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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第五章
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たまたま見かけたドラマのワンシーンで、夜遅く帰ってきた男を、娘と母親が玄関まで迎えに行き、『おかえりなさい』と笑顔で出迎える、そんな微笑ましい場面があった。

今日は早いのね、いつもみたいに飲んでこなかったのねと言う妻。

パパ、お土産はー、と強請る娘。

夫であり、父でもあるその男は、たまには早く帰るのもいいかと思ってな、と妻に照れたように笑い、今日もいい子にしていたか、と娘にケーキの入った白い箱を手渡すのだ。

賑やかに笑いながら部屋の中に入っていく三人。


その後ろ姿を追う様に映すカメラアングル。






そこまで食い入るように見てから、ハッとして馬鹿みたいだと吐き捨て、テレビの電源を切った覚えがあった。自分にはそんな経験がない。迎えられる側も、迎える側も体験したことがない。そう思いだし、藤宮寛子は小さく苦笑する。


「……」


目の前に閉ざされた灰色のドアがある。無意識に、ぐい、と制服のスカートの裾を掴んでいた。サッとドア横のインターフォンに視線をやる。ごくり、と息をのむ。こんなこと、慣れるものではないだろうけれど、震えている自分を省みて、寛子は苦笑するしかない。

人差指で、ぐっ、とボタンを押す。ガチャ、と何かスイッチが入る。小さく通信が繋がる音がして、寛子はまた息をのむ。じわりと嫌な汗が噴き出すのを感じた。


『…はい』


小さく応答する声。不機嫌そうな声だ。

寛子はぎゅっと裾を掴む手に力を込めた。


「…私」


言うや否や、ガチャ、とドアの鍵が開いた。





失うことには慣れていたはずなのに。

寛子はぼんやりと思いながら、教室まで続く廊下を歩いていた。下駄箱で出会った平良直人の会話を思い出し、酷い人には案外簡単になれるものだ、と他人事のように思う。

一方で、昨日はあれほど酷い男だと思った平良は、意外にも酷い人には成りきれないのだと知った。彼はおそらく、自分が歩いてきたものよりずっと明るく照らされた道を歩んできたに違いない。だから、想像する範囲を超えた暗さに触れると、とたんに可愛らしい、嬰児のように無垢な反応をしてしまう。いっそあのとき、キスなど仕掛けないで、酷いと罵って泣けばよかったかもしれない。そうすれば、彼はあんな、辛そうな顔をせずに済んだはずだ。

まああのときは、裏切られた、と思ってしまったのだから仕方がない。


それにしても驚いていた。まさか傷つけた相手が挨拶をしてくるとは思っていなかったらしく、『おはよう』と言っただけなのに。そういう反応をみると、怒りを覚えた自分が馬鹿馬鹿しく思えると同時に、しかたがなかったのだ、と諦めがつく。

愚かだったのは、彼を友人に求めた自分のほうだ。彼はただ、生きてきた中で得た悦楽のため、少々の賭けごとに興じただけ。

――まあ、そんなところだ、と寛子は思う。


つい、と自分の手首に視線を当て、ふ、と笑う。

気がついただろうか、これが何か。


(虫刺され、ね)


その言葉を信じたのだろうか。信じたのならばそれでいい。信じずとも、所詮関係のない話だ。一晩でいくつの虫に噛まれたか。数えるのも億劫だ。手で叩いて殺せるならば、彼女は何度も打っただろう。


彼女はゆっくりと歩く。昼休みの喧騒が彼女を包み込む。

暖かく慰めようと受け入れるのでもなく、かといって拒絶を示すわけでもなく。


ふと、ここにいる自分は何だろう、と寛子は思う。

今度は何になったのか。いずれ自分は全てを失うのだろう、とそんな予感を覚える。


(藤宮さんは、何も諦める必要なんてない、か)


優しい言葉だ。何も知らないから言える、綺麗な慰めの呪文だ。しかし寛子は嬉しかった。非情になりきれない、ただの高校生の平良が、自分の言葉に傷つき、自分を心配し、言葉をかけてくれたことが、嬉しくて仕方がなかった。本当に、彼は自分にはもったいない。

