2
どうしよう、ホントになっちゃった。
すっかり顔を青くてそう言った心配性の友人の顔を見ながら、藤宮寛子は苦笑を零した。
「そんなわけないじゃない。偶然よ、ぐうぜん」
「でも…事故にあっちゃえばいいなんて、言わなきゃよかった」
尚も不安そうな友人に、寛子はため息よりもむしろ笑いを零さずにはいられなかった。
「あんたが言わなかったとして、全校生徒が思ってたら大差ないと思うけど?寺門先生、いつ後ろから跳ね飛ばされてもおかしくないってほど、大人気だったでしょ?」
「寛子、それ笑えないよ」
「奇遇ね、私も笑えない。あいつ、まだ生きてる」
以上が、朝の全校集会が始まる前に、生徒たちの喧騒で満ちた廊下にて密かに交わされた会話だった。
藤宮寛子と吉村香奈枝。
二人は先日交通事故にあった寺門という英語教師が嫌いだった。もっとも彼は、女子を贔屓することから男子に嫌われ、嫌悪感を覚える脂ぎった顔とねっとりとした視線、「キモイ」の一言で片づけることが可能なその容姿のせいか、女子からも絶大な不人気を得ていたのだが、香奈枝は英語という科目も苦手としていたので、嗜虐心も兼ね備えた寺門の格好の獲物となってしまっていた。だから、つい耐えかねて、「寺門が事故にでもあっちゃえばいいのに」と言ってしまったのである。おそらく、多くの生徒がそう思っていたことだし、同じように呟いた者もいただろう。しかし、言った翌日に、冗談のように呪った相手が事故にあったと聞けば、いささか不安に取りつかれるものである。
いくら嫌いでも、事故にあってほしいと本気で願ったわけではない。ただ英語の授業がなくなりさえすればよかったのだ。結局寺門が不幸な目にあうのは確かだが、風邪を引くとか腹痛とか、香奈枝にはそれで十分だった。重体だと聞いて、真っ青になった。
一方の寛子は、そんな香奈枝の考えは生ぬるいと考えていた。寛子は口にはしないものの、寺門の死を誰よりも願っているという妙な自信を持っていた。これだけ憎んでいるのに、どうして死ななかったのだろうと不思議に思ったほどだ。英語の授業などどうでもよかった。寛子はただ、寺門に消えてほしかったのだ。この世から、消え去ってほしかったのだ。彼女にはそう切望する理由があった。
週初めのお決まりの全校集会では、寺門に代わる新しい英語教師を迎えたと、柔和な笑みを浮かべた校長が報告した。対応が早すぎるのではないかと思う者はだれ一人としていなかった。怪訝に思ったとしても、挿げ変える準備は出来ていたに違いないとあっさり納得できただろう。しかし、そのように思う者もだれ一人としていなかったかもしれない。誰もが壇上に視線を釘付けにして、新任教師の類まれなる美貌に見惚れていたからである。
「クルツフォートードと申します」
金髪碧眼の麗人は自らをそう名乗り、その容姿からはおよそ期待できそうもなかった驚くほど流暢な日本語で、着任できたことの喜びを簡単に語った。
広い体育館は、まるで静かなる海原のようだ。しんと静まり返って、誰もが美しい新任教師クルツの言葉に聞き入っており、いつまでも聞いていたくなるクルツの美声がまるで水面を撫でる波紋のように、絶妙な合間を取って響いていた。皆が美声に酔いしれる中、やはり惚れ惚れとしながらも、寛子はこの人どこかで会った気がする、と感じていた。
しかし、いくら考えても思い出せないし、そのような記憶は彼女の頭の中にはなかった。会った気がするなんて、まるで古臭いナンパの常套句だ。もし仮にそうだったとしても、平凡な自分とは何の関わりもないだろう。あの教師がどこまでも光り輝く存在ならば、私はどこまでも闇に堕ちていく、薄汚い女なのかもしれない。そう思い、寛子は心の中で自嘲気味に笑った。
夜。
寛子はしばらく足が遠のいていた夜の街に、大きく胸のあいたワンピースを着て立っていた。明るいネオンが闇を締め出し、猥褻なチラシの派手な文字列が地面を彩っている。壁には悩ましげなポーズを決める女たちの肖像が所狭しと並べられ、それらをじっと品定めるように見つめる男もいれば、馴れた様子でちらりと目配せ、さっさと地下への階段を下りていく者もいた。
そんな眠らぬ街の様子は、何度見ても見飽きることはなかったし、退屈させると言うよりもむしろ、寛子の気持ちを高揚させた。この街にいれば、人の生、その原始的な最底辺まで落ちていけると思っていた。愛すら、いや、愛を筆頭にした何もかもが、ここでは全て虚構なのだ。何も求めることはない。ここでは、何も求める必要がないのだ。
しかし、この街は彼女の両親も、友人でも与えてくれない何かを与えることができた。決して愛ではない。友情でもない。温もりだ。誰かとの直接的な触れ合いと、そこから得られる温もり。生きていると感じられる唯一の方法。
「久しぶりだね」
ふらりと入った店の中は薄暗かったが、寛子は迷うことなく、カウンターで一人飲んでいた中年の男の隣に腰かけた。男は少し驚いたようだったが、安堵のような溜息をつき、寛子の顔をじっと見つめた。
「久しぶりなんて、そっけないのね」
「好きなんだよ。十分だろうが十年だろうが、久しぶりってそう言うと、新鮮さと懐かしさが同時に味わえる。違うかい?」
「…三か月。三か月よ。気が狂いそうだったわ、その間」
「そんなにしたかったのかい?ふふ、もうすでに狂ってる」
