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KURZVORTOD  作者: 貴遊あきら
第一章
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プロローグ

空が青いとぽつりと呟いた彼は窓の外を眺めるだけで、決して空なんて見ていないのだ、と私にはわかっていた。

テーブルに肘をつき、ぼんやりとした視線を外に向ける。外はきれいに晴れていた。

洗濯日和ね、と私は頭の片隅で考えていた。


目を伏せるたび、擦れる音がするんじゃないかと思うくらい、彼の睫毛は長かった。横顔が一番カッコいいと思えるくらいその鼻は高く、すっと鼻筋が通っていて、少し厚めの唇は固く閉ざされていた。いつもなら、僅かに口角を上げ、どこか憂いを含んだその緑の瞳に私の姿を映してくれるというのに、このときばかりは彼の瞳に映るのは空の青さと、雲の白。


切ない視線を彼の横顔に向ける。しかし、彼が私の視線に気がつく前に、彼を見つめようと集中する私の方が根負けしてしまった。横顔ばかりでなく、彼の灰色がかった金髪もとても綺麗だった。嫌味なくらい、だと思う。自分の茶色の髪を蔑む気はないけれど、いつだってその美しさへの羨望は捨てられなかった。


手を伸ばせば届く距離に彼は座っている。何しろ彼はテーブルを挟んで向かい側にいるのだから、その気になれば私は何時だって彼の視線をこちらに向けることができた。その引き締まった腕に人差し指で触れるだけで、彼はこちらを向くだろう。名前を呼べば神々しいほどの笑顔を向けてくれるはずだ。もしかしたら、私ならばほとんど気にも留めず何の称賛にも値しないと思う私の髪に、その骨ばった長い指を差し入れ、ひと房つかみ唇に当てて、思わず赤面してしまうほど甘い言葉を呟いてくれるかもしれない。


何度聞いても、それらの言葉は私の頬を赤くさせた。心臓の高鳴りも鬱陶しいくらいで、そんな私を見て彼がふわりと笑うのを思い出した。そう、きっと今、彼の注意を引こうと思えば、すぐにでもそうできる。

しかし、私はいつもこの時間、僅かに彼が私から注意をそらすこの時を、私はなくてはならないものとして扱っていた。


なくてはならないのだ、彼には。



彼の視線は大空に、しかしそれよりもっと向こう、どういうものか私にははっきりと断定して言えないけれども、遠くのものに向けられている。この時が、もうすぐ終わることを私は知っていた。外にはもう未練などないとでも言うように、彼はいつもある一定の時間が過ぎると、さっと視線をこちらに戻すのだった。


そして今日も、彼の日課が終わる。

予想通りふいと視線を窓の外から外した彼は、にっこりと笑って私を見た。


「気分はどう?」


そうだ。彼はいつも、おはようよりも何よりも先に、いつもこう尋ねてくる。「最悪」と答えるのが一番良いのだろうと時々思った。でも私は素直に「最高よ」と答える。この体に巣食うものが何であれ、それがどれほどの脅威であれ、私の気分はとても良かった。それに、例えどちらを答えても、彼の表情は変わらない。彼にはすべて分かっているから。彼は初めから、私の体調などをいちいち私に聞かなくても、手に取るように分かるのだから。


「最高なら申し分ないね」


「でも、もうすぐよ」私はすぐにそう付け足した。「もうすぐ」


そう言っても、彼の表情は変わらなかった。


「そう。すごく辛いよ」


こういうとき、酷いと思う。その優しい笑顔は残酷さを増し、穏やかな口調は冷たく感じられた。甘いセリフは心を刺す。それでも、その甘さは私にとってなくてはならないものだった。彼の言動が現実でなくても、外界から閉鎖されたこの小さな家では、私にとつて唯一の現実だったから。ときどき、もしも彼の顔に張り付いた、いや、彼の本当の表情を装っている精巧な仮面を砕くことができれば、私は彼を手に入れることができるだろうと思うことがあった。でも結局私自身よくわかっているのだ。私は、本当の彼など必要としていない。例え虚像でも、彼が私のそばにいて、そしていつでも笑みを絶やさず、不幸などこの世にはないのだと感じさせてくれる彼こそ、私という人間が必要とする彼だった。そして、私がずっとそういう態度でいることこそが、本性を見せることのない彼に対する唯一の復讐なのだ。


「クルツフォートード」


初めて聞いた時、なんて分かりやすい、なんて恐ろしい名前なのだと思った彼の名前。そして、やはり悲しいくらい彼に似合いの名前だとも思った。


「何?」

「呼んだだけ」

「嬉しいよ」

「あと何回呼べる?」


「知りたい?」


その問いに、私は首を振った。


「…あなたが知っているなら、それだけでいいわ」


「知ってるよ」


間髪入れずにそう答えられる彼を、私は残酷だとは思わない。要らない感傷を感じなくて済むからという理由だけではなかった。彼は、酷い言葉を紡ぐ時だけは、きっと本当の彼なのだろうから。


「私だけが、予期できない喜びを感じられるのよ」


だから私も、精一杯の酷い言葉を返した。そして同時にいつも思う。もしも、彼が私のそのときを知ることがなかったのならば、と。


しかし彼は知っている。

――つまり、私じゃなかったのだ。私じゃなかった、ただそれだけのこと。


「私、丘の上で眠りたいわ」

「わかった」

「簡単なのでいいの」

「うん」

「優しいのね」

「それが君の願だからね」


彼は立ち上がり、私の髪を撫でた後、そのままドアを開けて外に出て行った。そうか、もう用意をしないといけないのね。

バタンと音を立ててドアが閉まった後、私はようやく泣けた。






ある晴れた日、一人の男が丘の上に立っていた。木の板を十字に縛り付けただけの簡素な墓の前に立って、しかし彼の目線は空に向けられていた。


「君じゃなかったね」


彼はぽつりと言った。彼の灰色がかった金髪が、ゆるやかな風に吹かれて後ろに流れていた。


「そりゃそうだよね、僕はいつも、外に目を向けないと息苦しくて仕方がなかったんだから」


乾いた笑みが漏れる。


十年間。男はある小さな家にいた。彼はドアを開けて外に出て行こうとはしなかった。それがその家の主との約束で、優しい男を演じるのが条件だった。演じるということがすでにこの上なく残酷なことだと分かっていながらも、彼はそれを受け入れ、家の主が息を引き取るまで演じ続けた。


彼への報酬はその主の魂だった。彼の体はそれがないと生きていけないもので、しかし、人の魂はいつか尽きるものだった。彼が捜しているのは《永遠の魂》。彼が人生を測ることのできない存在。それを見つけるまで、彼は何度も魂を得るための交渉をし、自由を拘束されなければならない。許されるのは僅かな時間、自由の象徴である空を見ること。いつか手に入れる永遠の魂に思いを馳せるために。


次はどこへ行こうかと男は考えていた。彼は自らの魂が引き寄せられるままに世界を渡っていく。そうして、可能性を一つずつ当たっていくしかない。彼は瞼を閉じ、魂に問いかけた。次はどこへ行こう、と。


一筋の風が吹いた。簡素な作りの十字架に架けられた花輪が僅かに揺れた。


もう、丘には誰もいなかった。


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