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おそらく自分は酷い男なのだろう。
平良直人はそう自己評価を下しながらも、一方でそんな自分に酔いしれている節があった。
自分の容姿が周りにどう思われているか熟知している。外を歩けば自然と視線を引く外見だ。もちろん悪い意味ではない。
急に転校することが決まり、小学生時代からつるんできた仲間と別れたが、中学時代から始まった「賭け」は引き続いて実施されることとなり、今回も自分の勝ちだと平良は自信を持っていた。
自己紹介の時点からクラスの女子の視線は自分にしっかりと当てられていて、賭けは自分の勝ちになるだろうと予想していた。隣の女子に目を向けると、美人の部類に入るだろうが、とりたてて言うほどのこともない、いわゆる普通の女子がいる。これなら自分ほどの男に落ちないわけはない。
しかし、そう思ってにこやかに挨拶してみれば、何か考え事をしていたのだろうか、戸惑ったような返事をされ、その顔は紅潮してはいなかった。じっと観察してみたが、緊張しているのだろうと納得して微笑んだ。それから何度か観察してみたが、藤宮寛子という名の隣の女子は、やはり何かに気を取られている風だった。しかし大したことではないだろうと思い、早速行動に出た。
英語の教科書を貸してほしいと頼み、無事承諾を得た。もっといろいろ話をしておきたいと思ったのだが、彼女が去り、他の女子に囲まれた。とりあえず周りから彼女の好みでも探っておくか、と平良は思う。好きなものや彼女の有無や、とにかく、よくそれだけ質問事項があるなと聞きたいくらいの質問を浴びせられながらも、平良は抜け目なく藤宮寛子について聞きだすことに成功した。クラスでは成績優秀者として認識されているようだ。しかし、だからといってクラスメートから頼りにされる委員長タイプではないらしい。友達と呼べるのは吉村香奈枝だけで、他の生徒とはほとんど交流がない。普段何をしているかも良く分からない、とにかく謎が多く、周りもそれほど情報を持っているようではないらしかった。少し変わった女子なのだろう、と平良は解釈する。そしてあまり周りと関係を持ちたくないのだろう。先ほど英語の教科書を見せてほしいと言った時、どうも怪訝な顔をした。あれはそういうことだったのだ。
女子の輪の中からまた声がかかる。
「ねえ平良くん、ホントに彼女いないのー?」
平良は人好きのする笑みを浮かべ、応える。
「うん、いないよ」
――落とす相手は決めたけどね。
しかし、平良の「すぐに落とせる」という認識は甘かったようだ。
英語の授業が始まった途端、彼女の意識は現われた教師に向けられた。その瞳に点った熱は――おそらく、と平良は勘付く。自分も何度となく向けられたことのあるその視線。
少し嫌な予感がした。
その証拠に、いくらか話しかけてみたが反応がない。適当に頷きが返ってくるだけだ。
「藤宮さんさ、なんか落ち込んでる?」
そう問えば、怪訝そうな顔を向けられた。何に表情を曇らせているのかは分からないが、おそらくあの、英語教師が要因であることは間違いない。驚くほど容姿の整った男だ。芸能人と言われても納得してしまうに違いない。
「どうして?」
藤宮寛子はそう返してくる。
「いや、そうじゃないかって思っただけ。どうしてって聞かれると困るんだけど」
平良は苦笑する。まさか理由を聞かれるなどとは思っていなかった。せいぜい「そんなことないわ」とか「大丈夫よ」とあしらわれると想像していた。
「落ち込んでなんかいないわ」
藤宮寛子はきっぱりそう言いながら、かぶりを振る。その表情からは不安など一欠片も見てとれない。強いな、と直感的に思う。取り立てて美人と言うわけではないと思っていたが、こうして見てみると凛とした態度が妙に好ましく、媚びない視線には艶めかしさも含まれているようだった。再び堅く結ばれた唇をじっと見つめたあと、怪訝そうな彼女を見やる。
「ふーん。あ、じゃあさ、藤宮さん、彼氏いる?」
「…どうして?」
また、どうして、だ。
たった四つの音から構成されるその一言が、なぜか耳から離れない。
彼氏がいると聞かれたら、勘のいい子ならそれ相応に態度を変えてくると知っていた。だが彼女は本当に不思議そうに問う。
「それ、口癖?」
思わずくす、と笑いが零れた。面白いと思う。
「ただ、俺としては知りたかっただけなんだけど」
少し大胆に言ってみる。どうして知りたいか、と考えれば普通、導き出される応えは、「彼氏になりたいから」が妥当なところだ。藤宮寛子もさすがにピンと来たのだろう。まだ不思議そうな色を残していたが、小さく笑う。可愛らしい笑みでは決してない。どちらかといえば、以前街で誘った女子大生が浮かべるような、曖昧な笑みだ。
「知りたいって段階が一番楽しいらしいわよ」
ずばり、そう返してくる。あしらう様に、手の上で転がすように。慣れているようだ、と漠然と感じた。しかしまさか男慣れしていると言うわけではないだろう。気が強いか、流されない性格かのどちらかだ。
「知ったら面白くないって? 俺、知りたいんだけど」
会話が楽しい、と思った。
願いばかりを言ってくる女子とは違う。まるで自分が試されているようだ。
「知りたいなら、あそこにいる子たちがお勧めよ。知ってほしいって顔してる」
あそこ、と言って藤宮寛子が示したほうには、先ほどからちらちらと自分に視線を向け、早く席から立ち上がらないか見計らっている数人の女子がいた。そちらを見る気はない。見ても面白くないと分かっている。
