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胸の奥でちりちりと何かが焦げる。小さな痛みと、焦燥感。
漠然と嫌な予感がするだけで、それが何か、原因がまるで分からない。
クルツフォートードは人知れず表情を歪めた。彼は二時限目の授業を終え、職員室に戻るまでの廊下を歩いている途中だった。無意識のうちにある教室のほうに視線が寄せられ、そこで彼は中から廊下に出てくる二人連れの姿に目を奪われた。
一人の男子生徒と、一人の女子生徒。
男子生徒が教室の扉を開け、無意識のうちなのかレディーファーストの精神にのっとって、女子生徒に道を譲る。女子生徒は少し戸惑っている風だったが、男子生徒に何かを囁かれると、どうやら何か納得させられたようで、僅かに微笑んで見せた。
ちり、と胸の中で何かが焦げる。
クルツは無意識に廊下の影に身を隠した。
「へぇ、なんか意外。漫画も読むんだ?」
「香奈枝が貸してくれたのよ。無性に泣けた、感動したって」
「泣けた?」
男子生徒は女子生徒を覗き込む。
「…泣いてないわ」
「泣きそうになった?」
「だから、泣いてない」
女子生徒はぷいと顔を背ける。その耳は少し赤い。男子生徒は軽く笑った。
「それ、俺も貸してもらおうかな」
いかにも楽しげな様子で、男子生徒は女子生徒のあとをついていく。複数の視線が彼を盗み見ている。女子生徒は少し困った風だったが、男子生徒は気に留めていない様子だった。注目されることに慣れているのだろう。
彼らはどこに行くのだろう、という疑問はクルツの心に浮かばなかった。ただ、彼らはどうして一緒にいるのだろうと、そんな疑念が駆け巡った。
じりじりと、痛みを伴って、何かが焦げる。
その痛みに奥歯を噛んでいると、いつの間にか彼らはクルツの視界から消えていた。
クルツは再び、職員室への道を歩き出す。足が重く、道のりは途方もなく長いものに思えてならなかった。クルツの頭の中は空っぽだった。ときどき、彼はこうやって心を無にすることができる。頭の中に果てしない暗闇を思い浮かべ、自身がそこに漂っている姿を想像するのだ。脱力し、暗闇に全身を預け、もしも何かに動かされることがあれば、その果てまで一瞬で飛ばされそうなほど、無力になるのだ。
「クルツ先生」
誰かが彼の名を呼び、彼の肩をポンと叩いた。一瞬で無重力空間に等しい暗闇から引き戻されたクルツは、ハッと息をのみ、くるりと後ろを振り返る。
「…あぁ、瀬戸先生」
クルツは瞬間的に、人好きのする、綺麗な笑みを浮かべて見せた。瀬戸と呼ばれた相手は、その笑みに無意識的に魅了される。うっとりとした後、クルツは今自分を見ている、自分だけを見ているという一時的な錯覚にとらわれる。彼女は瀬戸麗華という国語教師。決して名前負けしない美貌の持ち主だった。腰まで届く長い黒髪は艶やかで、今日もまた、自分の美しさを知りつくしたとでもいうような艶めかしい笑みを浮かべ、滑らかな曲線を描く肢体を十二分に美しく見せるポーズを決めていた。
「やだ、驚かせちゃったかしら?」
「そんなことはありませんよ」
「ふふ、私ったら。いつもこうなの」
そう言われ、(いつも「そう」なのか)とクルツは思った。それが嘘だと決して悟られない重厚な笑顔の仮面をつけたクルツは、憎しみにも似た暗く容赦のない気持ちをその心に思うことができる。やすやすと現実と一線を引いてしまえる。
「さっき、平良直人を見てらっしゃったでしょ?」
くすくすと笑う声。酷く耳触りだと思いながら、クルツは小さく頷いて見せる。
瀬戸は「当りね」と嬉しそうだ。
「随分仲の良いように見えたけれど、隣にいたあの子じゃちょっと…っと、うふふ、それは言い過ぎかしら。叱らないでくださいね。平良君、転校初日から結構な人気なんですって。前に私のクラスの子が、彼女いるのかしらって噂してましたわ。あら、それにしても…そういえば今の隣の子、平良君と最近よく見かけるわね。もしかして…いや、まさかね。どうなんでしょう、どう思います、クルツ先生?まさかね?」
「まさか、とは?」
仮面はどこまでも重厚だ。
「あら、付き合っているかってことじゃないですか。うふふ、クルツ先生、意外と」
唇に塗りつけられた赤い口紅が、舌先でなぞられ、吐き気を覚えるような艶を帯びる。
温度が下がっていく
温度が下がっていく
まるで氷の様だ こおりの
「――さあ、どうなんでしょうね」
「あら、あんまりにも興味がないんですね。うふふ、まあ、それもそうね」
自らの仮面の堅さに思わず苦笑が漏れそうだった。瀬戸は職員室に入る前、ほんの一時人気が無くなるのを知ると、そっとクルツの腕に自らのものを絡ませた。クルツはちらと瀬戸を見やる。瀬戸はうっとりとした表情を見せた。
ああなるほど。
(きもちわるいね)
黒く、暗く、苦い焦げ付いた火傷の痕は、どうやっても拭えそうになかった。
クルツは隣にいる疲れ切った女を、いかにも興味のなさそうな様子で、横たわった肢体などまるで何の意味のない置物でも見るかの様に一瞥する。頬が上気していることにも、汗をかいた柔らかい肌も、拭い去れない気持ち悪さを感じた。柔らかい。どうしてこれほど柔らかいのか。触れられれば触れられるほど柔らかくなり、むしろふやけてしまったような、何の面白みもない肌だった。まるで抜けがらのように、きっとどれだけ貪りつくそうとしても、渇いた器は満たされないだろう。何のほころびも繕うことなく、傷があればもしかすると更に広がってしまうかもしれない。何の役にも立たなかった、とクルツは思った。
あの光景を思い出すたびに、じりじりと痛い。
本当に、何の役にも立たなかった、この女は。
クルツはすい、と手を女の喉元にかけた。寝ている女は気がつかない。
拭えない痛みに無性に腹が立った。殺してしまおうか、とクルツは冷たい眼差しを女に向けた。
原因不明の痛みを、苦しみを、もしかすると拭えるかもしれないという微かな希望。託してみたが、失敗だった。
一度も熱に浮かされることのなかった自らの体と、眠りについてなお興奮冷めやらぬ女のものと比べて苦笑した。そっと、首元から手を放す。
あの男子生徒、とクルツは苦々しく思う。もしもこの場に彼の悪友がいれば、「仮面、剥がれてんぜ」とお馴染みのセリフを言っただろう。
(…寛子…)
次に思い浮かんだのは、困ったように笑う、女子生徒の顔だった。