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公園のベンチにただ一人、ぽつんと寂しげに座っている人を見かけたのは何度かあった。
あまり広くない公園にはいくつかベンチがあるが、茂みに隠されるようにひっそりと置かれたそのベンチに座るのは、老人なり、疲れたサラリーマンであり、孤独、或いは寂寥を纏った人が多かった。
本を片手に、それを開くわけでもなくただぼんやりとそこに座っている自分を省みて、藤宮寛子は苦笑する。
一人きりで部屋にいることが耐えられなくて、寛子は休日こうして家の近くにあるこの公園を訪れる。
意味もなく歩き回ったり、ブランコに座ってみたり、ベンチに座って本を読んだりするのだ。しかし、茂みに隠れたベンチに座ったのはこれが初めてだった。子どもにとって魅力のない寂れた公園に人が訪れることはほとんどなく、わざわざそのベンチを選ばなくとも他のベンチが空いている。茂みで周りから隔絶されたその場所に座る理由はなかった。
少なくとも、昨日までは。
背中に回された腕の温度をまだ覚えていた。はっきりと、背骨をなぞるように撫でる手の動きを思い出す。あのような温かさに縋ったのは久しぶりだった。よほど飢えていたのだろう、と他人事のように思う。
寛子が件のベンチに座った理由は、平良の腕の温度を思い出し、気恥ずかしくなったからではない。自分の中に堆積する分厚い成分不明の地層から、「後悔」という重々しい感情を発見したからだった。過去を無かったことになどできない。自らを貶めた自分の行動は簡単に忘れることなどできない。恋を理由に、激しい感情の迸りを理由に消すことなどできないのだ。
美しい教師の顔、愛しい彼の顔を思い出すたび、綺麗な姿を脳裏に呼び起すたび、その隣に並びたいと叫ぶ自分がいた。しかし一方で、汚れた自分など到底及びもしない位置だともう一人の自分が罵る。
それでも好きだ。先生が好き。
どうしたらいいだろう。どうしたら、この気持ちは報われる?
いや、報われることなどない。気持ちを抱くことこそ罪なのだ。
そう分かっているはずなのに、止められない自分が憎い。
――先生が好き。
感情がぐるぐると終着点のないレール上を廻っていた。部屋ではないどこかで一人きりになりたかった。だから寛子はこの場に座ったのだ。
しばらくそんな風にして過ごしていた。考えることは堂々巡り。進歩はない。一筋の光さえ見いだせない。
もしここで親友にでも相談すれば、「告白しなよ、当って砕けちゃえ」とでも言うかもしれない。確かにそれは解決策の一つだが、寛子には香奈枝に相談することさえ憚られた。香奈枝は何も知らない。寛子が夜の街に出入りしていたことも、そこで「制服」として自らを差し出していたことも。
何よりも、そんなことを話して香奈枝が自分の側から去ってしまうかもしれないと思うと、行動などとてもできなかった。香奈枝との友情は温かく、心地よい。それがたくさんの秘密の上に成り立っていたとしても、失くしたくない関係だ。
ちら、と平良を思い出した。しかし、駄目だとすぐに首を振る。彼だって知らないのだ。それに、もしかすると、と寛子はどこかで期待していた。香奈枝との関係と同様、平良ともそんな穏やかなものを築けるのでは、と。
秘密を抱えれば抱えるほど孤独になる。しかし秘密を放り出せば更に深い孤独に陥るだろう。それならば今のままでいい、と寛子は思っていた。この場所は私にお似合いだと彼女は思った。
「あれ、藤宮さん?」
ざり、と靴底が砂地の上を滑る音がして、寛子はハッと俯いた顔を上げた。そこには寛子の想い人、クルツフォートードその人が立っていた。彼は寛子が顔を上げたのを見とめると、どこかホッとした様子で近づいてきた。寛子はただ目を見開くばかりだ。
「久しぶりだね」
