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鍵穴にキーを押しこみ、回す。それは彼女の習慣となっていた。
だから、まさかキーを回して、開くはずのドアが閉まるとは思っていなかった。藤宮寛子はヒュッと息を吸い込む。驚きと恐怖が胸の中に膨れ上がる。鍵をかけ忘れたのかという驚きと、侵入者がいなかったかどうかという防犯上の恐怖だ。今日、ここに帰ってくる予定はなかったが、入用なものが出来た。可能性としては、帰らないパーセンテージのほうが高かったのだと思うと、それだけで身震いする。
おそるおそる再びキーを回し、今度こそドアを開ける。そっと中に足を踏み入れ、玄関の四角い床に見なれないハイヒールを見、驚愕に目を見開く。後ろ手に鍵を占める習慣も忘れ、靴を脱ぎ散らかし、バタバタと廊下を走る。つるりとしたフローリングの上を靴下で走ったので、思わず転びそうになる。危うい体制でリビングに繋がるドアを開ける。心臓が恐ろしいほどのスピードで鼓動しているのは、ドアの擦りガラス越しに、リビングに灯がついていることを知ったからだ。開けてすぐに寛子は叫んだ。
「っ…!お母さん!」
両親の最初の罪は私を保育園に入れたことだ、と寛子は思っている。
彼女へ愛情を注がなかったことや、彼女の存在をどうとも思わなかったことは、彼らには仕方がないことだと理解していた。それは罪ではない。運命だ。
しかし、保育園に入れたのは罪だと思わずにはいられなかった。保育園に入り、他の子どもたちと自分の置かれた状況の違いを知って、寛子は自分が愛されていないのだと理解した。彼女の諦めの性質は幼い頃からあったのだろう。両親に愛情不足を訴えるのではなく、寛子はただ沈黙した。おそらく、そのことが余計に、両親には奇妙に思えたのかもしれない。可愛げのない子供だ、と寛子は何度も言われた覚えがある。
彼らが寛子に愛情を傾けようとしないのは、もはや動かしがたいことだと寛子には分かっていた。だから、せめて彼らの注意を引きたかった。褒められたり、叱られたり…とにかく何でもいい、自分に目を向けてもらえれば、と切望した。しかし、それは徒労に終わった。
寛子が注意を引くことさえ諦めたのは、そう遅くはなかった。両親から得ようとしていたもの全てを、彼女は他人に求めた。それはおそらく、必然だったのだろう。
どうすれば愛情がもらえるのか、始め、寛子には分からなかった。だが、あるとき帰りが遅くなり、夜の街に近い道を歩いていると、声をかけられたのだ。制服をじっと見つめたあと、ブイサインを向けてきた男に。
制服は「興味」を引くのだと知ったのはそのときだ。もしかすると、「興味」を引けば愛情が得られるのではないだろうか。自分に目を向けてくれるのではないだろうか。そんな、「仮説」が立てられた。
それからだ、彼女が暗い過去の一歩を踏み出したのは。
お母さん、と呼んだ寛子に、目の前の女――リビングのソファに優雅に腰かけている女――は、まるで置物を見るようについと視線をやった。赤い唇が「あら」と零す。
彼女はブランド物の、大きく胸元の開いたニットドレスを纏っていた。白い胸元を飾るのは美しい宝石たち。綺麗に整えられた爪も、長い指にはめられた指輪も、耳についたピアスも、どれもキラキラと光り輝いている。それに負けず劣らず、彼女の容姿は整っていた。白く滑らかな肌、おそらく柔らかいのだろう。どんな指先にも、極上のものとして感じられるのだろう。光沢のある黒髪は腰に届くほど長く伸ばされている。形の良い眉の下には大きな目、高い鼻、少し分厚い唇。それらは化粧で一寸の隙もなく、仕上げられている。その顔に浮かぶのは、自分は美しいとの自信だ。実際に、彼女はもう四十を超えているはずなのに、そうとはとても思えないほど若く、美しい。
「あら、こんばんは」
必死の形相の寛子に対して、彼女の一言には温度差があった。寛子にとっても、彼女にとっても、互いの顔を見るのは数カ月ぶりだと言うのに。そしてもう一つ付け加えるならば、寛子がこうして、女がソファに腰掛けているのを見たのは、おそらく一年以上前だ。
「…お母さんこそ、帰って、きてたの?いつから?」
「寄っただけよ。マンションの権利書とか、ここにあるんだから」
「マンションの権利書?」
思わず首をひねる。しかし女は寛子から視線を外し、煙草を取り出して火をつけた。白い煙が女の口から吐き出される。
