9
それは自分に向けられた辛辣なひと言なのか、と平良直人は一瞬顔を引きつらせた。しかし、言葉を放った彼女の声色は普段とあまり変わらない、軽いものだったことを思い出し、おそらく特に意味はないのだろうと理解する。
いや、そう自分に言い聞かせる。なぜなら、彼女の言った言葉が的を射ていたからだ。
そうだ。自分は、人から好意を向けられるのが当たり前だと天狗になっていた。
『最近寛子と一緒にいないと思ったらそういうことだったんだね。モテる男はたいへんだ』
(モテる男、か)
外見だけで見ればおそらくそうなのだろう。容姿から何からをひっくり返してしまうほど、彼は自己を否定する気はない。しかし、所詮上辺だけのことだった。好きだと言われたのも、愛しているなどと歯がゆい台詞を聞けたのも、――上辺だけのことだったに違いない。平良は失笑する。
自分が天狗になっていたこと、人の感情を賭けごとに用いたことが全ての原因だ。おそらく、言葉を投げかけてきた彼女の意図は自分を責めるものではない。しかし、自分がただの、「彼女」と友達になりたいだけの男だったならば。どちらかといえば容姿に自信がなく、真摯に、彼女と友達になろうと必死になる男だったならば。そう思わずにはいられないのだ。
(おそらく、吉村さんは賭けのことを聞かされていないだろう)
そう判断を下す。「彼女」はこんな酷いことをされたのよ、と言うタイプではないと思ったからだ。友人に心配をかけまいと、何もかもを抱え込むタイプだ。辛いことも、苦しいことも、おそらく、それがどれほど「彼女」を傷つけようとも。
「彼女」は二時限目の終了後に現われ、六時限目に出ることなく帰っていった。「彼女」の性格を考えてみれば、どこか妙な感じを覚えずにはいられない。平良の心にある不安が膨らんでいく。
(吉村さんに聞いてみようか…)
と考え、即座にその考えを却下した。
おそらく、「彼女」は吉村に何かを伝えただろう。吉村を心配させまいと、友人を大切にする「彼女」のことだ、それが嘘であろうと、「何か」を言って吉村の心配を払拭したに違いない。吉村は比較的考えていることが分かりやすいタイプだ。やってきた「彼女」を教室の外に連れ出す前と後では、まるで表情が違った。なるほど、そうだったのか、と納得した顔だった。
そしておそらく、「彼女」は吉村に口止めしただろう。自分のことにも言及したに違いない。事実は伝えず、彼女なりに考えた、最も起こりうる、この数日間の疎遠についての話を、吉村に伝えた。吉村があのような辛辣な言葉を残していったのも、連鎖的な行動でしかない。
(吉村さんは、応えない)
そう、断固として。今から思えば妬ましいほど、彼女たちの友情は固い。そして友情の輪から外れてしまった自分は、「彼女」がどれほど疲れた顔をし、思い悩んでいるように思えても、何の力にもなれないのだ。
『その心配がね、余計なの』
心配することさえ、拒絶されるのだと知ったあの瞬間、絶望で背筋に寒気を覚えた。ようやく開かれたかに思えた扉は堅く閉ざされたことを思い知らされた。
(…だけど)
心配なものは心配なのだ。
六時限目も終わり、HRも終わり、いつものように穏やかな放課後がやってくる。平良は緩慢な動作で帰る準備をしていた。教室内にいる生徒はまばらで、吉村はもういなかった。
(どうすればいいだろう)
自分にできることはないだろうか。口にすれば失笑を買いそうな一言が頭に浮かぶ。「彼女」ならば、儚げに笑って「何もないわよ」と言うかもしれない。確かに、自分にできることなどもう、一つだって許されていないのかもしれない。だけど。
(…放っておいたらいけない気がする)
なぜそう思うのか。平良には説明がつかない。直感というしかないだろう。
窓から暖かな日差しが差し込み、床をオレンジ色に染め上げていく。窓の格子の影が整然と並ぶ机の上に描かれ、夜になっていくのだ、と平良は漠然と思った。時間がたち、やがて真っ暗闇が訪れるだろうことに、なぜだか不安と恐怖を覚えずにはいられなかった。
窓から見える景色は普段と変わらない、帰宅する生徒たちの姿が増えるごとに、談笑の声が薄れていくごとに、校内の人影は減っていく。
帰ってもいいのだろうか、そんな気がしてくる。自分はここで待っていなければならないのではないだろうか。何を待つのかも分からない。だけど、嫌な予感を覚え、心臓が震える。
「えー?風邪?」
ふと、廊下側からそんな声がして、平良はそちらを向いた。女子生徒が二人、談笑しながら歩いている。
「そうそう。ここんとこずっと休んでたでしょ?クルツ先生は三日ほどお休みです、ってうちの担任が言うから何事かと思ったんだけど、酷い風邪なんだって」
クルツ、という言葉を聞き、平良はハッとして彼女たちの会話に耳を傾ける。
「三日ほど、って、クルツ先生が言ったのかな?なんか具体的な日数だよねー」
「はは、意外なとこで仮病だったりして」
「まっさかー!」
きゃはは、と笑う声。そういえばここ三日ほどあの先生の姿を見ていない、と平良は思い返す。
(クルツ先生、か)
女子たちが去っていき、笑い声は遠ざかる。平良はふと考えた。
(確か、吉村さんが)
いつだったか平良は、「彼女」にこう尋ねたことがある。
『へえ、藤宮さん、クルツ先生のこと好きなんだ?』
しかし、その問いに応えたのは吉村だった。
『好きっていうか、憧れ?ね、寛子』
そしてそれに促されるように、「彼女」は頷く。
『う、うん、まあ』
一連の流れを思い出し、平良は顎にそっと手を添えた。
(…藤宮さんは、クルツ先生に)
憧れている。
好きなのだろう、とは思わないことにした。少しムカつくからである。
(あれ、そういえば、あのとき)
購買に「彼女」と二人で買い出しに行き、甘いものが好きなのかとそんな話をしていた時。おそらく「彼女」は背を向けていたから気がつかなかっただろうけれど、あのとき、――そう、平良が「彼女」の名前を声高に呼んだ時、あの美しい英語教師はこちらを見ていたのだ。
(こちら…?いや、彼女を?)
生徒と先生の禁断の恋、という言葉が平良の脳裏を過る。しかし、すぐに頭を振った。そんなことがあるわけがない。考えすぎだろう。というか、そうは考えたくない平良である。
(…とにかく、憧れていることは確かだ)
そう思うと、一筋の光明が見えたような気がした。あの英語教師にそれとなく聞き出してもらうことはできないだろうか、と考えつく。いや、聞きだしてもらわなくても、彼女の悩みが解決に向かえば、と思った。自分にはどうしようもないのだ。ここは涙をのんで他の誰かに託すしかない。吉村では駄目だ。彼女は「彼女」の思考の上を行くことはできないだろう。言いくるめられれば終わりだ。「彼女」の嘘を鵜呑みにせず、更に言えば、「彼女」の信頼を得ていなければならない。憧れているほどなのだから、隙はあるのではないか、と平良は考えた。
(…なんにしても)
問題は、クルツにどう頼むか、である。




