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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第五章
38/64

嵐のような放課後の翌日、藤宮寛子は朝のHRに出席しなかった。

平良はぽっかりと空いた彼女の席を見、思わずため息をつく。自分と顔を合わせづらいのだろうと思った。まあそれも、まだ自分と言う存在を認めてくれていたら、の話だが。




一時限目が過ぎ、二時限、三時限、四時限、と過ぎたが彼女は現れなかった。吉村香奈枝が平良の元に寄り、珍しいね、寛子が来ないなんて、と不思議そうに言う。平良は薄く笑い返すしかなかった。

昨日の出来事を言えば、香奈枝は平良を軽蔑するだろう。大声で怒鳴り始めるかもしれない。だが、平良としてはそれでも別に構わなかった。香奈枝に嫌われてもおそらく響かないだろうと分かっていたからだ。ただ、寛子との友情を壊してしまったことだけが気にかかり、事情を説明する元気がなかっただけの話である。平良はすっかり打ちのめされていた。


香奈枝も平良にとっては十分、他の女子とは違っていたが、寛子の友達になるくらいだからそれで当たり前だと思うだけで、惹かれるのは寛子だけだ。おそらく、自分は彼女が好きなのだ、と平良は気づいていた。もしもあの告白を彼女が断らなければ、もちろん賭けに勝ったことは喜んだだろう。だが、そのあとこれまで通り、「賭けだったんだ」と真実を話さずに、嘘の告白を本当にしてしまうつもりだった。


思い返してみれば、彼女といる自分は今までの自分には考えられない事ばかりだった。平良の優しさは上辺だけのものであるはずだった。しかし彼女が教室で泣いているとき、あの時の自分はどう考えてもおかしかった。優しくするのは好きだが、面倒事は嫌いだった。女の涙なんてものほど煩わしいことはない。仲間内では泣き顔がいいという者もいたが、平良はそうは思えなかった。だが、寛子が泣いていると知った時、放っておけなかった。むしろその顔をもっと見たいと思い、そこに留まった。


泣いていないと強がる彼女を、悪いと思いつつ、普段の彼女とにギャップを覚え、可愛いと感じてしまった。なんとか慰めたかったが、慣れていないからどうしていいか分からなかった。泣いている理由を探ろうとすることしかできず、思わずため息が漏れたほどだ。


涙を必死にこらえる姿をじっと見つめていた。

馬鹿みたいにドキドキして、触れたくて堪らなくなった。彼女が逃げ出すように立ち上がろうとした時、無意識にその腕を掴んでいた。触れた瞬間、熱い、と体温を感じてぞくりとした。


彼女が驚いたように自分を見た、その瞬間。涙が溢れる、と直感して、その泣き顔を見たいと思う自分の気持ちを抑え、ぐいと腕を引いて震える体を抱きこんでいた。凛とした彼女は強くありたいのだろうと、そう察したからだ。いきなり抱きしめた言い訳は馬鹿みたいで。


『…見られたくないと思って』


本心だった。

見えなくなっても、彼女が泣いていると他の五感が伝えてくる。

可愛い。可愛くて堪らない。どうしたらいいのだろうかと、両腕で抱きしめる。

抵抗はされなかった。気を良くして背を撫ぜた。


彼女が好きなのだとすると、全て納得がいく。授業中だと言うことも忘れ、平良は小さく苦笑していた。

あの告白にしても、どこかで焦っていたに違いないと思う。


(彼女が泣いているのが、嫌だった。俺の、知らないことで…)


そんな理由だ。

普段なら、そんなことで焦って行動するなど有り得なかった。







昼休みが始まり、平良は結局空いたままの寛子の席に視線をやったあと、昼食を買おうとその場を立ち上がる。ふらりと教室を出た。


購買に行くまでに、ちょうど下駄箱の横を通る。ぼんやりと廊下を歩いていた。何の気なしに下駄箱のほうを見やる。すると視界に、見なれた人物の姿が飛び込んできて、平良は慌てて歩みを止めた。

まさに今、靴を脱いで上履きに履き替えようとしている藤宮寛子がそこにはいた。


考える間もなく、平良はそちらへ向かう。寛子の反応など頭になかった。ただ、吸い寄せられるようにそちらに歩いていく。しかし、すぐ隣までやってきたとたん、何を言っていいか分からなくなった。「あ」という形に口を開けたまま、何も言えずに立ち尽くす。


寛子はつま先でとんとんと床を叩き、上履きを履く。

ふと顔を上げれば平良が立っている。


「おはよう」


寛子はそう言った。平良はハッとして彼女の顔を見つめる。彼の申し訳なさそうな顔とは逆に、寛子は無表情だった。平良は彼女の視線に戸惑う。そこには怒りも、悲しみも、当然ながら以前のような親しみもこめられてはいない。

