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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第四章
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胸に覚えた小さな痛みに名前を与えるとしたら、それは多分、「嫉妬」。

どこか他人事のようにそんなことを思ったあと、藤宮寛子は一種の罪悪感のような重たい感情を覚えずにはいられなかった。


思い出すのは、美人と定評のある瀬戸先生と並んで歩く想い人の姿。脳裏に呼び起すたびに胸が痛む。そのたびに、「嫉妬だ」と思う。美男美女でお似合いの二人、という使い古された台詞が良く似合う光景だった。もし瀬戸先生の位置に自分がいたら、と当たり前のように思考してしまう自分が、寛子は嫌で堪らなかった。想像したって惨めなだけだと分かっているが、嫉妬せずにはいられない自分。まるで語彙をそれ以上知らない子のように、「嫉妬」という言葉を当てはめる自分。嫉妬をするなんて、身の程知らずもいいところかもしれない。あんなに綺麗な二人が並んで歩いているのだから、「凄く綺麗、いいなあ、私もあんなふうになりたいなあ」と頬を赤くして見つめるだけに留めておけばいいのだ。自分は良い生徒になると決めたのだから。


(そうはいっても、コントロールってどうしてこう難しいのか)


まさに堂々巡り。いくら良い生徒になると決めたからといって、すっぱり感情の切り替えができるほど、寛子の心のコントローラーは性能が良くなかった。


(しかもこんなの作っちゃって…)


寛子はそっと自分の手に視線を落とす。そこには綺麗に透明の袋でラッピングされたクッキーが握られていた。もちろん彼女のお手製の品である。色々と決意したものの、たいてい行動は伴わないものである。何かしていないと落ち着かなかった寛子は、生徒の姿も疎らになった放課後、こうしてお菓子を手に、久々に英語科準備室に向かっている。目的は麗しい英語教師、クルツフォートード。


正直何を期待してお菓子を持っていくのかは、彼女自身もよく分かっていなかった。ただ、ここのところずっとクルツに会っていなかった。


(…ただ、会いたいだけよ。生徒が尊敬する先生にクッキーを渡す。ぜんぜん不自然じゃないわ)


状況設定を頭の中で何度も繰り返す。そうしないと不安なのだ。


(…喜んでくれたら、それだけでいい。美味しいよって、言ってもらえたら、私はもっと頑張れる)


一歩一歩、なんども自分を励ましながら進む。そしてとうとう、寛子は英語科準備室の扉の前に立っていた。扉を開けようと、そっと手を取手に伸ばす。しかし、中から聞こえてきた声に、寛子は思わず体を震わせ、指先まで硬直してしまった。


「――――だから、いつにするって聞いたのよ」


聞こえた声は瀬戸のものだった。どうして国語担当の瀬戸が英語科準備室にいるのか、などという疑問は寛子の中に起こらなかった。もちろん、どうして丁寧語でないかという疑問も。考えるより先に、瀬戸がいるという事実に全身が震えた。


「…いつ、とは?」


先刻授業で聞いた心地よい声色が、瀬戸にやんわりと応答した。その声は、先刻聞いたよりもずっと硬質だったのだが、寛子はそんなことに全く気が及ばなかった。


「ふふ、やだ、今度はいつ会うかってことよ。ホテル、今度は私がおさえておくわ」


その言葉は決定的だった。扉一枚隔てた向こう側にいる二人がどのような関係かを思い知った。たとえ寛子が本当にただの「良い生徒」であっても、それは相当な衝撃を与える事実だろう。寛子は後ろから殴られたような痛烈なショックを感じた。二人はそういう関係だった。その事実が、まるで天啓のように寛子の頭に降ってきた。一瞬で彼女を真っ暗な渦の中に叩きこみ、全身の力を奪い去ってしまう。呆然自失として、自分が立っているかどうかさえ分からなかった。


彼女を現実に引き戻したのは、力の抜けた手から落ちたクッキーの袋。


「…っ」


床に落ちたそれを見て。中で砕けたクッキーを見て。彼女を支えていた何かがガラガラと音を立てて壊れていくような気がした。ここにいてはいけないと誰かが叫ぶ!警告する!

立ち去れ!

危険だ!