「藤宮さんはそうじゃないってわけか」
「平良くん、かっこいいだけじゃないのね。物わかりもいいみたい」
そう思っていない顔で、彼女はにっこり笑いながらそうのたまう。駆け引きとまでは言わないが、その言葉にはどこかつんとした棘が含まれていた。
「マジびっくり。藤宮さんって、印象とだいぶ違うな」
おそらく、思ったことをそのまま口にしているのは自分のほうなのだろう、と平良は内心自嘲していた。藤宮寛子はついと周囲に視線を走らせ、笑顔のままで釘をさす。目は笑っていない。
「ねえ平良くん。驚かせたことは悪いと思うけど、だからって私を脅かさないで」
「脅かす?」
「あなたの顔がそんな風じゃなかったら、その心配はなかったんだけど」
「…ああ、そういうこと」
周囲を見、彼女の言わんとすることを理解して頷く。
「女子は怖いな」
「――理解したのなら、私があの子たちから水をかけられないうちに、私から離れて。誤解は面倒なだけよ」
誤解。そう反芻して内心で笑う。
誤解ではない。自分は本当に彼女を狙っているのだから。
「誤解、か」
平良は薄く笑う。
「あながちそうでもなかったりして」
冗談めかしてそう言い、平良はすっと席から立ち上がる。
藤宮寛子は黙っていた。何を考えているか分からない女だ。そしておそらく、一筋縄ではいかないだろう。しかし、簡単すぎては面白くない。
吉村香奈枝と対しているときの藤宮寛子は、通常よりずっと生き生きしていて、おそらくそれは吉村の存在がそうさせているのだろうと平良は感じた。同時に、近づくには吉村と同じようにするしかないと確信する。藤宮寛子は交流を嫌っているのではなく、その仕方を知らないだけなのだろう。自分のことを嫌いかと問えば、少し申し訳なさそうな顔をして、嫌いなわけではないと応えた。ただ付き合い方を知らないのだと。
「吉村さんと同じところから、俺も始めてみてもいい?」
我ながら思わず笑い出してしまいそうな提案だった。
ここに仲間がいれば、腹を抱えて笑っただろう。
「どういう意味?」
「まともに話す、ってところ。それを人は友達と言う」
友達、と言って、少し苦々しいものを感じた。
「ともだち」
そう繰り返す藤宮寛子は、初めて部屋から出た幼子のような不安げな顔をしている。
「そ、友達。俺のことを嫌いなら無理強いするつもりはなかったんだけどさ、ただ接し方を知らないんだったら、友達になってほしいなって思ったんだ」
友達になり、距離を近づけてから告白すればいい、と考えていた。
今から思えばそれは短絡的で、どれほど相手の気持ちを考えていなかったか。ただただ利己的な思考で、友情という輝かしいものを穢してしまうだろうということを、まだ分かっていなかったのだ。
藤宮寛子は平良の申し出を承諾した。一歩近づいたと思い、堪らず口角が上がる。
もしもこのとき感じた気持ちを、作戦が成功した喜びではなく、もっと別の感情だと分かっていれば。
(あんなことにはならなかった)
平良直人は一人、誰もいない教室の自分の席に腰かけていた。朝のHRはまだ先だ。昨日の放課後の出来事を鮮明に覚えている。彼女の唇の感触。完全に落とされた、という感覚。全身の火照り。そして虚脱感。携帯電話越しに聞こえる友の笑い声。そして自分も笑ったこと。
彼女の怒り。彼女の色を湛えた瞳。濡れた唇。舌の感触。
それがするりと解けて口の中から去り、顔と顔が離れるその一瞬に見えた、彼女の悲しげな顔。
彼女から放たれた怒りの言葉などほとんど聞いてはいなかった。言い返す気さえ起らなかった。振られたことなど頭になかった。違うのだ、と分かった。あの一瞬で、彼女がどうして告白を断ってきたのか理解させられた。
走馬灯のように、彼女と過ごした、友達としての日々が、時間が、頭の中を巡り巡り、漠然と楽しかったと思いだし、胸が締め付けられた。彼女と交わした言葉の一つひとつを覚えている。まさか、そんな些細なことを覚えているなんて、そう驚いたほどだ。
甘いものが好きな彼女。
美しい英語教師にあこがれている彼女。
クラスでほとんど孤立している彼女。
話しかければようやく笑い返してくれるようになった。平良くん、と呼ぶ彼女。
仕方がないわね、と呆れたような、照れたような、曖昧な笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を交わし始めてくれた彼女。吉村と話している彼女を見、自分ともそうなってくれればいいと―――
(――馬鹿だ。そう、思っていたのに)
友達になってほしいと、心から願うようになっていたのは、自分のほうだったのに。気づいていなかった。賭けのことばかりが頭を占めて、自分の気持ちに気づけないでいた。それどころか、
『楽しかったわ、友達ごっこ』
あんなこと、
あんなことを
(言わせて、しまった)
賭けに負けた自分がいた。しかし、そんな勝負、始めからなかったも同然だった。始めから、そう、友達になろうと言ったあのときから自分はもう負けていたのだ。負けることが決まっていた。
彼女を傷つけた。酷い男なんて、そんな言葉では言い表せないくらい、酷い。自己満足もプライドも、もっと早くに捨ててしまえば良かった。友情を、駆け引きに使うなどしてはいけなかった。何よりそれが欲しかったのは自分だったのに。彼女はそれを、与えてくれようとしただけなのに。
「……つ!」
平良は誰もいない教室で頭を抱える。
あのときの彼女の表情を覚えている。凛とした、美しい姿だった。




