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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第三章
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このご時世、一度くらいは、夜一人で歩くときは後ろに注意しなさい、誰かいたら気をつけなさいと言われたことがあるだろう。香奈枝も例にもれず何度か母親なり、先生なりにそう注意されたことがあったが、結局のところ、そんな言葉は注意する者たちの自己満足なのだと心のどこかで思っていた。


そんなことを言われても、「はいはい、気をつけるから」としか言いようがない。神妙な顔つきで、「気をつけるってどういうこと?」と詳しく聞こうとしたところで、母親にしろ、先生にしろ、具体的な対処法など教えてはくれないのだ。彼らは香奈枝より長く生きてきた存在だが、「危険」というカテゴリーに振り分けられる経験をしたことなど、案外本当に微々たるものだったのだから。




香奈枝はバイトの帰り、一人暗い道を家に向かって歩いていた。ときどきどこからか犬の遠吠えがするのを聞いて妙な不安感を覚えるが、それは多分、お化け屋敷や怪談話と同じようなもので、彼女にとっては一時的なスリルに過ぎない。


そんな彼女がふと、後ろから誰かの足音が聞こえることに気が付いた時、恐怖を覚えるというよりむしろ、犬の遠吠えのバックミュージックが鳴る闇夜のスリルを共有する人間が自分以外にもいるのだと、そんな高揚を感じたものだ。そこには恐怖など欠片もないし、もちろん、警戒心もない。振り返ってみようか。振り返って、嫌ですね、犬の遠吠えってなんだか気味が悪い、とでも声をかけてみてもいいかもしれない。とまあ、こんな具合だ。


そんな彼女が事の重大さ、あるいは奇妙さに気が付いたのは、彼女が大あくびをしてふと立ち止まった時だった。後ろの足音もぴたりと止まり、辺りはしんと静まり返り、とたん、香奈枝は言い知れない寒気を背筋に感じた。

可笑しなことに、立ち止まった足が一歩を踏み出すことができなかった。もしも、自分が歩きだして、後ろの足音も動き出したとしたら。


…それは、何を表す?


一度生じると、不安感や疑念というものは、次から次と呼び起されるものらしい。ようやく香奈枝の頭の中に、母親や先生の言った言葉が思い浮かんだ。

気をつけなさい、注意しなさい。そればかりがぐるぐると頭の中を回る。


(この一歩を踏み出せば…)


行くしかない。進むしかない。このまま立ち止まっているわけにはいかなかった。香奈枝は勇気を振り絞り、動きたくないと訴えている足を無理やり一歩踏み出した。すると、それから二歩三歩と自然に歩き出すことができ、それと同時に、香奈枝はその体にとてつもない不安感を抱えることとなった。


(やだ…後ろも…)


歩き出した。香奈枝と同じスピードか、あるいは、それより少し速く。こういう場合、走ったほうがいいのか、早歩きがいいのか。もし走ったとして、後ろも走り出したらそれこそ決定的だ。だが、早歩きをしたとして、後ろも早歩きをしたとしても…


(どっちにしろ、決定じゃん!)


そう思ったが早いか、香奈枝はぐっと地面を踏みしめると、勢いよく走り出した。少し高めのヒールがついたパンプスを履いている割には、いい走りである。


「っ…!」


これほど全速力で走ったのはいつ以来だろう。彼女の足音は夜の闇を震わすほど大きな音だったが、後ろからついてくる足音はより大きく響いているような気がした。走り出したのだ。後ろの誰かも。その足音はだんだんと大きくなっていく。確実に香奈枝との距離を縮めているのだと、ゆっくりと着実に近づいているのだと、香奈枝にじわじわと恐怖を味あわせているのだと、そう言っているようだった。

募る恐怖感は、恐怖を呼び、また恐怖を呼び、どこまでもその連鎖は続いていく。香奈枝には家が物凄く遠気にあるような気がしてならなかった。自分は今深い暗闇の中をひた走っていて、それは迷宮で、自分はここから逃げられないのではないかと、そう錯覚するほど彼女に取りついた恐怖は凄まじく、強大だった。


トン、と肩に置かれた誰かの手の感触と、ぐっと肩を引かれ、その場に引き落とされた痛みと、ぞくりと体を震わす何者かの気配。それら全てを感じた瞬間、香奈枝は誰かに腕を掴まれ、完全にその場に座り込む形となっていた。


「考えたんだよ」


ぬっと誰かが香奈枝の視界に現れ、そう言った。


「てめえがいなければ、香織と俺の邪魔をする奴はいなくなるんだ」


そう言ったのは、コンビニで山内香織に迫っていたストーカー男だった。暗がりで顔がはっきりと見えないが、喉から発する声は憎しみに満ち満ちていて、どこか狂気じみていて、少し楽しげだった。


「なあそうだろ。そうなんだよ。最初からそうすればよかったんだろ?」


香奈枝は何も言えなかった。

どうして私を?どうしてこんなことになる?どうして?どうして?