ただ、そこにある物をふいと見やったような、冷たさも暖かさもない視線だった。


「ふ、藤宮さん。あの、俺」


何か言わなければ、と平良は慌てた。

一方の寛子は何の興味もなさそうに彼の行動を見やったかと思うと、まだ地面に置かれたままの靴を掴み、下駄箱に戻そうとする。カチャ、と扉を開いた。白い腕が、制服の袖から伸び、靴を下駄箱に入れる。平良はぎくりとした。その動作にではなく、彼女の白い手首に、虫刺されのような赤い痕を見つけたからだ。


一瞬で昨日の出来事が脳裏に蘇る。彼女の横顔、とりわけ唇に視線がいった。


「なに?」


その問いはまるで、ぴしゃりとかけられた冷水のようだった。平良は何か応えなければと視線を移し、またぎくりとする。首筋にも、同じような赤い痕。瞬時に手首に再び目をやると、赤い痕以外に、サッと一瞬だけ、痣のようなものも見えた。


「そ、の…痕、一体」


出てきた言葉は震えていた。嫌な予感がした。対する寛子は冷静だ。ついと指されたほうを見やり、何でもないように言う。


「ああこれ?朝から痒くって。刺されたみたい」

「え…?」

「寝ているうちに、何か所も。嫌になるわ」


ふふ、と笑みを零す寛子はどこか艶めいている。平良は動悸が激しくなるのを感じた。


「お昼、買いに行く途中だったんじゃないの?」

「あ、あぁ、うん」

「私は食べてきたの。朝起きたらびっくりしたわ。目覚まし時計が止まっていて。遅刻は嫌だったんだけど、起きられなかったんだから仕方がないわよね」

「そ、そうなんだ。あの、それで、藤宮さん、昨日は、その、ホントにごめん」


こんな謝り方では許してもらうなどできないだろう。そう思ったがとにかく何か言いたかった。平良は頭を下げる。寛子はくすくす笑いを零した。その声に平良は寒気を覚える。ハッとして顔を上げると、やはり寛子は笑顔だった。


「私こそごめんね、好き放題言って。びっくりしたでしょ」

「いや、そんな、あれは本当のことで」

「ううん。本当かどうかなんてどうでもいいのよ」

「え?」

「本当かどうかじゃなくて、あんなことを、言っても無駄なことを言って、余計な思いをさせてしまうだけだったわ」

「余計って、そんなことないよ。ちゃんと考えさせられた。今日、もしかしたら藤宮さん、来ないんじゃないかって心配で」


我ながら虫が良すぎる言い方だ、と平良は思ったが、それ以外にどう言っていいか分からなかった。


「その心配がね、余計なの」


寛子はにっこり、と笑う。目も、ちゃんと笑っていた。


「藤宮、さん?」

「いいのよ今さら心配なんて。そんなのかけてもらったところでもう元には戻らない。失くしたものは帰ってこない。過去はもう、購われない」


平良は分かってしまった。遅すぎたのだと。全て彼女はもう、諦めてしまったのだと。

彼女の浮かべる笑みはいつの間にか儚げなものに変わり、平良は自分の犯した罪を思い知らされた。


「いいのよ、悪いのは私だから」

「何言って、そんなことない。藤宮さんは悪くない」


せめて、と思い言い募る。悪いのは自分だ。だからそんな悲しい顔をしないでほしかった。そんな


(どうしてそんな、全部諦めたような顔を)


ぐっと胸が締め付けられた。


「気にしないで。ゲーム、だったんでしょう?」

「あ…」

「なら、楽しまないと駄目」

「ふじ、みや、…さん?」

「でも、あんまり楽しいゲームではないわね。友情を失い…恋を失い、何もかもを失って、敗者はもう、何もかも諦めなくちゃいけなくなる」


その視線はどこか遠くを見ていた。


「っ…!敗者は、敗者は俺だよ、藤宮さん。藤宮さんは、何も諦める必要なんてない。だから、そんな」

「――敗者かどうか、決める権利は君にはない」


静かに言うと、寛子は目を伏せる。

しばらく沈黙が続き、昼休みの喧騒がそれを覆い隠す。再び視線を上げた寛子は、また綺麗な笑みを浮かべていた。


「――なんて、ね。ふふ。ごめんね、平良くん。もうこれからは話しかけないでもらえる? クラスメートでも、男と話すと面倒なの」


やんわりと投げかけられた言葉はあくまで優しい声色だったが、内容は有無を言わせぬものだ。平良は何も言えなかった。じゃあね、と通り過ぎる寛子が小さく言う。

ありがとう、と本当に小さな声で続けた。


「―――っ!」


呪縛が解けたように、平良は勢いよく後ろを振り返った。だがすでにもう寛子の姿はない。

平良はただ、己の無力さに打ちのめされ、立ちつくすしかなかった。


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