這い上がってくる得体のしれない恐怖。黒い靄が足元から滑るように体を覆っていくような、じりじりと迫ってくる抗いがたい嫌悪感の様な。

危険だ!

立ち去れ!

寛子は踵を返して走り出した。一度も振り返らなかった。その表情は蒼白だった。涙はない。ただ機械的に手足を動かし、床を蹴り、一刻も早く立ち去らなければならないという内からの命令に突き動かされていた。

走って、はしって、走って、はしって、はしって、走って。





「ホテルですか?」


彼は次の授業で使うプリントを作っていた。視線はずっと紙の上だ。


「ええ」


クルツの口から放たれた言葉に興奮を覚えたのか、瀬戸の瞳は艶めいていた。うっとりと媚びるような視線を向けているだろう彼女を容易に想像して、クルツは途方もない気持ち悪さを感じていた。

一度の過ちをなかったことにしようと処置を施したのだが、どういうわけか――瀬戸のクルツへの思いが強かったのだろうか――、過ちの事実を彼女から消し去ることはできなかった。対処の方法は他にないことはないが、まだ特に実害は出ていないので、我慢をすることにして放置している。そういうわけで、クルツは自分のものだと勘違いした彼女は、しつこいくらい二人きりになろうと画策し、彼を誘うのだった。

完全なる失態だ、とクルツは内心で深いため息をつく。過去にこうして、一時の感情のために動くことなどなかった。ましてや男女関係を結ぶという面倒なものは特にだ。自分がさっぱり分からない。


「ねえ、クルツ。聞いてる?」


しつこいのもあるが、この馴れ馴れしさも頂けない。自分がまいた種なのだから仕方がないのだが。さて、どう応えようか。彼としてはもう二度と瀬戸と関係を結ぶつもりはなかった。嫌われてあれこれ吹聴されても困る。しかし、あの夜のことは忘れてください、すみませんと誠心誠意謝ったとしても、「無理よ、償いのために付き合いなさい」と言われかねない。瀬戸はそういう女に違いない。


「えぇ、ちゃんと」


聞いていますよ、と応えようとしたその時。軽快な着メロが英語科準備室に鳴り響く。


「あら、私のだわ」


瀬戸は携帯をスーツのポケットから出し、断りもないまま通話ボタンを押した。そのまま応答する。なにやら急ぎの用事だったようで、彼女は携帯の電源を切るなり、クルツに申し訳なさそうな顔をした。クルツとしてはホッとした事態だ。


「戻らなきゃ」

「えぇ」


そう言って、とりあえず笑みを浮かべるクルツ。どうして別れるのに笑顔なのと思ったのだろうか。瀬戸は少し不満げな顔をしていた。しかしよほど急ぐ用事だったのだろう、ツカツカと扉の前まで歩き、取手に手をかけると素早く開いた。そして一歩踏み出し、グシャという音がした。


「やだ」


不意に聞こえた瀬戸のそんな言葉に、クルツは小さくため息をついて椅子ごと振り返った。


「どうかしたんですか?」

「これ」


と汚いものでも見たかのように表情を歪ませ、瀬戸は足元に落ちていたものを拾い上げる。


「クッキーか何かかしら?踏んじゃったわ」

「クッキー?」

「安っぽい包装よ。手作りかしら、しょぼいわね」


嘲笑しながら、ゴミ箱のほうへツカツカ向かい、中にクッキーを落とす。ヒールに粉がついていないか嫌そうに確認してから、瀬戸は再び扉をくぐった。


「またね、クルツ」


クルツはそんな瀬戸にお馴染みの綺麗な笑みを向けた。

瀬戸が去った後しばらく、クルツはゴミ箱に捨てられたクッキーを見つめていた。ふいに、(まさか)という考えが過った。思わず廊下に走り出る。しかし、当然誰の姿も見えない。廊下はシンと静まり返っていた。クルツの表情は苦しみに歪んでいた。








気が付けば寛子は教室にいた。勢いよく駆け込んだせいで床に座り込んでしまっていた。足の筋肉がじんわりと熱い。心臓がドクドクと、普段より速く鼓動していた。ポタポタと涙が零れ落ちる。胸がずくずく痛んだ。

多分この痛みは、「嫉妬」ではない。


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