表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第六章
46/64

ただの布切れと化した嘗ての「執着の担い手」を見て、何よりそれを愛した男の表情が豹変したのを見て、彼女は背筋が凍りつくほどの恐怖を感じた。

男はすぐに替えを用意しろと命じた。

彼女は走った。

それがある場所まで。





再び愛するものを手に入れた男は、その表情に再び愉悦の色を浮かべた。紙袋から取り出されたそれを大事そうに抱き、頬に摺り寄せた。膝に乗せ、何か呪文のような、聞き取り不可能な言葉を呟き、愛しい我が子でも慰めるかのように、ゆっくりとその表面を撫でた。


彼女は自らが差しだした新たな「執着の担い手」の表面に光るものを見つけ、それが男の唾液だと分かり、心の底から嫌悪を感じた。そのうちに別なものがその上に滴るのかと思うだけで吐き気がした。彼女はもう、それを自ら身につけたいとは思わない。しかしおそらく、男に命じられるまま、汚れた染みを出来るだけ拭った後、それを身につけ、部屋の外に出なければならないだろう。


もう、替えはないのだ。





「――広い校庭に出るとな、無性に走り回りたくなる。そうだろう?トラックを何周も走り、体中の筋肉が悲鳴を上げる。汗が滴り落ち、体と衣服がくっつく様に一種快感をおぼえはしないか?」


男はうっとりとそう語った。自分自身も汗にまみれながら、満足そうな表情で彼女を見下ろしていた。


「教室の、冷たいコンクリートの壁に手を当てる。額を当てる。腕を、肩を、背中を、腿を。気持ちがいいだろう?ひんやりとする。爆発しそうになる熱がスッと冷めていく。一時的に、誰よりも冷静になれた気になるだろう?」


男は彼女の首にするりと手を当て、緊張で一瞬強張った喉に親指を当てた。しかし、留まるかと思われた掌は首筋を滑り、下の方に落ちていった。彼女はホッと一息ついた。


以前と違うことは、と彼女はぼんやり考えていた。

男は「前」とは別人のような気がしてならなかった。「前」はどちらかといえば、「執着の担い手」と性に溺れていた。しかし、今の男は、輝かしい青春の場所、学校に向けられているような気がした。


「そこで俺が見つけたすべてのものを、俺は鮮明に思いだすことが出来る。何をしたか、何をされたか、何を植え付けられ、また、し返したか。校門をくぐればそこは別世界だ、なあそうだろう?現実の世界から区切られた、栄光の場所だ。そうだろう?」


そして、それを象徴する「制服」が好きで、好きで堪らないのだ、と男は言った。


「いや、愛しているんだ。俺はこいつが愛しくて堪らない」


そう言って、その表面を撫でた。


「なあ、着ているだけで、別の誰かになった気がしないか? 身に纏っている間は、自分が何者か良く分かるだろう? 俺もあのときは、自分が何か別のものになったと確信していた。さすがにこれは着たことがない。だからこうしておまえに聞くわけだ。着心地はどうだ? 生きている、そう心から感じるだろう?」


もしかすると、男はまだそのとき、ある意味では正常だったのかもしれない、と彼女は思う。男はまだその時は、彼女を彼の聖地「学校」に行くことを許していたのだから。


「さあ、今日も楽しんでこい。輝かしい青春の風を、その制服に染みこませてくるんだ。たっぷりと、俺が満足するくらいにな」


体力はすっかり消耗し、彼女はとても疲れていたが、男はそう言って彼女を送り出した。綺麗に整え直した制服を身に纏い、彼女は聖地へ歩いていった。



しかし、今日。

男の様子が変化していると、彼女ははっきりと悟ったのだ。



朝になっても男の拘束の手が離れない。男の眼は爛々と怪しい光を放ち、声が嗄れはしないのだろうかと思うほど、ずっと何かを呟いているのだ。どうして自分を求めるのか、そんな理由さえ、今の男にはないような気がした。


(……)


彼女はぐったりと疲れ切った体を少し動かして、遠くに見える床に出来た小さな山に目をやった。それは男が何より愛していた「執着の担い手」だ。なぜ男から遠く離れた冷たい床の上にあるかと言えば、ついさきほど、男がそちらへ投げたからだ。彼女に触れるためには邪魔だと言わんばかり、まるで癇癪持ちの子どものように、力任せに引っ張り、投げ捨てたのだ。


男は「あれ」がない「私」を求めるようになってくれたのだ、とは思えなかった。

おそらく、彼は。


(…もう)


彼女が誰だか分かっていない。彼女はぼんやりとした思考の中で、そう確信した。


(そして私はおそらく…)


どちらかが死ぬまで、いや、例え自分が死んだとしても、ここからもう、出られないかもしれない。

そう思わずにはいられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