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泣くたびに、これはきっと一生分の涙だ、と思う。
藤宮寛子は、泣くときはいつだってそういう泣き方をしてきた。無理やりにでも泣く。そうすれば、心にたまった薄暗い感情も、苦しみも、全て吐き出せると信じていたからだ。
ただ現在、これは多分一生分には到底満たないだろうと彼女は思っていた。おそらくきっと、自分は今日の夜も、明日も明後日も、沸き起こった暗い感情が自分を苛むたびに泣くだろう。いつまで泣き続けるのか想像もつかない。胸の一部が抉り取られたように感じた。
どうしようもないほど好きになっていたのだ。涙が落ちるたびに思い知らされる。これまで、簡単に蓋ができるような恋しかしてこなかった。いや、それは恋ではないのだ。恋だと思っていただけで、一時の感情の高ぶりに過ぎなかったのだ。
だが、今自分は恋をしている。紛れもない恋だ。どうしてそう思うかなんて愚問。恋だ。これはまさしく恋。感じたことにないくらい巨大な感情の塊が全身を揺さぶる。これを恋としないなら何を恋とするのか。
理由なんて後でいい。今はただ、運命的とさえ思えたこの恋を、恋だと見とめて身をゆだねるだけだ。どうしようもないほど惹かれた。だからこんなに打ちのめされている。だからこれほど涙が出る。あとどれくらい泣けば止まるだろうなんて予測が付かないほど、後から後から流れてくる。
(私は何を間違ったの?)
不意にそんな問いが脳裏に浮かんだ。自分は過ちをたくさん犯してきた。自分が何を求めているかわからなかったせいで、色んなものを失った。だけどもう少し、もっと早くにクルツに出会っていたのならば、もっとずっと前に好きになっていたらどんな風に違っていただろう。自分の過去が這い上がってくる。
そうか。この得体のしれない恐怖は。
(先生のために、変わりたいと思った)
それでもそう決めたからと言って、過去が突然清算されるわけでもなければ、消し去ってもらえるものでもない。自分は過去に取りつかれている。過去に縛られている。寛子はこの瞬間にそう悟った。
(…私、先生への想いと一緒に、過去に対する激しい後悔にも蓋をしようとしていたのね…)
なぜあんなことをしてしまったのだろう。どうしてその過ちに気が付かなかったのか。あんなことをしても、欲しいものは手に入らないとどうして思わなかったのか。過去の自分はどうして、自分をあんなにも汚してしまうことを許したのか。
這い上ってきたのは自分への嫌悪だった。激しい後悔と一緒に恐ろしい形相で寛子を見つめている。
じっと、みつめている。
がらり、と教室の扉が開いた。
寛子はまだ自己嫌悪の嵐の中に蹲っていた。扉に背を向けて座り込んでいるので、扉を開けた何者かからは、彼女の涙でぐちゃぐちゃになった顔は見られない。
「あれ」
と聞きなれた声が教室内に響く。その声でようやく寛子は我に帰る。もう校内に残っている生徒は疎らで、教室に誰かが入ってくるなど思いもしなかった。
「藤宮さん?」
確認するように寛子を呼んだ声は、間違いなく平良直人のものだった。
(う、そ)
ぎょっとした。
「藤宮さんだよね?え、どうしたの、そんなところに座り込んで」
明るい声だが、心配そうな色が混じっている。寛子は振り返ることができなかった。元来、泣き顔を人に見られるのは好きではない。驚きで涙は止まっていたが、いつまた溢れだすか見当もつかない。
そうこうしている間に、平良は寛子の正面に回り込んでいた。彼女の顔を見た瞬間に驚きに目を丸くする。素早くしゃがみ込んだ。
「藤宮さん、泣いて、る?泣いてるよね、え、どうし」
「泣いてなんかないわ」
素早く寛子が否定の言葉を滑り込ませた。サッと顔をそむけ、ぐず、と鼻をすする。
「泣いてるじゃん、なんで?何があったの?」
そんな問いを向ける平良の表情は険しい。真剣そのものだ。
「…なんでもない」
「なんでもないことで泣くような人じゃないでしょ、藤宮さんは」
「あんたに私の何が分かるのよ」
そんな寛子の応えに、平良は溜息をついた。
「…何かあったんだよね」
「何もないわ。そう言ってるじゃない」
「じゃあどうして泣いてるわけ?」
「泣いてないったら」
「……」
このまま同じ質問を繰り返しても押し問答になるだけだと理解したのだろう、平良は再び小さなため息をついて、じっと寛子の顔を見つめるに留めた。
一方の寛子は今にも涙が溢れそうで逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。いつ溢れるかは分からないが、溢れそうなのは分かる。一人きりで自己嫌悪の泥中にいたときとは違い、今は近くに人がいる。それが平良であっても、暗い一人きりの思考の世界に蹲るよりはずっと安心できた。その安心感も手伝って、涙の防波堤は今にも決壊しそうだ。
どうしてここに平良がいるのだろう。用事があったのならすぐに終わらせて帰ればいいのに。それよりも、放課後なのだから生徒はさっさと帰ればいいのに。自分のことは棚上げし、やや理不尽な思いを巡らす。
(あ、だめ)
決壊しそうだ。わかる、それだけは分かる。
平良が帰ればいいのに。どうして帰らないのだろう。今すぐ逃げ出したい。泣き顔なんて見られたくない。
思いが行動に変わる瞬間は速かった。逃げようと思い立った次の瞬間には、寛子はその場から立ち上がろうと床に手をついていた。しかし彼女は立ち上がることができなかった。いや、許されなかった。床についた手を、平良がぎゅっと掴んでいた。
(なに、なんなの、どうしてよ)
もうわけが分からない。どうして立ち上がれないのとか、どうして手を掴んでいるのとか、逃げたいのに逃げられないし、泣き顔を見られたくないのに涙が溢れだしそうな状況。もうわけがわからない。混乱状態に陥った思考回路は、あっさりと涙のストッパーを解除した。決壊した。しかし、その泣き顔は平良の視界に入らなかった。
(え)
掴まれた手をぐいと引かれて、寛子は平良の胸に飛び込んでいた。トンと柔らかく包みこまれ、背には腕を回された。掴まれた手は自由になったが、両腕でしっかりと抱きこまれているので、今度は体の自由が奪われた。
「…見られたくないと思って」
耳元で平良がそう呟いた。これなら見えないだろうと言いたげだった。だけと、嗚咽の音は聞こえるし、鼻をぐずる音だって聞こえる。泣いているのはバレバレだ。
「ごめん、どうしたらいいのか、わかんなくてさ」
立ち去ればよかったのだ、と寛子は心の中で返した。ダムは決壊して依然放水を止めない。
「嫌だったら、言ってくれたらいいから」
ゆっくりと背骨をなぞるように、平良の手が背を上下した。撫でられているのだと思考の端で感じる。嫌ではないと寛子は思った。ただ、たじろぐほど温かくて、いよいよ涙は止まらなくなってしまった。
慣れない温かさが、傷に沁みた。




