なしに後ろを振り返る。振り返って、薄暗闇の中で、街灯に照らされたその者の一部を見て。
「……!」
ゼグは目を見張った。耳に聞こえたのは確かに彼女の声だった。いらっしゃいませーと間延びした声ではない。布を引き裂くような、悲鳴だった。
そしてその声は聞き間違えることなどあるわけがない。彼女に間違いない。勢いよく地面を蹴り、その場から駆けだす。
香奈枝はその場に崩れ落ちていた。見えたのは片腕のない男。醜悪な顔に笑みを浮かべ、獲物を見つけたと言わんばかりに口角を引きあげていく。
『かなえ、かなえ』
どうして自分の名を呼ぶのだろう。男は自分を知っているのだと分かったが、香奈枝は相手が誰だかまったく見当がつかなかった。呻くように言葉を漏らすので声色も聞いたことがないものだ。顔は黒く変色し、腕からはどす黒い血が滴り落ちている。爛々と光る目。唇から覗く真っ赤な舌。
人間なのだろうかと、そう疑ってしまうほど、男は奇怪な姿をしていた。
『かなえ、かなえ』
じりじりと迫ってくる男に対し、香奈枝は地面に腰を下ろしたまま、手をついて後退することしかできなかった。チクリと掌が痛み、おそらく小石か何かが刺さったのだろう、息を荒げ、恐怖で涙が溢れそうになるのを抑えながら、止まっては駄目だと言い聞かせて後ろに下がる。
だが。
(あ)
ドンと背が何かに当たり、これ以上下がれないのだと直感した。
(う、そ)
男は香奈枝との距離を縮め、目前に迫っていた。ぱたり、と香奈枝の足元に落ちたのは男の唾液だ。
「ひ…」
全身が震え、歯がカタカタと鳴り出す。
『かなえ、かなえ』
なおも自分の名前を呼び続けて近づいてくる男にとてつもない恐怖を覚え、香奈枝は必死に腕や足を振って接触を防ごうとした。しかしそれは、無駄な抵抗どころか、余計な抵抗であった。がつんと男の体に香奈枝の足が当り、とたん、男が怒りに唸り声を上げる。
『ぐっ、おまえ、おまええ!』
男は香奈枝に覆いかぶさるようになって、唯一の手を香奈枝の細い首に当て、ぐ、と力を込める。
「ぐ…あ…く…」
苦しい。息が出来ない。ここで私は死んでしまうのだろうか。生々しい死との邂逅。それが間近に迫っているような気がして、とうとう香奈枝は涙を零した。
何も考えられなかった。ほんの少し前まで、あの人が名前を呼んでくれる想像を膨らませ、心を躍らせていたのに。どうして今、こんなことになっているのだろう。苦しい、苦しい。頭がくらくらする。
(こんなことなら、あの人に、名前を聞いておけばよかった)
ふとそんなことを思った。そして、名前を呼んで、自分の名前も呼んでもらって。そんな他愛ないことが、
(叶わない、の、かな)
くらり、と意識が遠のきそうになった。しかし遠くで、誰かが自分の名前を呼んだ気がして、香奈枝は閉じかけていた目をハッと開けた。
その、まさにその瞬間だった。
バシュッと言う音がして、自分の首を抑えていた手が、腕ごと、ゴトリと彼女の足元に転がり落ちたのだ。同時に新鮮な空気を吸うことが出来るようになり、香奈枝は必死になって息を吸う。
目の前に広がっていく血の海。男は唸り声を上げ、香奈枝に背を向けた。そして、香奈枝は男の向こう側に対峙する者の姿を見、目を皿のように丸く、大きく見開いた。
「う、そ」
そこに立っているのは、あの、会いたいと思っていた美貌の男だ。男はぽかんとする香奈枝の顔を見、ふ、と安心したように笑った。
「大丈夫か?」
美しい男は、あの晩と同じように、香奈枝にそう尋ねた。