「あの人は?」
あの人、とはおそらく寛子の父親である。寛子は何を言っていいか分からず、とりあえず頭を振った。
女は「ふーん」と漏らすだけだ。聞く割には大して興味がない様子である。
「そんなことだろうとは思ってた」
そんなこと、とはどういうことか。
それを聞こうとして寛子は口を開いたが、先に女が言葉を繋ぐ。
「入金は?続いてる?」
「は?」
「生活費」
冷たくそう言い、寛子はゆっくりと頷く。女は煙を吐きだし、爪の先で苛々とした風に頭を掻く。
「ったく、いいわよね男は。金さえ払えばどうとでもなるんだから」
嫌な言葉だ。おそらく、自分に関係することだろうと寛子は直感した。
思わず眉を顰めていたのだろう。それに気付いた女が、形の良い眉を寄せた。
「何、その目」
「え」
「ったく、苛々するのよね、その顔見てると。その男って奴に現を抜かして六に家に帰って来ないのは誰だって? そう考えてたわけ?」
「そんなこと」
「あーーーー、うるさい」
ギュッと灰皿に煙草を押し付ける。女のその行動が、寛子は幼い頃から苦手だった。まるで、灰皿が自分の体のように感じられて仕方がないのだ。
「あんただって、こんな時間に帰ってきて」
女は寛子の体に、上下に舐めるよう視線を走らせてから、くいと口角を上げた。こんな時間――そう、今はもう、すでに午前一時を回っている。
「――男には最後まで付き合わなきゃ駄目じゃない」
その言葉はあまりにも露骨過ぎた。娘に言う言葉ではない。この人は、と寛子はカッとしたが、ぎゅっと拳を握りしめて耐えた。
「顔は全く似てないし、体だけでもと思ったけど。…――そんなこと、私だったら有り得ないわよ」
ふは、と嘲笑する母親を見て、寛子は眩暈を覚えずにはいられなかった。夜の街でもこう言う視線を向けられたことがある。相手は、私のほうが先輩なんだからと訳のわからない経験の暦を並べ立て、自分のスキルを自慢げに話していた――制服を着た、女だ。
寛子は何も言えなかった。ただ黙って、母親だろう女の視線に耐えるだけだ。耐えている時間はそれほど長くは続かなかった。女のほうが、面白くなさそうに視線を外したからである。
「ま、どうでもいいわ。ああそうだ、あの人が言ってないなら、仕方がないわね」
ふいに何か思いだしたようである。再び吸い始めた煙草を指にはさみ、ふーと息を吐く。
「離婚することにしたから。それでえぇと、このマンションは来月には私がもらうことになったの。あんたはあっちに引き取られる。ま、もともと生活費はあっちがもってたんだから当然よ」
ペラペラと何でもないように言う女を、寛子は信じられない気持ちで見つめていた。目は大きく見開かれている。しかし、その気持ちはどこか冷めきっていた。
「権利書云々は自分で取りに行けなんて言うし、まあ慰謝料ももらえるんなら許してあげないこともないわ」
「…私は、どうしたら」
なぜ離婚をしたのか、など今さら聞く話でもない。
「さあ、知らない。あの人に聞けば?大丈夫よ、来月までに出ていけば文句は言わないから」
来月までに出ていけば?
笑える話だ。大丈夫なわけがない。来月が始まるまで残り二週間もない。父親から何の音沙汰もないのに、何が大丈夫なのか。しかし、寛子にはこう応えるしかない。
「…わかった」
もう話しても無駄だ、と今度こそそう思ったのは、わかったと寛子が返事をしてきたと同時に女の携帯電話に着信が入り、彼女がそれを迷うことなく取った時だ。おそらく相手は男だろう。
なんだかもう、全てが馬鹿馬鹿しく思えた。寛子はちらと母親だった女を一瞥し、自分の部屋に行く。
廊下を折れて闇に引き込まれた放課後から一夜明け、そしてもう、二夜目に差しかかっていた。時計を見ると、午前二時に近い。小さくため息をつき、ベッドに倒れ込む。なんだか疲れた。ここ数日、たった二日でとても痛めつけられた気がする。このまま寝てしまいたいと思ったが、それは許されない。
(…せめて、一時間だけ)
そう、それくらいなら大丈夫。
誤魔化すことができるだろうと思い、目覚まし時計を一時間後にセットする。
(…探していた、と言えばいいわ)
つい、とクローゼットに視線をやった。視界に、見なれた制服のスカートが見える。
(よかった、二枚買っておいて)
寛子はふっと全身から力を抜いた。安心したのだ、心の底から。
――入用のものは、すでにそこにある。




