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「藤宮さん」
と声をかけられ、寛子は怪訝な面持ちでそちらを見やった。
授業が終わり、まさに彼女が立ち上がって香奈枝のところにでも行こうと思った時だった。
「次の英語、教科書見せてよ。忘れちゃってさ」
声の主、転校生平良直人は、万人受けする親しみやすい笑みを浮かべ、そう言った。
「だめ?」
「い、いいけど…」
転校初日でここまで親しみやすく、もとい馴れ馴れしく振舞えるなんて、と半ば驚きつつ、寛子はそんな風に曖昧に応えた。
「よかった。ありがと」
ニッと笑って平良は席から立ち上がる。そうしてトイレにでも行こうとしたのか、教室を出ようとすると数人の女子に囲まれ、質問攻めにされていた。ちらほら、寛子について言及する声も聞こえたが、それに対して寛子が思ったのは「そんなに言うなら、席を換えてほしいって先生に言えばいいのに」と、それだけだった。
次の英語の時間に平良と机をくっ付けて教科書を見せなければならないと思うとうんざりした。「見せて」と頼まれたら、「嫌」だなんて断ることは寛子にはできなかったし、嫌だと言っても「なんで?」とでも聞かれてまともな理由を応えることができなかったら、平良という男はいつまでも食い下がってきそうだった。遠慮を知らなそうだ、と寛子は第一印象からそう感じていた。
どういうことだろう、とクルツは思った。
そう思ってからようやく、そう言えば転校生が来るという話だった、と思い出す。確か名前は平良とか言っただろう。名簿に視線を落とすと、確かにそんな名前が記されていた。再びその転校生とやらに視線を向けると、彼は隣の生徒と机をくっつけて、 馴れ馴れしくもその教科書を見せてもらっている様子だった。教科書を忘れたから、それが理由だろう。そこまでは別に問題はない。しかし、その隣に座っている生徒が誰であるかが問題だった。
(…寛子)
名前を心の中で唱えるだけで、なぜだか甘いものがこみ上げてくる感じがした。美味しいマフィンとはまた違った甘さだった。
そう、隣には藤宮寛子。
クルツには平良が必要以上に寛子の近くに座っているように見えた。しかしそれは考えすぎだとクルツは思いなおす。というよりも、もうそれ以上その光景を見たくなかったため、ふいと視線を外した。
甘い気持ちに、何か苦いものが混じっていく。
クルツは一度も、寛子のほうを見なかった。
英語の授業が終わり、案の定寛子はがっかりしていた。もちろん顔には出さない。いや、出さないようには気をつけていた。
(一度もこっちを見てくれなかった…)
そう思うと、ますます不安が高まっていく。いつもだったら何度か目が合うのだ。それが一度もないなんて。残念な気持ちよりも、絶望的な雰囲気さえ漂っている。知らないうちに何かをしでかして、嫌われてしまったのかもしれない。でも、そんなことをした覚えはない。ずっと真面目にやってきた。今日だって熱心に授業を聞いていたし、平良がこっそりといくら話しかけてきても、寛子は曖昧に頷くだけで、彼女自身は授業の邪魔など決してしてはいなかったのだ。
(…それなのに、どうして?)
さっぱりわからない。それは余計に彼女の不安を煽り、ますます絶望の底に沈ませていく。
「藤宮さんさ、なんか落ち込んでる?」
そう声をかけられ、まだいたのかと隣の平良の存在に気がついた。そしてすぐに、その言葉の意味をくみ取って、寛子は怪訝そうな顔をした。
「どうして?」
「いや、そうじゃないかって思っただけ。どうしてって聞かれると困るんだけど」
と平良は苦笑する。
「落ち込んでなんかいないわ」
寛子はきっぱりそう言って、かぶりを振った。
「ふーん。あ、じゃあさ、藤宮さん、彼氏いる?」
「…どうして?」
「それ、口癖?」
平良はくすっと笑い、寛子の顔にじっと視線を合わせた。
「ただ、俺としては知りたかっただけなんだけど」
「知りたいって段階が一番楽しいらしいわよ」
「知ったら面白くないって?俺、知りたいんだけど」
「知りたいなら、あそこにいる子たちがお勧めよ。知ってほしいって顔してる」
あそこ、と言って寛子が示したほうには、先ほどからちらちらと平良に視線を向け、早く彼が席から立ち上がらないか見計らっている数人の女子がいた。平良はそちらを見ようともしなかった。
「藤宮さんはそうじゃないってわけか」
「平良くん、かっこいいだけじゃないのね。物わかりもいいみたい」
寛子はにっこりと笑った。平良と話していると、あの夜の街で出会った男たちと会話しているようだった。駆け引きとまでは言わないが、どこかつんとした棘が、寛子の言葉には含まれていた。
「マジびっくり。藤宮さんって、印象とだいぶ違うな」
「ねえ平良くん。驚かせたことは悪いと思うけど、だからって私を脅かさないで」
「脅かす?」
「あなたの顔がそんな風じゃなかったら、その心配はなかったんだけど」
「…ああ、そういうこと」
と平良は合点がいった様子だった。
「女子は怖いな」
「――理解したのなら、私があの子たちから水をかけられないうちに、私から離れて。誤解は面倒なだけよ」
「誤解、か」
平良は薄く笑う。
「あながちそうでもなかったりして」
冗談めかしてそう言うと、平良はすっと席から立ち上がった。
寛子は黙っていた。平良という男の掴みどころのなさにようやく気が付いたからだった。離れていく平良の気配を感じながら、寛子はぼんやりと思った。
(なんて嫌な日なんだろう)