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この時期に転校生なんて珍しい、と藤宮寛子は思った。
担任教師の隣、黒板の前に立っている一人の好青年。彼がその、季節外れの転校生だ。茶色がかった黒髪が、窓から入ってきた風に吹かれてふわりと揺れる。すると彼が微笑したので、教室にいた女子はまるで胸に恋の矢が刺さったとでも言わんばかり、ぐっと胸を手で押さえた。
平良直人というのが転校生の名前だった。急な父親の転勤で、学期の途中での転入となったらしい。
「よろしく」
と平良はさわやかな笑みを浮かべた。とたん、「こちらこそよろしくしてー」という黄色い声が上がる。
また美形か、と寛子は内心思っていた。すると次の瞬間、彼女の心にはもう一人の美形、新任教師クルツフォートードの顔が浮かんでいた。
(マフィン、喜んでもらえてよかった…)
手渡したときのクルツの表情を寛子ははっきりと覚えていた。ほんの少し驚き、そして次の瞬間には「ありがとう、嬉しいよ」と微笑んだクルツ。その綺麗な笑みに、思わず蕩けそうになったものだ。
「いい生徒になる」と宣言してから、寛子は例の夜の街に足を運ばなくなったし、勉強も今まで以上に力を入れて頑張っていた。特に英語の授業への熱の入れようといったら目を見張るもので、そんな寛子に対してクルツはたびたび、「頑張っているね」と声をかけた。
(今度、クッキー持って行こうかな…)
そんなことを考えながら、マフィンを渡したときのクルツをまた思い出した。
(…なんか、余裕あったわよね。あのとき)
あれほどの美形だ。プレゼントなど何度も受け取ったことがあるだろう。それも立派なものばかりに違いない。お礼にかこつけて手作りお菓子なんて、数の内にも入らなかったりして…、と寛子は落ち込んだ。同時に、あの笑顔を自分以外の人間が見ているかと思うと胸が締め付けられる思いがした。
(…。やだ…結局私、好きになったのね)
クルツへの気持ちがいつ「恋」になったのかはわからなかったが、恋であることははっきりと自覚していた。
(結局あの人たちと同じ、か)
もうおぼろげにしか思い出せない両親の姿を頭に思い浮かべようとしたが、すぐに止めた。
(…でも、そうだとしても、私はあの優しさを好きになったのよ…それに)
自分の思いを叶えるために、何かを犠牲にしたり、何かに迷惑をかけたりするのは嫌だった。だから、クルツへの気持ちは、今の彼女にとって一番の秘密だった。好きになったことで頑張れるのなら、もっと良い自分になれるのならば、それだけで十分だと寛子は思っていた。
一方で、そうしていることが一番良いのだということも分かっていた。今のままで十分。生徒として、クルツに優しく接してもらえる今の状況を、決して壊してはいけない。
――そう決意したものの、彼女の心には暗い気持ちが溢れていた。
「よろしく」
という声が突然聞こえ、寛子はハッと我に返った。
「え?」
見ると、目の前に転校生が立っている。目を丸くする寛子に、平良はにっこり笑みを浮かべ、言った。
「俺、隣の席になったから」
「え…あ、隣?」
そういえば隣が空いていた、と思い出し、とりあえず頷いた。
「藤宮―、ボーっとしてないで、よろしくしてやってくれよー」
と担任の声がし、寛子は苦笑いを浮かべ頷いた。
「よろしく、藤宮さん」
転校生は相変わらず爽やかな笑みを浮かべていたが、クルツの美しい顔に慣れてしまっているせいか、寛子には別段騒ぐほど魅力的には映らなかった。しかしまあ、一般的にみれば、どこかの雑誌にモデルとして登場してもおかしくない容貌をしていた。
「あ、よろしく…」
と戸惑いつつ応えた。
そんな寛子をじっと見つめ、平良は何やら満足げに微笑み、隣の席に腰掛けた。
そのあと、平良へちらちらと視線が注がれる以外は平常通りで、何てこともなく授業に移っていった。寛子も普段通りに授業に集中していたし、決してよそ見をすることはなかったが、なんとなく隣の席から視線を感じ、居心地の悪さを覚えていた。それが平良からのものであることは気が付いていた。だから余計に気分が悪かった。
例の夜の街に行くのを止めてから、寛子は本当に真面目に「良い生徒」になろうと努力していたが、同時にそれ以前よりも「男」と距離を置いていた。意識してやっているのではない。クルツ以外の男から自らを遠ざけ、休み時間はほとんど香奈枝をはじめとする女友達と共に過ごしていた。しかし、寛子がそうしていることを誰も気がついてはいなかった。もともと男子生徒と一緒にいる習慣はなかったし、優等生として認識されてはいるが、クラスの中ではまだまだ認知度が低かったからだ。寛子としては昔から目立つことは好きではなかった。これといって得意なこともなかったが、勉強だけは出来る性質だったので自然とそういう意味では目立ってしまっているが、それも彼女の本意ではない。
(……)
ふと彼女の意識が昔日に飛んだ。
昔は、勉強は親の気を引く手段だった。しかしそれは全く効果を見せなかった。百点満点のテストを見せればきっと喜んでくれるだろうと思って、一晩中テスト用紙を握りしめていた寛子に訪れたのは、相変わらずの一人きりの朝だった。帰ってこなければ見せることさえできないのだと、そのときようやく気がついた。馬鹿馬鹿しくなって、寛子はテストをゴミ箱に捨てた。ぐちゃぐちゃに丸めて。
そのときから、親の気を引くには何をするべきかという意味のないことに思考を働かせるのは止めた。せいぜい面倒なことにならないように振舞っていればいい。赤点を取れば、先生は親を呼び出すだろう。しかし親は来ないだろう。そのときに先生が浮かべる困惑顔と、「親御さんはお忙しいんだね」という取り繕った言葉とのギャップにきっと自分は諦めを覚えるだろう。それはどう考えても惨めだった。赤点を取るよりももっと、惨めだった。
だからこそ、頑張りが認められる、認めてくれる存在がいる今は、寛子にとって幸せな日々だった。心地よい日々だ。寛子は誰かに聞いてほしかったのだ。たとえば百点を取ったこと。とても喜ばしいことだ。もしくは友達と喧嘩をしたこと。辛いことだ。嬉しいことも辛いことも、寛子は誰かに聞いてほしかった。彼女は誰より、その「誰か」に両親がなってくれることを期待していた。そうして期待した結果は、誰より寛子が一番よく知っていた。
(…これの次、英語だっけ)
ぼんやりと思考を今に戻して、そんなことを思い出した。そうするだけで気分が明るくなるからだった。今はただ、クルツに会いたかった。