本当なら、傷つけてごめんなさい、と言うべきだったのか。心配をかけたことを謝るべきだったのか。そのどちらかだろう。


心配をしてくれた。馬鹿馬鹿しいと思った。

恋愛事を賭けにした彼を酷いと思い、好きだと口にした彼を浅はかだとも思えた。

そう、彼を罵る権利が自分にはあると分かっていた。だが、そんなことはもう、ただ自分を貶めるだけのことに違いないのだ。


だから寛子は言った。彼の横を通り過ぎる時、『ありがとう』と、小さな声で。


聞こえただろうか、聞こえなかっただろうか。


(どっちでもいいわ)


言った者勝ちだ、こういうものは。


寛子は唇の端をつい、と可笑しそうに上げる。教室へはあと少しで到着する。学校で過ごす時間が、唯一彼女が自由の風を感じることのできる時となってしまった。ここは不思議なところだ、と寛子は思う。学校とは、学ぶだけの場ではない。友情を得た。その美しさを知った。楽しさを、心地よさに身をゆだねた。失いたくないと必死になった。笑った。くだらないことで、たくさん笑った。裏切られても、傷つけられても、失ってもなお、感謝の気持ちで満たされる、掛け替えのないものだ。


(恋、を)


恋を知った。切ない恋だ。叶わぬ恋だ。

何より甘美な、知らなければおそらく、人生は色のないものだったかと思えるほど、心が震える恋をした。出会った美しい人。優しい言葉。暖かい笑顔。香る紅茶。何かに、別に何者かになれるかと期待することができた。もしかすると、一番ほしいものを手に入れられるのではないかと、馬鹿みたいな夢が見られた。


この、生ぬるい世界が好きだ。美しいものも醜いものも、ありとあらゆるものが混在する、人々が笑い、泣き、怒り、しかしまた同じように感情のサイクルを繰り返す、冷たいだけの外界とは異なるこの空間が好きだ。


もうここで涙を流すことはしない。

ここは自分の夢の場所だ。生き生きとした、人生という曲の踊り場だ。


「……」


―――瞼を閉じれば、ひやりとした一瞬と、物陰から腕を引かれた瞬間をまざまざと思い出すことができる。廊下を折れたその先で、寛子は腕を引かれた。つい昨日のことだ。忘れるわけがない。手の感触が、腕にまだこびり付いている。引き込まれた先には闇があった。寛子のそれより大きな影があった。完全なる暗闇ではなかったが、そこに漂う雰囲気は、暗く、永久に彼女を閉じ込めてしまうようだった。

掴まれた腕から、自分に触れるごつごつとした手の感触を、自分は何度も撫でられたことで、覚えこまされたことを、

―――吐き気とともに思いだしたものだ。


寛子はその顔を恐怖によって真っ青に染めた。こびり付くような闇が彼女の体を纏った。その闇の中で、ぐいと振り向かされた彼女は見た。二つの目、らんらんと輝く目。狂気に満ち満ちた目を。


『…あ』


下品な笑みが、闇に浮かんでいた。口元がくいと上がる。言葉を紡ごうと開かれる瞬間、唾液が唇の間に糸を引いた。


『久しぶりだなぁ、寛子』


自分の名を呼ぶのは、もう二度と聞きたくないと思っていたものだった。この男がここにいるはずがない、と寛子は思った。しかし、男はいたのだ、実際に。まるで幽霊にでも遭遇したような、得体のしれないものを見たような恐怖を感じ、寛子の歯がカチカチと忙しなくなる。

男は寛子を見下ろし、愉しそうに嗤った。


『話は聞かせてもらった、悪い子だな、寛子。そんな悪い子だから、みんなに捨てられた。かわいそうに。親にも捨てられ、友達にも捨てられ。哀れな子だ』


男の言葉は、最後通牒さながらだった。


『―――さあ、おいで、可愛がってやろう』





ガチャ、と開いたドアの向こうに見えたのは、満足そうな笑みを湛えた、彼女を廊下に引き込んだその男の顔だ。


「おかえり、寛子」


寛子は小さく頷くばかりだ。腕を取られ、そのまま中に引き入れられる。

自由を阻む枷が、再び彼女の体に巻きつく。


(goodbye friend, goodbye lover)


そしてもう、手に入れられぬ自由よ。


寛子はそう思い、静かに瞼を閉じた。


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