3
テーブルの上に置かれたマフィンの山を見、ゼグヌングはそのうちの一つをひょいと摘み上げた。
次の瞬間、彼の耳に恐ろしく低い声色が響く。
「ゼグ」
そう一言呼ばれただけだと言うのに、ゼグヌングはただならぬ気配を感じてその動きを止めた。
「な、なんだ?」
確かにその部屋には誰もいなかったはずなのに、今彼の後ろには何者かが立っていた。その気配は良く知っているものだ。ゼグはゆっくり振り返った。
「…クルツ」
「置いて」
普段と変わらないようで、実は比べ物にならないほど怒りを含んでいる声。原因はコレだ、と手の内にあるマフィンを一瞥し、ゼグはそれを元の位置に戻した。
どうやら満足したようで、後ろにいたクルツはにっこりと笑みを作った。それを見てひとまず危険は去ったと感じたのだろう、ゼグはテーブルの傍にある白いソファにどっかりと腰かけた。
「まさかマフィン型爆弾じゃねぇだろうなあ」
おどけたように言った。クルツは全く表情を変えなかった。ただ一言、違うよ、とだけ応える。それが余計に怖かった。
「君が手にしていいような代物じゃないってこと」
「はあ?」
「で、突然人の部屋に入ってきて何の用?」
「ひでーなその反応。友人が遊びに来たんだ、もう少し歓迎してくれてもいいってもんだろ?」
「ようこそ我が家へ。そしてさよなら」
「くくっ、ひでーな、ホント」
「…で、何の用?」
ため息交じりでクルツはそう尋ねた。彼の友人、もとい悪友は用もなく家を訪れることはない。こういうとき、何かあるのだ。ゼグはクルツをちらと一瞥し、盛大なため息をついた。
「見られちまったんだ」
と一言。それに対し、「何を?」とクルツは返さなかった。
「それで?」
「泣かれた」
「泣いた?子供?」
「女…。たぶん、おまえのお姫様と同じくらいだろ」
「嫌な予感がする、僕の生徒じゃないよね?」
「知るかよ。とりあえず」
「処置はした?」
「当たり前だろ」
というゼグの言葉を聞き、クルツはしばらく間を置いた。
「なんだよ?」
考え込むクルツを不審に思い、ゼグは尋ねる。
「結構つらいよ。一方的っていうのは」
「?」
「次に会ったとき、こっちは知っているのに、相手は自分を知らない。それが辛いと思ったのは、今回が初めてだったよ」
「それは…特別、だからだろ」
「君は?」
「俺は違う。「豚」じゃなけりゃ、誰だってああなる」
「どうなったの?」
クルツはククッと意地悪く笑った。彼は知っている。ゼグがどうなったのかを。
「まいった、ホント」
ゼグは頭を抱える。
「たまにやればいいのに。我慢するから一気に」
「我慢なんかしてねえよ。拒否してんだ」
「それを、我慢って言うんだよ」
「おまえだけだろ」
「まあ、そうかもね」
クルツはくいと眉を上げる。ゼグは細く息を吐いた。ソファにゆっくりと沈み込む。その様子を見たクルツは彼の隣に腰掛け、仕方がないなと言うふうにゼグを覗き込んだ。彼なりに励まそうとしたのだろう。しかし。
「なあ、あのマフィンってお姫様から?」
ゼグが顔を上げてにやりとそう言ったので、クルツのほんの僅かに顔を出した優しさはひっこみ、冷たい感情が一気に湧いた。
「なるほどなあ、だからあんなに嫌がったのか。へぇ、で、味は?美味かったか?」
「ゼグ」
冷たい声色で呼ばれ、ゼグは小さく舌打ちした。
彼の友人は、あまり怒らせるものではない。
「――さて」
とクルツはソファから立ち上がった。
「そろそろ行くよ。でないと遅刻するからね」
「先生はたいへんだな」
「悪くないよ」
「会えるから?」
その問いにクルツは応えなかった。ゼグに一瞥をくれた後、別室に姿を消した。
(魂がマフィン作るってもんじゃねえだろーが)
ゼグは心の中でそう言った。彼の友人は、まだまだたくさんのことに気が付いていない。その片鱗はたくさん見えるのに。敏感なようで、意外と鈍感らしい。
(さて、俺も行くか)
午前中は彼の活動時間ではなかった。「豚」を狩るのは主に夜だ。だが、別に昼間に外に出て体が融けるというわけではない。そういうわけで、クルツの部屋を出たゼグヌングは目的もなくぶらぶら歩いていた。ちらちらと視界に入るのは制服を着た学生たちの姿。高校生だとしたら、彼女も――
(って、何を俺は…)
考えを振り払おうと頭を振った。しかしその時、道路を挟んで向こう側から、聞き覚えのある声が聞こえ、ゼグはハッとしてそちらを見やった。そこにいたのは一人の女子高生。少し眠そうな顔をしていた。思わず目を奪われる。後ろから誰かが走ってきて、彼女の肩をポンと叩いた。
「おはよ、香奈枝」
(か、な、え)
はっきりとそう聞き取り、さらに読唇して、ゼグは無意識のうちにその名前を心に刻み込んでいた。
沸き起こったのはあの甘い憧れ。
憎悪も嫌悪も、それに勝ることはなかった。