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「しっかし、不味そうだな」
と美しく恐ろしい男は言った。
まじまじと香奈枝の顔を見つめ、それから恐怖に慄く香奈枝の頭を拳でコツンと叩き、こともあろうに「空っぽだな」と呟いた。
悪意はないのかもしれないが、失礼極まりなかった。
しかし、一方の香奈枝はそんなこといちいち気にしていられるほど余裕がなかった。すっかり殺されると思い、死という良く分からないものがゆっくりと足音を立てて近づいてきているような気がしていたのだ。ようやっと彼女の様子に気がついたのだろうか。男は苦笑した。
「いや、別に一割無理やり取ろうなんて思ってねえから」
いや、どうやら違った。男はあまり分かっていなかった。一割とかそういうことで恐怖を感じているのではない。それはまあ、お金は大切だが、命の危険が迫っているとき誰が「落し物を拾われてしまったから一割あげないと!」なんていう心配にとりつかれるだろうか。
香奈枝がまだ泣きやまないので、男は更に別の理由があるのだろうと考え始めた。
ああそうか、としばらく経って合点がいく。
(死を感じたんだな、こいつは)
普段「死」というものに近い生活を送っているので、男にとって「死」は友人のようなものだった。実際彼には「死神」の友人がいたりする。まあ、本人いわく「悪友」らしいが。まあそれはさておいて。
男はその性質上、いや種族的な、本能的な性質上、誰かが泣いていたり苦しんでいたりするのを見るのが嫌いだった。男自身はそんな自分を好きになれないでいたのだが、そう感じるように作られているから厄介だった。しかし、特例として彼は「豚」として認識できるものは、泣こうが喚こうが、どんなうめき声を上げようとむしろそれは彼を興奮させた。
だが、これは、目の前にいる少女は「豚」ではない。
一目見てまずそうだと思った。
頭の中には甘い菓子のような世界が広がっていて、邪悪に染まった心は欠片も感じられなかった。そういう意味で、空っぽだった。
まあ、本当のことを言えば、別の意味でも香奈枝はおおよそ空っぽだ。
「別におまえを、あの豚と同じようにはしねえよ」
つまり、殺しはしないと言いたいのだろう。「ほら、財布」と財布を差し出す。しかしそれは血ですっかり汚れていて、とても残念なことになっていた。可愛らしいオレンジ色の財布だったが、今はなかなかクレイジーな代物に姿を変えていた。
「う、っ、ひっく」
変りはてた財布を見たからか、香奈枝は更に泣きだしてしまった。男の言葉はあまり耳に入っていなかったのだ。悲惨な財布の姿を見て、自分もこうなるに違いないと思い込んでしまった。
「おいおい、なんで泣くんだ?」
本気で分からないと言った風だった。いや、分からないのだ。大体彼は、「泣く」という行為自体があまりよく理解できていない。少し前までは、泣きすぎると体が干乾びるのではと疑っていたくらいだ。そして更に言えば、自分は泣かない質なので、干乾びる心配はないと安堵していたくらいだ。
「うっ、ううっ…」
香奈枝は泣きやまない。
男はどうすればいいのかまるで分からなかったが、彼は本能的に香奈枝を宥める方法を知っていた。小さく舌打ちし、血まみれになった手をコートで乱暴に拭き、それからぐっと嗚咽を上げる香奈枝の体を抱き込んだ。彼は知っていた。これは、彼の生来の技だということを。
ゆっくりと香奈枝の背中を撫でてやる。
誰かを優しく扱うことは、彼にとっては不本意極まりなかった。しかし一方で、そうしてやることによって満たされていく彼がいた。
相対する「自分」がいる。誰かと関わることなく生きていきたい自分と、誰かに寄り添い優しく扱いたい自分。両者はいつも衝突していたが、「豚」と対峙しているときは前者のみの彼だった。どこまでも残忍に、容赦なく殺すことができた。そもそも命を奪うとは思っていなかった。「豚」は彼にとって餌。生きるために狩っている、それだけのことだ。
男は何度も香奈枝の背中を撫で、ぐっと頭を抱き込み、そこに何度かキスを落とした。優しい愛撫を繰り返し、恐ろしいほどの憎悪と、驚くほどの甘い気持ちがこみあげてくるのを感じていた。
腕の中にいる香奈枝は無意識にギュッと男の服を掴んでいた。頬を男の胸に擦り寄せ、甘い吐息をかけた。感じたのは絶対的な安心感。漠然と、「戻っていく」感覚だった。
男は愛撫に没頭していた。
もうほとんど憎悪よりも心地良さが勝っていた。
もうほとんど憎悪が薄れかけたとき、突然野良猫の鳴き声が聞こえた。
ハッと我に返った男は、乱暴に香奈枝の体を突き飛ばす。
(何を…俺は…)
呆然自失としていた。突き飛ばされた香奈枝はすでに意識を失っていた。
「…ハァ…」
重いため息をつき、男は香奈枝に近づき、その無事を確かめた。
(らしくねえって)
吐き気がした。甘さに取りつかれた自分に対して。それでも、再び目を閉じたままの香奈枝に目をやると、甘さへの憧れに眩暈がしそうになった。
気がつけばまた、キスを一つ落としていた。
「くそっ」
眉間にしわを寄せて悪態をついてみたが、心に湧いた憧れは拭い去ることができなかった。