10
ふと見上げた夜空には、周りを仄明るく照らす満月があった。
周りで小さく瞬く星の光は、決して月光に消されることなく、何万光年と離れた場所から今もなお、その存在を伝えるかのように輝いていた。
これまでに何度、このような美しい晩に一人どこへ向かうわけでもなく歩みを進めただろうか。ゼグヌングはつい、と口角を上げる。
幾度、自分は目的もなくただ前に進むことを続けてきただろうか、と彼は自嘲気味に考えた。長い時を過ごしてきたが、まだ彼の人生は終わらない。死神より短く、しかし人間よりははるかに長い寿命は、まだ尽きることはない。だから前に進むしかないのだ。
ゼグヌングは歩き続け、ふと立ち止まる。彼の視界には一軒のコンビニエンスストアがある。立ち止まる理由がそこにはある。
悪友である死神と協力して行っていたある女の捜索は難航していた。今日がとりあえず二人の間で決められた三日目の期限の日であり、陽が落ちて、ゼグヌングと悪友は一時捜索から撤退した。
ガラスの自動ドアが開くまでに、向こう側に、レジの前に立つ少女の姿をみとめ、ゼグヌングは小さく笑う。おそらく彼は、今自分が笑みを浮かべたことに気が付いていないだろう。
少女はゼグヌングが入店してきたことを知ると、その顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ!」
ゼグヌングはひら、と掌をそちらに示す。
彼は一度、少女が「豚」に襲われそうになったところを助けたことがある。「豚」はこのコンビニエンスストアで働いていた他のバイトの女のストーカーだった。ゼグヌングにしてみれば、そんな事実はどうでもよかった。ただ、少女を助けたかった。それだけの理由で少女の前に現われ、「豚」を始末した。
少女は元々このコンビニエンスストアで週一日しか働いていなかったが、どうやらその「他のバイトの女」が止めたのを境に、週三日働くようになっていた。
週三度、ここに来れば必ず会える。
ゼグヌングの頭には、しっかりとその文言が刻まれていた。その他の日はどうしているかと言えば、学校へ行く彼女の姿を一目見ることに決めていた。
ストーカーじみている、と忠告する者はいないし、彼の行動に気づいている存在はいないので、通報の心配もない。ただ、ゼグヌング自身は少女の無事を確かめ、その笑顔を見ずにはいられなくなっている自分に気が付いており、まるで麻薬中毒者のように、数日でも彼女を断てば気が変になりそうになる自分に苦笑せずにはいられなかった。
少女は決して、絶世の美女でもなければ、ナイスバディの持ち主でもない。しかしゼグヌングにとって、大部分の人間に紛れることのないただ一つの存在のように思えてならなかった。似合う形容詞があるとすれば、「無邪気」で「可愛らしい」と言えるだろう。容貌は万人が見て「愛らしい」というものではないのだが、例を上げれば、子犬のような可愛らしさと言ったところだ。どんな犬も子犬のときはおおよそ可愛いものだ。それが、少女の場合は、おそらくこれからずっと持ち続けていくだろうと思える。
まさに子犬を愛でるように、どこまでも甘やかし、甘えさせることができたら。
おそらくそれは自分の至上の喜びとなるだろう、とゼグヌングは感じていた。大事に、傷つけないように、真綿で包みこむように、優しく、甘く、一歩間違えれば堕落へと誘ってしまうほどに、自分という世界一甘い檻でもって閉じ込めたいとさえ思ってしまう。
ゼグヌングは棚から適当に選んだ品を持ち、レジに向かう。ブラックコーヒーと消しゴムとのど飴だ。それらを白い台の上に置いた。
「あ」
ふいにレジ台越しに立つ少女が声を上げ、ゼグヌングは怪訝な顔をする。
「どうした?」
「あ、いや、やっぱり似合うなあ、と」
「は?」
この少女はときどき脈略がないことを言いだす。予想がつかなくて、ゼグヌングにとっては面白いのだが。
「いや、ブラックコーヒーがね」
なんとなく少女の言いたいことが分からないでもないが、ゼグヌングとしてはもう少し具体的に言ってほしかった。
「甘いクリームソーダより、ブラックコーヒーって感じかなあって、そんな感じ?」
小首をかしげる少女を見、思わずわしわしとその頭を撫でまわしたくなるが、何とかこらえた。媚びた視線ではなく、頭上にクエスチョンマークを浮かべた間抜けヅラが彼のお気に入りだ。
「なんだそりゃ、俺はそんなに苦そうか?」
確かに、どこぞの死神のような甘いマスクではない。たまに怖いと言われることもある。最近の高校生はあいつのような顔がいいんだろうか、と一抹の不安がよぎった。
