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公園のベンチに一人、ぽつんと寂しげに座っている人を見たことは、決して今回が初めてではなかった。だというのに、藤宮寛子ははたと歩を止め、空をぼんやりと見上げるその人物を訝しげに見つめる。それというのは、その人物はこれまで目にした誰よりも若かったし、「老人」という範疇には割り振れなかったこともあるが、何よりその容姿が、校内一と騒がれている三年の先輩など比較にならないほど美しく、整ったものだったからだ。しかもただ美しいと言うわけではなく、思わず吸い寄せられそうになる色気がにじみ出ていた。
以前友人が言っていた「男の色気」とはきっとこのことだ、と寛子は思う。陽光に照らされてキラキラと煌めく金の髪は、この辺りではとても珍しい。それに加えてその美貌だ。ここでポーっと惚けたような視線を向けてもおかしくはないのだが、寛子の場合はその人物が小さな寂れた公園にあまりにも不似合いだったので、じっと訝しげな視線を向けたのだった。相手との距離は十分にあったので、視線を向けても気がつかれることはないだろう。
美しい男、というより、美しい青年と言ったほうがいいと寛子は思った。「男」から感じる硬さは、まだ彼からは感じられないし、どこか不思議なニュアンスを伴った「青年」という言葉がぴたりとはまるような気がしたからだ。
青年は相変わらず空を見上げていた。寛子はそんな彼を見つめ続ける。辺りには彼ら以外に誰の姿も見えなかった。寛子はどうして自分が立ち止まって青年を見ているのかよく分からなかったが、しばらくすると突っ立ったままの自分に疑問を覚えたのだろう、ようやく呪縛が解けたと言わんばかりにパッと視線を青年から外した。そしてすぐに、その場から立ち去ろうとする。
(…あの人、なんなんだろう)
と寛子は思った。
そう、「何?」だ。一体彼は「何」なのか。妙な疑問が頭に浮かび、寛子は眉間に皺を寄せた。しかし、この後寛子はそれよりもっと深い皺を寄せることになる。
「君は何?」
と聞き知れない声が降ってきて、寛子がハッとしたときには、彼女の目の前に青年が立っていた。やっぱり凄い美形、と寛子は驚嘆する。青年が一瞬で彼女の目の前に現れたことは特に疑問に思ってはいないらしい。それだけ青年の容姿は抜きんでていたし、正直に言えば寛子は呆然と彼を見つめ、不覚にも見惚れていたのだ。
「聞いてる?」
とイライラした調子で、青年は寛子の顔を覗き込むように聞いた。
「あ、へ?」
間抜けな反応を示す寛子。もう何が何だかよくわからない。青年は彼女を見、小さくため息をついた後、しばらく躊躇っていたが、やがてぽつりと尋ねた。
「君の寿命が図れないんだ。もしかして、不死身だったりする?」
流石にポオっと惚けていた寛子も、その台詞によって現実に引き戻され、とたん、彼女の眉間には深い皺が刻まれた。対する青年はそんな彼女を見て満足げな笑みを浮かべた。それはもう、美しさを通り越し、ぞっとするような圧力を感じさせる、狂喜に満ち満ちた笑みだった。
次はここか、と青年は思った。
ほんの少し前まで、彼は西洋風の家々に囲まれた街路に立っていた。数時間前には、その近くにあった家にいて、一人の少年が死ぬのを看取っていた。彼とはたった五年の付き合いだった。体が弱く家から出られなかった少年。彼の話し相手となり、一日中傍にいることが条件だった。
最後に少年は、「楽しかったよ、ありがとう」と青年に言った。青年はただ頷いただけだった。もうこんな場面は何度も見た。まるでそんなことを言いたそうな顔だった。青年は少年の死を知っていたし、刻々と少年の傍に近づいてくる死の足音も正確に聞いていた。出会ってすぐに知ったのは、「これではない」という失望感。そして五年後に死ぬという宣告。今日、その期限の時を迎えて、彼はそこから立ち去った。
いつから、人の死に触れても悲しいという思いを感じなくなっただろう。いや、それ以上に、死ぬことを許された人々に対し、憤りと羨望を覚えたのはいつからか。そのせいか、生まれ落ちたらいずれ死に向かうと、そんなふうに割り切れるようになっていた。思い返してみても、出会った数々の死に涙した日はもうずいぶん遠く、遥かなところに薄ぼんやりと見えているくらいだ。
いくつもの死と出会い、そして別れ、また出会う。その繰り返しがまさに彼の人生だった。いや、人生というのは少し違うのかもしれない。
彼は「人」ではないのだ。人の魂をその糧とし、生きる者。クルツフォートード。まさに死に際に訪れる、死神という存在だった。しかし、彼が現れた先の人々は、彼を「天使」だとか「神の御使い」だと呼んだ。死にゆく前に幸福を与える。それが、彼の仕事なのだから。
彼は自らを「死神」と称した。そうしなければ誰も彼をそう呼ばないから。そして、死を一番求めていて、一番感じたいと思っているのはきっと自分だと知っていたからである。
(永遠の魂はどこに?)