そればかりだった。そんなことばかり考えていて、何も言えなかった。ただただ、男の歪んだ顔を見つめるだけで、涙が溢れ始めていたことにさえ気が付かなかった。

喉元に、男の手がかかる。

ひくっと、香奈枝は苦しげに息をした。

どうしてこんなことになる?どうして?どうして?


(もしかして…)


と香奈枝はその時ようやく思った。


(もしかして、私、死んじゃう?)


しかし、そう思った時、自分に降りかかった事態が死に直結する事態だと気が付いた時には、香奈枝はその危険な状態から解き放たれていた。喉元に充てられた男の手が離れ、男が何か妙な悲鳴を上げて道路上に転がり、倒れた男の上に、人の形をした影が、闇夜よりもずっとずっと暗い影がかかった。


「よぉ。面白そうなことしてるじゃねぇか」


どうしてだか分らないが、そう楽しげに言った声の主の顔がコンビニにいたあの美しい男の横顔にそっくりだったので、香奈枝はただただぽかんとその横顔を眺めていた。なんでこの人がここにいるんだろうとか、つまりこれって助けてくれたんだろうかとか、初めはそんなことを考えていた。冷たい人だと思っていたので、香奈枝は余計に驚いていた。

ストーカー男は今や、奇妙な情けない悲鳴をあげて慄くばかりで、その口から発される言葉の軍は、もはや日本語と言っていいかどうか分からなかった。目の前の存在に酷く怯えているようだったが、香奈枝にはどうしてそこまで怖れるのかが理解できなかった。


ただただ純粋に美しいと思えた。男の横顔も、ストーカー男に手を差し出しながら、ニッと弧を描く唇も、何もかも。全てに見とれてしまう。


だから、怖いことなんて何もなかった。


「…あとで、な」


と男は余裕たっぷりに、楽しげな口調で言った。ストーカー男は嗚咽を始めていた。腰を抜かして座り込んだ道路には、いつの間にか丸くシミのようなものが広がっていた。まるで、水たまりの中に尻もちをついた子供のようだった。


「大丈夫か?」


と美しい男は香奈枝に尋ねた。横顔ではなく真正面から男の顔を見ながら、香奈枝はゆっくりと頷く。


「たぶん」


内心、やはりあの人だ、と確信した。


「多分かよ」


と男は苦笑する。


「それじゃ…慰めてやろうか?」

「なぐさめる?」

「優しく、優しく、な」


そう言った男の顔は、どうしてだか寂しげだった。


「慰めてほしいか?」

「…慰めたい?」


と香奈枝は言っていた。とたん、男の顔が笑みで歪んだ。


「面白いな、おまえ」


しかし、そう言った顔は、心から面白がっている風ではなかった。その目は切なさに満ちている。ともすれば香奈枝の体を抱きこんでしまいそうな強い衝動を胸の内に抱えているようだった。しばらく香奈枝をじっと見つめていた男であったが、ハッと我に返ったようで、長い溜息をついた後、後頭部を指で掻いた。小さく舌打ちする。


「…とりあえず、やらなきゃなんねえか」


と独りごちる男。一方の香奈枝は、だんだんと現実感が増していくのを感じ、一刻も早く家に帰りたいという気持ちになっていた。男は怖くないが、闇夜は怖い。


「あ、あの、助けてくれて、ありがとうございました」


香奈枝はとりあえずそう言った。まだ笑えそうになかったが、やんわりと笑みを作ろうと努力した。笑えたかどうかは、結局のところ彼女自身は把握していない。そんな香奈枝を見て、男は驚いている風だった。


「あ、あぁ」


呆けている、と言ってもいいかもしれない。


「それじゃあまた、あの、コンビニで」


言葉少なくそう言うと、香奈枝はすっくと立ち上がり、その場から駆けだした。一度振り返ると、まだそこにはぼーっとした男がいた。二度目に振り返ると。


(あれ?)


不思議なことに、そこには男の姿だけでなく、ストーカー男の姿さえ見えなかった。更に不思議なことに、そんな奇妙な様子を目の当たりにしても、香奈枝の心にはそんな現象が「当たり前のこと」のようにストンと落ちた。


ようやく家に帰りついて、助けてくれたのだと実感できた。

助けてくれたのだ、自分を。コンビニでは助けてくれなかったのになあと思い、だがこうして無事に家に帰ってきて、そんなことはどうでもよくなっていた。


助けてくれたのだ、彼は。


あの、美しい男は。


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