「うーん、別にそう深く考えて言ったわけじゃないんだけど、まあ、あえて言うなら、苦そうって言うより、砂糖は入っていません、って感じ」
「苦そうってことじゃねぇか」
苦々しげにそう言うと、少女はうーんと眉間にしわを寄せた。
「んー、なんて言えばいいかなあ。砂糖がなくても、うーん、砂糖が…」
「砂糖が?」
「うーん、砂糖がなくても美味しい。あ、そうそれ!つまり、砂糖がなくても魅力的!うん、そうだ!」
やった、と拳を握って喜ぶ少女。上手く言えたことが素直に嬉しい様子である。
ゼグヌングは意外な発言に目を見張る。よくよくその言葉をかみ砕くと、驚くほど嬉しい言葉ではないのかと気づいた。
「それはつまり、おまえにとって俺が魅力的だってこと?」
白い台に身を乗り出し、少女にぐっと顔を近づける。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「へ…?」
「そーいうことだろ?」
「え、いや、えーと」
ようやく少女も自分の発言の意味がわかったらしく、ほんのりとその頬を赤く染めた。
「そーいうことだな?」
「あ、いや、まあ、確かに、み、魅力的?そ、そう、そんな感じではあるけど、それは私以外も皆同じ意見だと思うっていうか、か、顔が」
「顔が?」
「お、男前であることは、確かにそうだと思う、よ」
「へぇ、俺、顔のことは一つも聞いてねぇんだけど。へぇ、男前ってわけだ。それは嬉しいなあ」
「う」
要らない事まで言ってしまった、と気づく少女。褒められても照れもしない美貌の男を見、焦る態度を改め、ムッとしたのか頬を膨らませた。
「べ、別に私に言われなくても、どーせちゃんと知ってるんだよね、自分がカッコいいってこと!ふん、これだからイケメンは!」
怒っていると言うより拗ねている、そんな少女の表情は堪らなく面白い。頬を染めて「ありがとう、男前だなんて…」と言えば良かったのだろうか、とゼグヌングは内心で笑う。
「砂糖がなくても魅力的なんつー台詞は言われたことねぇぞ?凄い殺し文句だなあ」
はは、と笑うゼグヌングの態度がまだ気に入らないのだろう、少女はまだ不機嫌そうだ。
「何?まだ拗ねてるわけ?」
「…拗ねてないデス」
プイッと顔を背ける少女。拗ねてるじゃん、とゼグヌングは内心で突っ込む。
「じゃあ怒ってる?」
「怒ってないデス」
「ふーん」
少女は放置されていた品物にバーコードリーダーを当てていく。トントントンと品物が再び白い台に置かれた。少女はそれらを慣れた手つきで白いビニール袋に入れていく。
一連の作業を見守りながら、ゼグヌングはついと口角を上げた。
「じゃあ、どうしたら俺を許す?」
「?許すって、別に」
元々そんな大した話ではない。少女は妙なこだわりを見せるゼグヌングを怪訝そうに見やった。
「俺がおまえを同じように褒めたら、許すか?」
「は?」
少女は、このイケメンめ、どうせ褒め言葉なんて言われ慣れてるんだな、とムカついただけだ。すでにもう、ムッとした気持など薄れている。だからこそ、ゼグヌングの申し出の意味が良く分からなかった。
ゼグヌングは少女の怪訝な様子など気にせず、手招きをして少女を自分の側に寄せる。何の疑いもなく近づいてきた少女の耳元に唇を寄せると、甘く低い声で囁く。
「おまえはいつも甘い香りがする。顔も、声も、言葉も、まるで砂糖菓子のようだ。どこもかしこも甘いんだろうなあ――」
ぞくり、と少女の体が揺れる。とっさに逃げようとしたその腕を、ゼグヌングはぐいと掴む。
「――その甘さに眩暈がしそうだ。一度舐めると止められない。くらくらする」
「な、なに」
少女の顔は真っ赤だ。
ゼグヌングはくすと笑いを零す。
「おまえはまるで砂糖菓子。おまえの甘さは、そうだな、とてつもなく魅力的だ」
「わ、私の甘さ?」
「そう」
「…魅力的?」
おずおずと、少し恥ずかしそうにそう尋ねる少女に、ゼグヌングは愉悦を覚える。ああ、と彼は頷く。少し悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「――砂糖なしでも十分魅力的な俺にも、な」
その一言で自分の発言に合わせてからかわれたのだと理解した少女は、恥かしそうな態度を改め、また不機嫌そうに頬を膨らませた。
「わー、うれしいナー」
とたん、ブッと噴き出すゼグヌング。からかったつもりも嘘を言ったつもりもなかったが、まあこれはこれで面白い。
(あいつも…)
おそらく明日になれば、甘いマスクを持つ悪友も自分のように再会を喜ぶのだろうとゼグヌングは思う。
(さて、あいつにとっての砂糖菓子は)
甘い香りを放つのだろうか。




