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服を剥いでいく手には、激しい熱情が込められていた。スカートのジッパーを下ろす音に耳を澄まし――彼は陶酔している風だった。タイの結び目に視線を落とし、味わうようにゆっくりと解いていく。全てが床に落ちると、あとはもうほとんど男の興味を引かなかった。少なくとも寛子にはそう感じられた。男の肩越しに脱ぎ捨てられた制服をちらと見て、アレより自分は下なのかと苦々しく思った。
この瞬間だ。
男が長く息を吐きだす瞬間。
寛子はその瞬間が一番嫌いだった。何より相手を近くに感じ、その温かさに安堵を覚えるはずなのに、寛子にとっては相手を一番遠くに感じ、一番冷たく感じるときだ。脱ぎ捨てられ、床に散らばった制服がせせら笑っているような気がした。
「私がいなきゃあんたなんて意味ないのよ」
まるで、そんなことを言われている気がした。
「口に合うといいんだけど」
そう言いながら、クルツはガラステーブルの上に紅茶を置く。カツンとガラスにソーサーが当たる音に、寛子はハッと我に返った。
「ミルクティーだよ」
クルツはにっこりと笑う。
「あ、ありがとう、ございます」
ぎこちない笑みを浮かべるだけで精いっぱいだった。
最近、ズレを感じている。相手に問題があるのではない。自分だ。時々、身を任せていると心が擦り切れるような痛みを訴えた。違う、と叫んでいる。欲しいのはコレじゃない、と。
馬鹿馬鹿しい、と寛子はその思いを振り切った。
目の前に置かれたカップを手に取る。ちらと見ると、クルツは向かいの椅子に腰掛け、綺麗な笑みを湛えていた。カップに唇を近づけ、暖かい液体を口に含むと、寛子は喉もとから胸にかけて、スーっと妙な温かさが通り過ぎていくのを感じていた。
もしかしたら、コレかもしれないとほんの一瞬だけ思った。我ながらお手軽だ。虚飾を重ねた言葉と変態じみた性癖に付け込んで得た温かさよりも、紅茶の温かさに安堵を覚えるとは。ミルクの甘さが心の角を溶かし、芳しい香りが寛子の心を落ち着かせた。
ようやく彼女は、英語科に割り当てられたというその部屋の、落ち着いた色彩と、クルツと同じ不思議な雰囲気に気がついた。続いて、自分がクルツに呼び出され、放課後こうしてこの場に身を置いていることも思い出した。
そういえば、どうして呼び出されたのだろう。
もう、授業の進度は教えたはず。ようやっと事態の不審に気がついた。
「…あの、どうして私」
「いきなり呼び出してごめんね。用事があったかな?」
「え」
一瞬ドキリとした。用事といえば、またあの夜の街に出てことしかない。いや、しかし、この新任教師がそれを知っているわけがない。気にしすぎだ。余計な考えを振り払った。
「…そう言う意味じゃないんです。私、どうして呼び出されたのかと」
「――ああ、確かにそうだね」
どういうわけだか、クルツの笑みが深くなる。表面的な笑いではない。心から何かを楽しんでいるようだった。
「それで、今日は用事があるの?」
「は?」
「アフェア、だよ」
その言葉を聞いて、寛子は目を見開いた。
「な、何が、言いたいんですか…?」
声が上ずっている。
「あれ、分からない?この意味」
「…affair」
呻くように呟いた。分からないわけではない。
しかし、この新任教師がただ「仕事」という意味で使っているのか、それとも別の意味か判断できなかった。クルツはくすりと笑う。「金払いがいいからかな」と独り言のように言った。
「なに、言って」
「年上、好き?」
「せん、せ、さっきから、何を」
カップを持つ手が震えていた。ああ、こんなことが前にも会った。あの時目の前にいたのは、下世話な笑みを浮かべた、六でもない男。
「信じられなかったよ」
クルツは自嘲気味に笑った。
本当に驚いているのか、そうでないかは寛子には分からなかったが、自分のしていることがバレていることはしっかり分かった。無意識に顔を青くしていたのだろう、寛子の表情から「肯定」を見てとると、クルツは落胆のため息を吐いた。
「あんな豚と? ホントに信じられない」
クルツの顔から笑顔はすっかり消えていた。その美しい顔は嫌悪感に歪んでいる。「豚」なんて言葉をこの新任教師が使うとは、と寛子はいささか驚いていた。目の前の男は、天使と戯れることしか知らない清らかな存在だと、すっかり信じ込んでいたらしい。
「あのとき離さなければよかったのか? いや、でももっと前からだったら?」
今度は意味不明な独り言まで言う始末だ。どうやら驚くべきごとに、寛子が体を売っていたという事実がショックだったらしい。普段の温厚で、ただただ美しさを讃えられるばかりの姿からはかけ離れた人間臭い様子を見て、寛子はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「学校にバラしますか?」
冷え切った声。二度目となると切り替えが早くなるものだ。
「バラす?」
「じゃあなんですか?何が目的?」
「まるで立場が逆だね」
クルツは小さく笑った。
「体ですか?制服を身に纏って?」
「制服?ああ、もしかして…なるほどね。僕は制服に興味はないよ。もしかするとその体にもね」
「もしかすると? はっきり言えばいいじゃない。私なんかに、興味はないって。制服なんでしょ? それじゃなきゃ、体に決まってるじゃない!」
私という存在は、無くてもこの世に支障が起こることはない。
私のアイデンティティーは、制服と、この体。平凡だけど、他人の温かさには慣れた、この体。
「なかなかない意見だね。制服か体か、か」
「あんたはあいつと違って綺麗だもの。私じゃなくても相手は掃いて捨てるほどいるわよね。だからそうやって余裕ぶってられるの? 超ムカつく!」
「掃いて捨てるほどいるのは確かだけど、欲しいのは一つだけだよ。それより、あいつって」
「はっ、たいそうなセリフね。あんたが言うと俳優ばりに様になるわ。笑っちゃうくらいにね」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ」
「日本語、分からないふりはお得意だから?」
「君こそ意外と察しがいい」
クルツはにっこりと笑った。
「さて、それよりね、もうやめると約束してくれるかな?」
「約束?それで?」
「それでって?」
「それで、あんたは黙ってるの?」
「それが一番だからね」
「…脅さないの?」
「脅してほしいのかな?それとも、脅されたことがある?」
その言葉を聞いて、寛子は下世話な笑みを浮かべた男の顔を思い出した。
ゾッとした。
「そんなわけ!」
「それはそうと、あいつって?」
「…あいつなんて、知らない」
「言ったでしょ、さっき」
「言ってない」
「言わない、の間違い?」
「だっ、黙ってくれるっての、ありがと」
話を誤魔化した寛子に、クルツは苦笑する。
そんなクルツをいささか奇妙に思い、寛子は訝しげに彼を見つめた。
「正直、ホッとした」
今のところ、この男は見た目どおり綺麗なのだと、そう分かって。
「そう」
「…失礼します」
「気をつけて帰るんだよ」
その言葉を背に受け、寛子は部屋の扉を開けた。そうして一歩、外に出る。
「すべて脱ぎ棄て、魂だけの存在になれる?」
ふいにそう声をかけられ、寛子は怪訝な面持ちで振り返った。
「な」
なんですか、と言おうとしたが、阻まれた。
「そしてその魂を、僕にくれる?」
美しい笑みの中に見え隠れする悪魔的な、色のある頬笑み。
それを見て、寛子は何か危険な要素を孕んでいると直感した。
そしてなぜか、その美しさを通り越した微笑みに、デジャヴを覚えてゾッとした。