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教室を後にしたクルツは、まだ人気のほとんどない廊下をゆっくりとした足取りで歩いていた。
これからいい生徒になりたいと言って笑った彼女の顔を、クルツは鮮明に覚えていた。自分が根っからの教師だとはとても思えなかったが、彼女がいい生徒であり、真面目で、あの言葉以来輪をかけて励むようになったのをクルツは知っている。だから、男子生徒の話を俄かには信じられなかった。だが、憎いとさえ思った男子生徒の顔は真剣そのもので、彼女への真摯な気持ちが伝わってくるものだった。
『…君は、彼女が好きなんだね』
ふとそんなことを尋ねていた。
男子生徒は一瞬躊躇ったが、特に恥かしがる様子も見せず、少し切なげな色をその瞳に浮かべ、頷いた。
そうか、とクルツは頷き返した。自分が随分と遠くへ押しやられたような気がした。これが彼女の好きな男か、と思い、また、これが彼女の隣に並ぶ男の姿なのかとも考えた。純粋に、悔しいと思った。
そんな男子生徒がどうして自分を頼ってくるのかは皆目分からなかったが、たとえそれが彼の気の迷いでも、自分に知らせてくれたことに感謝せずにはいられなかった。
『わかった。じゃあ、放課後、話を聞いてみるよ』
どうして自分に託すのかは分からない。彼が尋ねたほうがいいのではないかとも思った。だが、与えられたその役を、手放すつもりはない。
「あ、クルツ先生だー!」
廊下の向こう側から、今登校してきたのだろう、二人の女子が歩いてきた。クルツの姿を見つけ破顔すると、まっすぐに駆けてくる。
「おはよう」
クルツは綺麗な笑みを浮かべた。
「おはようございまーす!もう風邪は大丈夫ですか? 治った?」
ああ、そういえばそういうことにしていたんだっけ。クルツは頬笑みながら頷いた。
「大丈夫だよ」
「わー、よかったぁ。三日間、クルツ先生がいなくて寂しかったよねー」
「ホントホント。寂しかった!」
「はは、僕も皆の顔が見られなくて寂しかったよ」
三日間。自分の不在の間に彼女に何があったのだろう。クルツは気になって仕方がなかった。その気持ちを奥に顰めながら、純粋に自分の心配をしている生徒たちに惜しみなく笑みを向ける。
「あ、そうだ、クルツ先生に聞きたいことがあったんです」
生徒はやけに神妙な顔つきでそう問うた。
声を潜め、内緒話をするかのようにクルツとの距離を縮める。
「ん?どうしたの?」
「実はこの間、私たち見ちゃったんです。だからその、クルツ先生、ここを辞めちゃうんじゃないかって」
「え?いや、そんな話は聞いていないけど…」
「ですよね!ほら、大丈夫だよ」
「えー、でもさー、あいつってここの理事長の息子じゃん。復帰したら後任のクルツ先生はさ」
「え、ちょっと待って。どういうこと?」
思わず話に割って入る。
「ほら、先生って、前の英語の先生が事故に遭っちゃって、それで後任としてここに来たでしょ?」
「あ、そうだね」
「意識不明の重体だって聞いてたから、復帰するとしても大分先の話だと思ってたんだけど、この間、見ちゃったんです」
「見たって、その先生を?えっと」
「寺門先生。皆嫌ってたよねー」
「そうそう、超キモかったし」
「見たっていうのは、校内でってこと?」
そう問われた生徒は、隣の生徒を見て頷いた。
「うん。確かえっと、放課後帰るときだったっけ?」
「そうそう。ふらふらーって中に入ってった。あ、確かクルツ先生がお休みした日じゃなかった?」
「僕が?それじゃあ、三日前?」
生徒たちは同時に頷いた。
―――三日前。あの男子生徒も、正確には三日前から彼女の様子が変になったと言った。彼女の身に何かあったか心当たりはないかと問えば、苦々しい顔をして躊躇いがちに首を横に振った。もしかしたら何か彼との間にあったのかもしれないが、おそらくそれが原因ということはないだろう。
(だとすれば)
その、前任の教師が怪しい。
「その、寺門先生だけど、どんな先生だったの?」
「えー、クルツ先生と間逆ってかんじ?」
「うわ、それだ。まったくもって正解だ」
生徒たちは顔を見合わせ、笑っている。
自分と間逆と言われて、ある程度想像が出来ないほど、クルツは自分の容姿を知らないわけではなかった。
「見た目も超キモいし、ねっとり見てくるしさー、あ、誰だっけ、制服売ってくれないかって言われたって?」
「あ、その噂聞いたことがある。でもガセでしょ? そんなこと堂々と言える訳ないし。でもまあ、あれは絶対欲しがる顔だよね。何かと罰だって言って触ろうとするし、もう存在が犯罪っていうか」
「あはは、正直事故ったって聞いてザマミロって思った」
「あはは、私も思った。そのおかげでクルツ先生が来てくれたんだもん、超嬉しかったし」
「人の不幸をそんな風に言っちゃだめだよ」
「やー、クルツ先生怒らないでー」
「先生に嫌われたら生きていけないー」
反省の色を欠片も見せず、生徒は口々に訴える。子猫がミルクを強請って泣く姿を彷彿とさせ、クルツは小さく苦笑した。
(それにしても)
制服、か。
酷く嫌な予感がした。




