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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第二章
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 最近特に浮き沈みの激しかった友人が、今まで見たことないほど生き生きとしていて、吉村香奈枝は内心驚きつつも、一方ではホッとしていた。


話も合うし、一緒にいて楽しいその友人は、ふとすれば遠くを見つめ、眉間にしわを寄せて考え込むことが多かった。言うなれば親友という存在だろうけれども、隣にいると不安になることが度々あった。

影があると言うか、秘密があるというか、それはもちろん人間一つや二つ秘密を抱えていて当然ではあるが、その友人の隠し事はかなり重大なことで、もしも詮索しようものならば、拒絶という名の壁を高々と建てられてしまうだろうと香奈枝は思っていた。

だから、落ち込んでいるように見える友人に軽く声をかけながらも、深く追求しないように心掛けた。そしてそうしていることさえ気づかれないように、明るく振る舞うのだった。


(休んでいる間に、何かいいことでもあつたのかな)


入学してから無遅刻無欠席だった友人が――一週間くらい前のことだ――、教室に姿を現さなかった。思い返せば、その日を境に友人を取り巻く雰囲気が変わったような気がした。吹っ切れたというのだろうか、どういうことなのかは見当がつかなかったが、遠くを見つめてぼんやりすることは減った。放課後積極的に香奈枝を買い物や遊びに誘うことが多くなった。もとから勉強ができるほうだったが、更に熱が入ったように見えた。そしてそれに無理がない。


もともとそういう性格だったのだろうか、と香奈枝は思った。

今までの友人は何かに本当の自分を抑えつけられていたのかもしれない。悶々とそんなことを考えていた。


「香奈枝、ねえこれ食べてみて!」


というのが、香奈枝の友人、藤宮寛子のその日の第一声だった。教室に駆け込んでくるなり、香奈枝の机に茶色い紙袋を置く。


「お、おはよ、寛子」


驚きつつ、とりあえずそう返した。


「えっと、食べてみてって?」


そう尋ねると、寛子はがさがさと袋を開けた。


「マフィン、焼いたのよ」

「ええと、つまり毒見ってこと?」


おどけたようにそう言った。寛子は笑う。


「味見はしたわ。結果、私を見て。ちゃんと生きてる」

「それは安心」

「ほら、食べてみて。一応他の人の意見聞きたいし」


そう言って、寛子は袋から一つマフィンを取り出し、香奈枝に手渡した。


「ふむ、外見はなかなかおいしそうですな」

「そうであろう、そうであろう」


満足げな笑みを浮かべる寛子。香奈枝は寛子が見詰める中、マフィンを口に運んだ。初めにふわりとバターの香りが鼻腔をくすぐり、次に口の中に心地よい甘さが広がった。


「んー、おいしー」


と幸せそうな表情を浮かべる香奈枝。


「ホント?ホントに?」

「これなら相手の男性も喜ぶこと間違いなしですなあ」


にやにやとそう返した。とたん、寛子の頬が紅潮する。


「えっ、」

「違うの?プレゼントでしょ?誰かなー、こーんな美味しいマフィン。だーれがもらっちゃうのかなー?」

「だ、誰って…ていうか、そういう相手じゃないのよ。お礼っていうか…」

「お礼?」

「…クルツ先生に」

「はあ?なんでまた。あ…もしかして寛子、クルツ先生のこと」

「そ、そういうのじゃないってば! え、英語! そう、英語のことで、ちょっと相談したら、ほ、ほら、海外小説、どれを読んだらいいかって相談したのよ。そ、そうしたら、もう読んだからあげるって、本をくれたから、そのお礼…っていうか」

「へえ、いいなー、寛子。私も、本気で英語頑張ってみようかなー」


クルツも、英語ができる生徒の方が教えていて楽しいだろうとは思った。

頭に麗しい英語教師の顔を思い浮かべてみる。前任教師とは比べ物ならないほど素敵な先生だと香奈枝は思っていた。というより、生徒の誰もがそう思っているだろうが。ふと、英語を頑張ってクルツ先生に褒められるようになりたい、と思えるほど、自分が先生に夢中になれればいいのに、と香奈枝は思った。あの美しい顔に見とれることはあったが、先生との距離が近いとは全く思えなかったし、近づいてどうこうしたいという思いもなかった。クルツは英語の苦手な香奈枝にとって、前任の寺門よりも良い先生であり、何より英語の授業に平和を与えてくれる快い存在だったのである。むしろ、それだけに過ぎなかった。


「いいと思うわよ。心がけるだけでも上達度って違うから」


そう言った寛子を見、寛子はきっと自分とは違うのだろうと香奈枝は感じていた。根拠はないが、言うなれば乙女の勘だ。


「なんか、寛子が言うとなかなか説得力あるよね。まー、ほどほどに頑張ってみるよ。…で、ホントのとこ、クルツ先生とは」

「お礼! お礼よ!」


寛子はそう言って香奈枝の言葉を阻む。これはあやしい、とまた乙女の直感が働いた。


「喜んでくれるといいねー」

「ま、まあね」


なんとなく顔が赤い寛子。もしかすると、寛子が明るくなったのはクルツ先生のおかげなのかもしれない、と香奈枝は思った。そうだといい。いや、きっとそうだ。


(となると、私もクルツ先生にお礼を…なーんてね)


