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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第一章
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純粋な驚きというものは、どうやら人の思考を妨げる力を有しているらしかった。目の前に広がる光景が彼女の心を鷲掴みにする。視界に映ったのは男と女。女は男に腕をからませ、男は満足げな笑みを浮かべていた。彼らが彼女の視界から消えてしばらく経った後、ようやく頭が働きだした。


男と女?


いや、違う。あれはきっと別のものだ。寛子は思った。


あれは、男と、制服だ。









(そろそろ、雲でも空でも、空気でもいいから、姿を変えて飛び去りたい)


気力で午前の授業を乗り切った寛子は、憔悴しきった様子だった。


二週間。もう二週間、夜の街に足を運んでいない。最初の一週間は、クルツとの約束を申し訳程度に守るためだったが、あとの一週間は、「男と制服」が歩いていたのを見て、あまりの驚きと恐怖に似た嫌な感情によって街に近づけなかっただけだった。


餓えている。何に餓えているかは分からなかった。しかし、その何かを求めて、寛子は喘いでいた。なんだろう。よくよく考えれば、そんなものは一度も手に入れていないのかもしれない。今までは、手に入れている気になっていただけかもしれない。


(…考えただけで気分が滅入る)


なんて自分は暗い人間なんだろう。街に行かない自分の人生など、学校と家を往復するだけで、まるで刺激のない退屈なものだった。帰宅してやることと言えば、ある程度机に向い、それからテレビのスイッチをつけて


――あれ、それから何をして過ごしていた?


(…なんて無趣味な…)


これでは会社を辞めたら何をすれば、と将来を悲観する中年オヤジとそう変りないではないか。働くことで確立していた自らの立場は、退職とともに音を立てて崩れさる。残りの人生をどう過ごしていいのか分からない。「働く父親」ではなくなった男に、子どもたちは冷たい一瞥を向けるだけ。妻は妻で彼女のコミュニティーを形成し、そこからは当然のごとく夫を締め出し、非情にもかつて愛しただろう男を孤独の淵に追いやるのだ。自分もそれと同じじゃないかと考えて、寛子はゾッとした。

女の方がいくらか楽観的だとはいえ、現時点の寛子は自らの人生をそうそう楽観視することなど出来るはずがなかった。


「寛子、なんか雰囲気暗くない?」


ふとそんな声が落ちてきて、寛子はその声の主、吉村香奈枝を見やった。


「んー、ちょっと考え事してたのよ」

「考え事?ふむ、テーマは?」


と返しながら、香奈枝は寛子の前の席に腰かけた。ちょうど向かい合うように。


「『先行き不安な若者。彼らの未来はどうなる?』…ってかんじ」

「う、わ…そりゃ暗くなるわ」

「香奈枝、家で普段何してる?」

「え?あ、うーん、雑誌めくりながら、テレビ見たり、ごろごろしたり…」

「それじゃあんまり私と変わらないわね」

「真面目に机に向ってる、とか言った方が良かった?あんまり自分を偽るのって好きじゃないんだけど」

「正直な回答でむしろ嬉しいくらいよ」

「でもさ、みんなこんなもんじゃない?勉強してるか遊んでるか、どっちか」

「まあ、大雑把に分けたらそうかもしれないけど。なんだか結局、今だけを生きてるって気がするのよね」

「今を生きてるから明日がある。あ、今私いいこと言った?」

「どうだろ、わかんない。明日に繋がってればいいとは思うわ」


そう言って寛子は肩をすくめた。


「つながってないとしたら、つまりそれって、無為に過ごしてるってこと? でも、そんなの結局、どこまでが無為なのか分かんないわよ。一日中マンガを読み続けて、気がつけば百巻を超す大作を読破したってだけで、偉業を成し遂げたみたいに言うやつもいるじゃない」

「それはまあ、その人が偉業を成し遂げたと思えたんなら、無為じゃないかもね。でも、自分のやっていることが意味ないんじゃないかって思ったら、その瞬間から無為になるのよ、きっと」