そうか、彼からすると久しぶりなのか、と寛子は思う。彼女にしてみれば昨日の今日だ。
「お久しぶり、です」
平静、と三回心の中で呟き、なんとかそう返す。クルツはにっこりと笑って、隣に座ってよいか、というようなジェスチャーをした。寛子は頷く。頷くことしかできなかったのだ。クルツは嬉しそうに隣に腰かけた。
「いつもここに?」
「休日は」
「そう」
クルツは満足げだった。彼は随分とラフな格好だった。白いシャツに淡い色味のジーンズ。いかにも、休日散歩にふらりと出てきた人、という出で立ちだ。
「久しぶりだって思ったのは、最近藤宮さんが来ないからだね」
なんとなく妙な言い方だったが、クルツは相変わらずの笑顔だ。寛子は怪訝に思いつつ頷いた。
「…あんまり行くと、迷惑かなと思って」
ふいに英語科準備室でのあの出来事が思い浮かんだ。迷惑云々よりも、あの手の出来ごとにまた遭遇しそうで怖い。
「迷惑ってそんな」
クルツは小さく笑った。
「そんなことないよ。いつでも来て。あ、お菓子と一緒にね」
その一言に寛子の心は浮上する。単純だ。社交辞令もいいところなのに。
「あは、じゃあまた今度作っていきますね」
「待ってるよ。ありがとう」
クルツの言葉は寛子の心に直接触れてくる。一つひとつが嬉しい。それが例え表面上だけのことでも、好きな人から待っていると言われれば嬉しくなる。期待もしてしまう。望みなどなくても。
「…先生は、優しいですね」
ふとそう思った。のんびり過ごすはずの休日に、ふと見かけた生徒に声をかけて、すぐに「また学校で」とでも言えばいいのに、隣に座って会話をしてくれる。言葉の一つひとつが優しい。何もしていないのにありがとうなんて、ずるい。
「…優しいっていうわけではないよ」
「優しいです」
「そんな風に見えるだけかもしれない」
「仮面を被ってるってことですか?」
「仮面…そうかもしれないね」
「今も?」
「え?」
クツルは瞠目した。
「今も、つけているんですか?」
「つけていないよ」
クルツは儚げな笑みを見せた。少し寂しそうなそれは、寛子に「嘘をついてはいない」と示しているようだった。
「――ほら、やっぱり優しい」
寛子はふわりと笑う。久しぶりに笑ったような気がした。嬉しいという感情がこみ上げて、好きだという愛情を押し上げて、二つが混じって笑みとなった、そんな風だった。
クルツはそんな寛子をしばらく呆然と見つめていた。それこそ、寛子が不可解な沈黙に動揺してしまうほど。
「先生?」
「…あ。いや、ごめん。あ、それで、最近どう?」
「…私、変わるって言いませんでしたっけ」
膨らんだ気持ちが一気にしぼんだ。最近どう、という言葉が、最近は大人しくしているかと聞かれているように思えたからだ。
「…いや、そういう意味じゃないよ」
「………」
後悔が押し寄せるのを感じて、寛子は少し泣きそうになった。
「………」
「……先生は?」
「え、僕?…あぁえっと、そうだね。元気だよ」
「元気って言う割には浮かない顔ですね」
寛子は小さく笑う。クルツはちらと横目で寛子を見やり、苦笑した。
「…自分が、よくわからないんだ」
「…どういう、ことですか?」
「…ある人、に関してなんだけど」
「ある人」
瞬時に寛子の脳裏に浮かんだのは綺麗な国語の教師。
「…苛々するんだ」
「苛々ですか、その人に対して?」
「いや、その人の側に誰かがいると…無性に」
「…先生以外の人が?」
クルツは頷く。
「…それって、その人の側に誰か自分以外がいるのが嫌だってこと、ですよね」
「そんな、そうかな、そんな感じ」
寛子は知っていた。そんな感じ、を。
自らを締め付ける解けない鎖の戒めを。
「それ、嫉妬ですよ」
そう言った寛子は、もうここからさっさと逃げ出して、部屋の中で泣き喚きたくて仕方がなかった。自分が放った言葉に、吐き気がした。