いつも、彼が考えるのはそのことばかりだった。
《永遠の魂》とは、彼の魂を永遠のものから引きずりおろし、その持ち主の寿命とともに歩ませる唯一のもの。彼はもう、随分前からその魂を得るためだけに生きていた。きっと自分は、それを得るためだったら何でもするだろう。「天使」などという称号はいらない。残酷な悪魔と罵られたとしても、絶対に手に入れて見せようと心に決めていた。
クルツフォートード。死に際に立つ死神は、誰より死を求めている。
そんな彼が現在立っているのは、とある寂れた公園だった。久しぶりに日本に来た、と青年は思った。何度となく訪れたことがあったが、最近はとんと御無沙汰だったのである。
そんな彼が、自分をじっと見つめてくる少女の存在に気がついたのは、少女がふと足を止めたすぐ後だった。しかし彼としては余計な人間にかかわりあいになりたくなかったので、気づかないふりをしていたのである。国際社会という言葉がポピュラーになったこの時代でも、やはり日本人の欧米意識は依然と変わらず根強いのか。そんなげんなりとした気持ちが彼を襲う。金髪碧眼を見ただけで吸い寄せられるように、うっとりとした視線を向けてくる女性はこれまで何人いただろう。全身を舐めまわすような視線は、彼を心から疲弊させたものだ。
自分を見つめてくる少女は、相変わらずその場に突っ立ったままこちらに視線を向けていた。少女の存在に気がついたと同時に、彼女が自分の求める「死に際の存在」、つまり夭折する運命にある人物ではないと知っていた。もしその範疇に振り分けられるのならば、彼は生来の能力でそれを判断できる。寿命が近く、そしてその心に願いを持っている者の魂が、彼の活力には適しているし、収穫も早い。そういうわけで、少女は自分にとって不要な存在だと断定した。
――しかし、とクルツは思う。
(この視線は、悪くない)
むしろどこか心地よいのだ。どういうわけだか、このままずっと見られていても、少女の視線は決して気分を害するものではないだろう。
(なぜ?)
と思った。正直で、かつ原始的な疑念だ。純粋に理由が分からないことが、これまで彼の中でどれだけあっただろうか。記憶はおぼろげだったが、多くはないことは確かだった。
少女は「死に際の存在」ではなかったが、クルツは彼女の寿命を計ろうと意識を集中させる。彼にとっては、興味を覚えた相手を知る一番の方法は、「寿命を計る」ことなのだ。そうすれば連続的に、これから先の人生も容易に見ることができる。彼は空に向けていた目を閉じ、少女に意識を集中させた。
しかし、どういうことだろう。不思議なことに、少女の寿命を計ることができない。
(嘘だ…。計れない?)
そんなことはないはずだ。自分は今まで、やろうと思えばいつだって計ることができた。そう思って何度か試してみたが、やはりどうしても何も読み取れなかった。分かっているのは、所謂「死に際の存在かどうか」のセンサーには引っかからないので、早死にする運命にはないということだけだ。彼らしくもない。非常識なことが起こったため、
(寿命が計れないと言うことは、寿命がない?)
彼はあり得ないことを想像していた。人はいつか死ぬものである。それは自分が一番良く知っていることではないか。しかしクルツの非常識な想像は続く。
(まさか、不死身?)
そう思いついた時には、無意識のうちにやっていたのだろう、彼は少女の目の前に立っていた。
「君は何?」
と即座に尋ねていた。しかしそんな彼を前にして、ただただ惚けている少女。
「聞いてる?」
「あ、へ?」
どこから見ても普通の少女だ。際立ったところなど一つもない。自分が興味を覚えたにしては、いささか平凡すぎるその容姿に、クルツは少し苛立ちを覚えた。
「君の寿命が図れないんだ。もしかして、不死身だったりする?」
その問いを聞き、少女の顔がたちまち不安に染まる。眉間には深い皺が刻まれた。
(違う、不死身じゃない)
真正面から少女の顔を見て、彼は直感的に、心の中で自分の問いに答えていた。不死身というわけではないのだ、この少女は。そう思って心の底から喜びが溢れ出てくるのを感じた。
(これだ)
そう確信した。なぜ寿命が分からなかったのか、その理由が今の彼にはよく理解できた。
(これが、僕の《永遠の魂》…)
まさに恍惚の境地。
少女が唯一無二の存在だと知ったその瞬間、クルツにとって少女は掛け替えのないものと変わった。何より手に入れたいと望むもの。手に入れるためにはどんなことでもしようと堅く決意したものだ。
彼は美しい顔に満足げな笑みを浮かべた。言葉に言い表せないほどの喜びを心に抱え、感じたことのなかった充足感に身をもたげる。
なぜなら少女こそが、彼に死を与えられる唯一の存在だったからである。
(ようやく僕は死ねるんだ)
彼は歓喜にうち震えた。