「あんまりそういうこと思わないよ。毎日そこそこ楽しいし。それでいいんじゃないの?」

「んー」


と寛子は考えている振りをした。納得させられたふうを装う。「そうかもね」おどけたようにそう付け足した。


「そうよ、花の高校生活、楽しまないと損じゃない」

「そうね」


そう返し、心の中で付け加えた。


(その楽しさが、無為でないのならば)


無為だと気がつかないことは、きっと幸せの一つだろうと寛子は思った。自分のやっていることに意味を見出すのは難しいことだ。辞書で引いても出てこない。「どうして?」と問いかけられると、「そうだから、そう思ったから」それだけが応え。大抵は、そこに意味があるかなんて考えない。いや、無意識に考えることを避けているのだろう。意味を考えだしたら、自分の人生にとって「利益」をもたらすか「不利益」をもたらすものか、おのずと考え込んでしまうから。


(どう考えても不利益よね)


寛子は思った。しかし、彼女の中の誰かがそれ以上考えては駄目だと警鐘を鳴らす。その忠告を聞き入れるか決断する前に、「寛子、久しぶりに買い物行こうよ」という香奈枝の呑気な言葉に、寛子はあっさりと思考を中断された。


「へ?」

「ほら、二年になってからあんまり買い物行ってないでしょ?久しぶりに行こうよ、プリとってー、ついでに駅前のマックで軽く食べてこうよ」


そう誘われて、どうせ街にはいけないのだからと寛子は思った。


「別にいいけど、急にどうしたのよ?」

「だって、なーんか、寛子暗かったし?パーっと盛り上がれば楽しくなるかなって」

「んー」

「だめ?」

「ついでにもう一軒、駅前のミスドで新作チェック。どう?」


寛子がそうニッと笑って提案すると、香奈枝はぐっと親指をつきたてた。


「のった!」








無為に過ごすということがイコール楽しく過ごすということなら、別にそれはそれでいいかもしれない。寛子はふとそう思った。久しぶりの買い物。久しぶりのファーストフード。相手の出方など窺わず、言いたいことを言える気持ちの良さは、友人といて得られる最大の癒しの一つだ。


「それで?安藤さんはなんて答えたの?」

「それがね、オッケー出したのよ。びっくりじゃない?あんなに嫌がってたのに!」

「あんたみたいなチビと並んだら、ハイヒールはもう履けない、でしょ? どこかで聞いたことあるセリフね」

「確かに。古林のほうも負けじと、履く前からおまえのほうが背ぇ高いじゃねえか、って言ってたけど」

「誰が見てもお似合いね」

「そうそ!」

「でもなんで安藤さん、コロっと態度かえたの?」

「なんでも古林、変態オヤジから安藤さんを守ったとか。制服売ってくれないかって言われたらしいよ、キモくない?」


その問いかけに、寛子は一瞬体を強張らせた。

「制服」。その言葉を聞くと、制服と歩いていた男を思い出す。


「うん、相当キモイ」


幸い声は震えていなかった。何事もなかったように会話は続いていく。


「あ、それはそうと、この話聞いた?隣のクラスの――」




どうでもいいゴシップ、他愛ない噂話。

楽しみの一つとしてそれらを語りながら、寛子と香奈枝の二人は駅前の通りを歩いていた。寛子は知っている。この先をもう少し進めば、慣れ親しんだ夜の街があることを。一歩一歩踏みしめると、ゆっくりと高揚感が満ちてくる魅惑の街。しかし、そこを目的としない今の彼女にとって、危険を孕んだ怪しい街は、誰でも行くことができるただの街に過ぎなかった。

