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隣に座る男が珍しく何かを思い悩んでいると知っただけで、ゼグヌングは愉快で堪らなかった。なんでも知っているという顔でいつも余裕に浸っていた隣の男は、平然とした顔を取り繕ってはいるが、ゼグヌングが小さく笑みをこぼすと、不機嫌そうに顔を歪ませた。
「ゼグ」
と短く言うと、手に持っていたグラスをバーテーブルの上に置いた。
カチャ、と硬質な音が響いた。
「なんだ?」
「何がおかしいの?」
「おまえ」
「僕?」
「クルツフォートード、おまえは何を悩んでいる?」
ゼグはくすりと笑った。グラスを傾けると、中の氷がカラリと音を立てた。
「なーんてな」
「別に」
とクルツは視線をそらす。
「いいさ、知ってるんだぜ。マフィンのお姫様だろ」
何もかもを見通せるだろうクルツが悩むと言ったら、あの危うげな女子高校生だけだ、とゼグは知っていた。しかし、その少女の名を彼が呼ぶことはない。きっと、自分の口から彼女の名前が飛び出せば、それだけで隣に座る悪友は、その胸に静かな怒りを募らせるだろうから。それが愉快で堪らなかった。
(怒り?怒りだって?)
ゼグは心の中で笑っていた。
なんだっていい。感情と名のつく物が、クルツフォートードの中に生まれるのならば。
それほど面白いことなど、この世にありはしない。
「…苛々するんだ」
酒が陳列された棚に視線をやりながら、クルツはそう呟いた。
「へえ、何が」
「何が、か。なんだろうね」
「何だろうなあ」
「何だと思う?」
とクルツはようやくゼグに視線を戻した。
「言ったって、おまえは人の話を聞きゃしねえよ」
クッとゼグはからかう様に言った。
「嫌な言い方だね」
クルツは苦笑した。
(分かってるだろ、ホントは)
俺に聞いたって仕方がないことくらい。ゼグはそう思った。
彼女を見るたび苛々して、彼女を知るたび苦しくなって、彼女に触れるたびに、酷く痛みを覚える理由を。
(ただ、おまえはそんな感情が自分の中にあるなんてことを、知りたくないんだ。ただそれだけ。怖いだけだろう?)
「思い出すたび、苛々するよ」
クルツは苦々しい表情でそう言った。その手にあるグラスの中には、もう何も入ってはいない。
「なあ、クルツ」
「思い出す、たびに」
「なあ」
「…うん、何?」
「魂だけが大事なんだろう?」
「魂は、大事だよ」
「魂だけ、そうだろ?おまえにとって、大事なものは」
「そう、言ってほしい?」
「俺じゃない」
と言って、ゼグはグラスに入っていた残りをグイッと仰いだ。
「君じゃない?」
「クルツフォートード、おまえだ」
一言言って、トンと空になったグラスをバーテーブルの上に置いた。
「おまえ自身が、そう望んでいる」
そう言うと、ゼグは悪友の不機嫌そうに歪んだ顔に、にやりと不敵な笑みを向けた。
「だから、苛々して仕方がねえんだよ」
一言言って、ゼグは悪友の顔を見もしないで、さっさとその店を出た。
愉快でたまらない。だが、その顔が愉悦に緩むことは決してなかった。店を出たとたん、彼の顔に浮かんでいた笑みは消え去り、すっかり暗くなった道をゆっくりと歩き始めた。
(俺も、もしかすると)
ゼグは苦笑する。その先は考えたくなかった。悪友の思い悩む姿を見たからこそ、その姿を滑稽だが真摯だと感じたからこそ、そこから先を考えてはいけないと感じていた。
彼が進む道の先に、一軒のコンビニエンスストアが建っていた。ゼグヌングはまっすぐそちらに向かっている。煌々とした光を放つその店に引き寄せられるように、一度も立ち止まらず、時折苦笑を洩らしながらも、彼はその店に向かっていた。
(こんなこと、意味のないことだってわかってんだけどなあ…)
頭の中で、誰かが警鐘を鳴らしている。だが一方で、また別の誰かが圧倒的な力で、ゼグの足を動かしていた。
ガラスの扉の前に立つと、チャイムのような音とともに扉がサッと開き、中から明るい声が聞こえた。明るく、耳触りのよい、そして何より、誰のものより甘く聞こえる少女の声だった。
「いらっしゃいませー」
ただその一言だけなのに。
ゼグはその声を、なにより甘美で、待ち望んでいたものだと思い知った。
“吉村“
そう書かれたネームプレートを胸につけ、レジの前に立っている一人の少女。
(か な え)
心の中で何度呼んだか、その名前を。
しかし今日も、彼は少女の顔を、面と向かって見ることはできなかった。
そんな自分に苦笑が漏れた。