「狂ってる?冗談でしょ。熱中してるだけ」
「何にしろ、積極的なのは大歓迎だ。ああそう言えば、例の積極的な彼はどうしたんだい?」
「意識不明の重体」
「なかなかスリリングだ」
「私じゃないわ」
「そこまで大胆になれる君も悪くはないと思うね」
「冗談?」
「冗談さ。愛しい君が檻の中なんて、考えただけで体が震える」
「病院に行った方がいいわね。それ、きっとお酒の飲み過ぎよ。…ねえ、手が震えてる」
「君に会えた喜びでね」
寛子はやんわりと、薄い笑みを浮かべた。その目には、すでに欲望の火が点っている。
「行こうか」
と男が囁いた。寛子は頷きはしなかったものの、男をその場に残し足早に店を出る。勘定を払って出てきた男にそっと腕をからませ、ニッと笑った。男は寛子の数ある相手の内の一人に過ぎなかったが、中でも分をわきまえていて、現実を感じさせない男だった。余計な干渉はしない。それが、寛子が互いに課したルール。
ホテルに入ると、男は決まって先にシャワーを浴びる。その間に寛子はカバンから制服を取り出し、それを身につける。それを床に落としていくことが、男の何よりの望みだった。簡単にいえば、男が寛子に望んでいるのはそれだけだった。寛子という存在は付属物にすぎない。――それでいいのだ、たぶんきっと。だからこそ、自分という平凡な存在が、この場に立っていられるのだから。それ以上望むのはナンセンス。馬鹿げたことだ。
「準備はできた?」
と尋ねる声がした。
男が浴室から出てきたとき、それが夢の始まり。快楽に彩られた、虚構の幕開け。
第一回目の英語の授業は、予想以上に好評だった。
教師の美貌が目の保養になるということを抜きにしても、このクルツフォートードという男の授業は分かりやすく、生徒たちの心を鷲掴みにした。寺門の授業など思いだす価値もない、そんな風だ。英語の授業を何より嫌悪していた香奈枝はというと、教壇に立つ、麗しいクルツの姿にうっとりと視線を向けており、いつだっておどおどと身を強張らせていた彼女とはとても思えなかった。
常々そういう態度が寺門の嗜虐心を煽るのだと、寛子が口を酸っぱくして忠告したにもかかわらず、頑なにその態度を変えようとしなかったのに。
寛子は少し、苛立ちを覚えていた。現金なものだ。香奈枝の顔に、寺門が戻ってきたら、という恐怖の色はまったく見えない。それなのに自分は、未だに寺門の存在に怯えなければならない。本当にあの男、死んでくれればどれだけよかったか。寺門が目覚めれば、きっと戻ってくるに違いない。あのろくでなしは理事長の息子。寛子は理事長を見たことがなかったが、きっと息子と同じような、女の尻を追いかけまわす迷惑な男だろうと思っていた。ああ、理事長の職を得たのは、きっとその莫大な財産のおかげ。それだけだ。たとえ新任教師がどれだけ生徒から人気を得たとして、それが何になるだろう。良い就職先を用意するから、そう言われれば喜んで生徒たちを悪魔の手に引き渡すに違いない。
新任教師、クルツフォートードは確かに、寛子の眼から見ても美しい男であったが、スクリーンの向こう側にいるならまだしも、身近に「一般人」として存在することが、寛子には気に食わなかった。同じ世界の人間ではないと思えば我慢がきく。しかし、同じ世界の住人と知れば、ますます自分に幻滅してしまうのだ。加えて、これまで「美形」な人間と関わってろくな目に会ったことがなかった。彼らは平穏な日々に破滅をもたらし、自分の平凡をせせら笑うのだ。
この新任教師、クルツと呼ばれて美しい笑みを浮かべるこの男――できれば関わり合いになりたくない。寛子はそう思っていた。
(いっそのこと、あの雲になれたら。青い空をどこまでも、…どこまでも、遠くまで流れていけたら)
「藤宮さん」
ぼんやりと窓の外を眺めていたら、ふいに名前を呼ばれた。寛子はハッとして身を固くする。驚きの表情で窓から視線を外すと、次に見たのは新任教師の美しい顔だった。もう名前を覚えたのか、と辟易した。
「僕の授業、つまらないかな?」
困ったように笑う顔も美しい。
嫌だ、この男。見ていると嫉妬で落ち着かない。寛子は息をのんだ。
「え、いえ、そういうわけじゃなくて…」
「藤宮さん、英語できるからねー」
と生徒の一人が言った。クルツは意地悪くそう言った生徒を一瞥し、「それは良いことだね」と笑顔を返す。嫌味が通じなかったのだろうかと生徒は赤面し、そのまま黙り込む。
「それなら、英語が得意な藤宮さん。君は今日から英語の係になってもらえるかな?前任の先生はどこまで、どのように進めてらっしゃったか教えてもらえると助かるんだけど」
「え…?」
あまりに突然の申し出、というより迷惑な申出に寛子は困惑する。
「えーっ、どうして藤宮さん?」
と先ほどの生徒が声を上げた。
「彼女は英語ができると、そう教えてくれたのは君だったね、たしか」
たしか、の部分が少し嫌味に響いたのは気のせいだろう。寛子は実際クラスの中でも特に英語が得意だと認識されていたので、異議を申し立てる声はどこからも上がらなかった。
「まあ、係というのはまた別の話だけどね。とりあえず、進み具合をあとで教えてもらってもいいかな?」
「え、えぇ、まあ」
それくらいなら、と寛子は曖昧に頷いた。出来れば目立ちたくなかったし、話しかけられたくもなかった。
ああ、よそ見さえしていなければ。