駅前の街との間に、これといって境目は設けられていない。なんだか妙な気分だった。あの街がすべてだと思っていた。しかし、それはどうやら違うようだった。「すべて」はあの街ほど小さなものではない。もっと大きい。どうしてあの街に「欲しいもの」を求めていたのだろう。あそこだけではない。求めるべきものがある世界の全ては、あの街ほど小さくない。寛子はそう思った。何かがストンと心に落ちてきたような気がした。


「あー、あれ、寛子、見てよ、アレ。援交?」

「え?」


またしても不意に声をかけられ、寛子は驚きながらも、香奈枝が示した方を見た。そしてその瞬間、「あ」と声を上げる。寛子に気がついた向こう側も「あ」と口を開けた。


「何、知り合い?」


香奈枝は両者を交互に見やった。

そこにいたのは、男と、制服。男は寛子を見て驚いたが、すぐににんまりと笑みを浮かべた。一瞬で、訪れるだろう危険を察知したのか、寛子は先手を打つ。


「博おじさん?」


いかにも、久方ぶりの再会に胸を躍らせている少女のように、寛子は嬉しそうな頬笑みを浮かべ、「博おじさん」のほうに駆け寄った。「お久しぶりです」とかなんとか挨拶をした後、ふと今気がついたかのように、隣にいた制服姿の少女に目を向ける。


「もしかして、サキちゃん?」


寛子は目を丸くする。


「え、うそ、髪切っちゃったの?あんなにきれいなストレートだったのに」

「え…」


隣の少女は驚いていた。当然だ。制服女は寛子のことを知らない。二人は「博おじさん」によって結びつけられただけで、初対面なのだ。


「私、寛子よ。もしかして忘れちゃった?」


そうニコニコと言って、寛子は少女の言葉を阻んだ。


「寛子の親戚の人?」


香奈枝の問いに、寛子は大きく頷いた。


「そう、びっくり。こんなところで会えるなんて。博おじさんは父方の親戚なの。で、サキちゃんは、えっと確か私より一つ年下だから、今年高校一年よね。又従妹なのよ」

「そうなの?あ、どうも、寛子の友達やってまーす」


どうやら香奈枝は上手く騙せたようだった。しかし、この場に長くいてもらっては困る。嘘はそうそう長く持たないものだ。そっと香奈枝に耳打ちする。


「ごめん、香奈枝。私、おじさんはまだ話せるんだけど、サキちゃん、ほら無口で、あんまり会話が弾まないから苦手なのよ。だから、建前でああは言ったけど…」

「マジ? あ、じゃあ、今から映画見に行くからってことにしたら? 時間そろそろだって言えばいいよ」

「オッケー、じゃあ時間大丈夫か聞いてくれる?ごめん、ホント」

「りょーかい。いいって、いいって」


こそこそとそんなやり取りが交わされた後、寛子はまた人当たりの良い笑顔を浮かべた。


「あ、そろそろ映画時間じゃない?」


と香奈枝。


「えっ」


と慌てる寛子。慌てて携帯をカバンから取り出し、時間を確認してまたびっくり。


「うわ、ホントだ」

「ポップコーン食べながら見たいから、買う時間考えたら正直危なくない?」

「かも。あ、じゃあおじさん、サキちゃんも、また!今度はお通夜以外で!」


にっこりと手を振る。すぐに駆けだした。

はたして「博おじさん」が手を振り返したか。それは寛子には分からなかった。




しばらく走り続けた後、二人はゆっくりと速度を落とし、やがて立ち止った。香奈枝は先ほどの小芝居を思い出し笑いを零した。寛子も合わせて笑ったが、内心気が気じゃなかった。

男と制服が並んで歩いているのを見て。

ああ、私もそうだったのだと思った。

私も、「制服」だったのだ、と。







その日の夜、寛子はまた夜の街に立っていた。


「ねえ、これでどう?」


ふらりと近づいてきた男は、指を三本立ててにんまりと笑った。


「私の欲しいもの、くれる?」

「おおっ、好きものなんだね」


男の嫌らしい笑みが深くなる。寛子は苦笑した。


「それほどでもないわ」


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