明るくなった友人の顔を見、「ただのお礼よ」と言う彼女の言葉に、香奈枝は笑った。


(よかったね、寛子)









その日はバイトがあったので、いつも通りバイト先に向かい、特に問題なく仕事を終えた。恙無く日々が過ぎていくって何て素晴らしいのだろうと香奈枝は思った。

もうじき今月の給料日だし、バイト代が入ったら寛子と買い物に出掛けよう。この間見かけたニットワンピ、まだ残っているだろうか。考えるだけでワクワクした。日々が楽しい。今が一番楽しいと香奈枝は常日頃思っていた。


帰宅し、夕食を食べ、香奈枝はリビングで家族とテレビを見た後、自分の部屋に入った。


「なあ、おねえー」


と弟がドアをたたく音がして、香奈枝は怪訝な顔で応答する。


「なにー?」

「名前ペンとか持ってたりしねえ?」


最近大人びてきた中学生が「名前ペン」と言うのを聞き、香奈枝は内心で小さく笑った。ガキあつかいすんな、と何度か両親に言っていたのを聞いたことがあるが、その弟が「名前ペン」とは。別に「名前ペン」がどうこう言うわけではないが、なんだか可愛らしく思えた。


「あるよー」


と応え、引出しからペンを取り出して手渡した。


「どうもー」


弟は去っていった。


再び一人きりになり、何をしようかと香奈枝は思った。勉強をする気にはならなかった。暇ではあるが、勉強をするような暇は持ち合わせていないというのが香奈枝の持論だ。さて、というわけで雑誌でも読もうと決めたのだが、そういえば今日だっけ、と毎月買っている雑誌の発売日を思い出し、椅子から立ち上がった。勉強に対する行動力は皆無と言ってよいが、こと雑誌のためとなると彼女は俊敏になった。


「おかーさん、ちょっと買い出しいってくるー」


香奈枝はそう言うと、母親が遠くで「はーい、気をつけてねー」というのを聞きながら、財布だけを持って家を出た。辺りはすっかり暗くなっていたが、雑誌が置いてあるだろうコンビニまでそう遠くなかったので、別段気にしなかった。

世間では色々と問題が起こっているようだが、今まで一度も危険な目に会ったことがなかったので、香奈枝には危機感というものがほとんどなかった。しかし、それはただ、運が良かっただけなのだ。危険とは無縁の平和な世界に生まれ、そして生き続けてきた平凡な女子高校生の人生は、いつ訪れるか知れない危険や死の恐怖に怯える人生と表裏一体なのである。

今まではそれに気がつかなかっただけ。

そう、運の良いことに。


香奈枝はそのときまで


――誰かのうめき声と、何かが体に突き刺さるような音が聞こえるまで―


そのことに気がつかなかった。


「俺から逃げられるとでも思ったか?」


えらく艶のある、大人の男の声がした。

気を抜けば腰が抜けそうだった。本当にこんなふうに、腰にクる声を持った人っているんだ、という呑気な思考は、このときばかりは表れなかった。香奈枝は暗がりの中で真っ青になっていた。震える声で、もう一人の男が「やめてくれ」と泣いていた。酷く弱弱しい声で、明らかに苦痛の色が読み取れた。ズブズブと何かが何かに深く刺さっていく音が聞こえた。同時に響いたのは男の悲鳴。たまらず香奈枝は耳をふさいだ。これは夢だ。嫌な夢。そう思いこもうとした。


だが。


そのあとに響いた断末魔は、現実逃避を図ろうとする香奈枝の意識を無理やり呼び戻し、惨たらしい現実を彼女に突きつけた。


「豚は豚らしくしてろって言ったろ?」


艶のある声が笑いながらそう言った。もう、ひ弱な男の声は聞こえなくなっていた。香奈枝の両眼からはとめどなく涙があふれていた。口を押さえても嗚咽が漏れた。心臓が恐ろしいほど早く強く、鼓動している。持っていた財布をその場に落とした。拾おうと思ったが、体がなかなか言うことを聞いてくれない。しかしゆっくりと、震える手を財布に伸ばそうと腰を落とすことができた。だが、彼女は財布を掴むことはできなかった。それを掴んだのは。


「拾い主には一割、だったか?」


――ぬらりと赤い血を纏った手。


香奈枝は小さく悲鳴を上げた。彼女のそれより大きく、骨ばった手。長い爪からはポタポタと鮮血が滴り落ちていた。


「なあ、教えてくれねえか」


暗がりの中で、恐ろしいほど美しい笑みを浮かべた男が、香奈枝を見、更にその笑みを深くした。

香奈枝はこのときはっきりと、「死の恐怖」を感じていた。


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