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「嫉妬?」
クルツフォートードは藤宮寛子の言葉を繰り返した。まるでその単語がどこか全く知らない国の言葉のように、聞こえた音を発しただけだった。すぐに言葉と意味が結びつかず、彼は放った言葉の余韻を何度も頭の中で反芻していた。
――それ、嫉妬ですよ。
寛子がそうあっさりと放った言葉。昨夜から頭痛がひどくて、咳が出て、熱っぽいんです。すると医者が、「それ、風邪ですよ」。まるでそう応えた風だった。自分にとって身近な出来事を、淡々と、事務的に語る。
「…嫉妬って、あの、嫉妬?」
だからすぐに理解できなかった。まるで、あなたの状況は私には特別関係ないと、興味がないと線引きされたように感じたのだ。
「それ以外何があるんですか」
寛子はさも可笑しそうに笑った。
「その人の隣にいるのは自分でないと嫌、ってことでしょう?だから他の人がいると嫌なんです。苛々、するんです」
「……」
寛子の言葉は説得力があった。自分が感じていた苛々が嫉妬だったとすれば、全て納得できる。眼から鱗だった。クルツは状況を省みて、半ば呆然としていた。
「知らなかったんですか?」
寛子は目を丸くする。その表情は少し怪訝そうでもあった。
「…一度も感じたことがなかったから。そっか、これが嫉妬なんだ」
嫉妬していたことを自覚する、というのはなんとも妙な感じだった。
嫉妬という言葉は知っていた。自分に群がる女たちはそういう感情を抱えていたことも僅かに察していた。外見を美しく飾った女であっても誰であっても、一度嫉妬に取りつかれれば醜く浅ましくなっていた。しかし、彼女たちの心など知らない。相手を蹴落とそうとし、自分の心を掴もうと必死になる彼女たちの想いなど、知りたいとも思わなかった。
だが、これが嫉妬か。
この苦しい気持ちが、彼女たちの心の内にあったのかと思うと、彼女たちの行動の意味が、少しだけ分かったような気がした。少なくとも彼女たちは必死だった。自分と言う存在を求めて、必死だったのだ。
「…羨ましいですね」
しばらくクルツを見つめていた寛子は苦笑する。クルツは彼女の表情を見て、昨夜悪友が同じことを言った姿を思い出す。はたして羨ましいのだろうか、と思った。これまで嫉妬という感情を覚えなかった自分は、羨ましがられる存在なのか。
「そうかな」
「でも、ちょっと寂しいですよね」
「どうして?」
「嫉妬をするのが初めてだってことは、それほど相手を想ったことがなかったってことですよね」
寛子の瞳は潤んでいるように見えた。
もしもそこから涙が溢れたら、その涙は甘いだろうか。ふとそんなことをクルツは思う。その涙は綺麗だろう。潤んだ瞳に自分の顔が映っているのを見ただけで、彼は甘い誘惑に吸い寄せられたい気持ちに駆られた。
「それってつまり、先生は、――今まで一度も、本気の恋をしたことがなかったって、ことですよね」
寛子の言葉は続いていた。
「本気の、恋?」
「そうです。どうしたらいいか分からないくらい、本気の、恋」
言葉に含まれる激しさとは裏腹に、寛子の声色は落ち着いていた。
薄らと笑みを浮かべた様は、何かを諦めたような、或いは憑きものが落ちたようだった。触れれば一瞬で霧散してしまいそうな儚さがあった。
「…君は、それを、知っている?」
クルツの問いに寛子はゆっくりと頷いた。どうしたらいいか分からないくらい、と言った寛子の言葉が脳裏を過る。そんな風になるくらい、彼女の気持ちが動いたという事実に苦しさを覚えた。
「そっか」
彼女が本気の恋をした相手の存在を想うたび、胸の中に激しく気持ちが揺れ動いた。ずくずくと、火傷の焦げ痕を更に酷くする。それが何なのか、今の彼は知っていた。
(あぁ、これが、嫉妬か)
初めて覚えた嫉妬という感情。それがどうして起こったか。
自覚した途端、どうして気が付かなかったのかと情けなく思う。
本気の恋をしたことがないのだと寛子は言った。
あぁそれなら、嫉妬を覚えた今、彼は。
「そう…知っているんだね。それは、今も?」
寛子は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた薄く笑って頷いた。
「ええ、今も」
ちり、とまた一つ火傷が増えた。彼女と楽しげに話していた男の顔が思い浮かぶ。彼女のことが何も分からない。今、この瞬間、その心に誰を想っているか知ることができればいいのに。そうすれば、もしかすると、諦めもつくかもしれないのに。
―――ようやく自覚した。
彼女が好きだ。
―――僕は本気の、恋をした。
そして思い知らされたのだ。
苦い初恋の、始まりを。




