第25話 光明、差す
凍雲は六道を軽蔑した。
悪魔に魂を売ってまで《死神》の権力にしがみつく、愚かで哀れな男だと嘲笑い、見下した。
おまけに巷では一部で、東雲六道の命は長くないのではないかという噂も飛び交う。
もしそれが事実であるなら。東雲探偵事務所もどうせそう長くはもたないだろう。いちいち目くじらを立てるほどのことでもない。
凍雲はそう割り切ってこれまで通り静観を貫くことにした。
東雲はいずれその役目を終え、消滅していく事務所なのだと。
ところが六道はあろうことか、《死神》の後継者を指名した。あれほど《死神》であることにこだわり続けた男が、突如としてその座を他の誰かに譲ると言い出したのだ。
それが本当ならとんでもない話だ。百歩譲って後継問題を認めるとしても、いったい誰を次の《死神》にするというのか。東雲探偵事務所にはもう碌な人材が残っていないのに。
今度は一体どんなゲテモノが飛び出すかと凍雲は戦々恐々になったが、その正体は何の変哲もないただの少年だった。
驚くほど凡庸で頼りなげな、ごく普通の子どもだった。
《中立地帯の死神》が何であるのかも知らず、騙されて強引に後釜に据えられたのだとしか思えない。
(……だが、あの少年のためなら己の信念を曲げられるのか。どんなに犠牲が出ても頑なに譲らなかった、《中立地帯の死神》としてのプライドも、雨宮深雪のためなら捨てられるのか)
このことを東雲時代の自分が知ったら、どう思うだろう。凍雲はそう考えずにはいられなかった。
あの頃の自分がもしこのことを知ったら、あり得ない、身勝手だと六道に激怒しただろうか。
それとも、何たる愚行かとより深く失望しただろうか。
或いは、自分が手に入れられなかったものを得た雨宮深雪に嫉妬したかもしれない。
だがいずれにせよ、今はもうそういった感情は全くと言っていいほど湧き上がってこなかった。胸中が複雑であるのは間違いないが、正直なところ六道に対する個人的なわだかまりはそれほど残ってない。
合同事業に関して凍雲が六道に反発していたのは、過去のいざこざを引き摺っていたからではなく、断りもなく凍雲の事務所を巻き込もうとしたからだ。
《死神》の名と合同事業の名目にかこつけて、凍雲たちが苦労して一から育てた部下に手を出そうとした、それがどうしても許せなかった。
だがその一方で、氷河武装警備事務所単独ではもはや《死刑執行人》事業が成り立たないことも理解していた。
《休戦協定》によって辛うじて保たれていた《監獄都市》内の均衡が崩れつつある。判断を誤れば、事務所の存続が危うくなることも十分に考えられるだろう。
その点で言えば、東雲六道や雨宮深雪の主張は正しいのかもしれない。
《死刑執行人》事務所がそれぞれ独自に戦略を立て、自社のことだけを考えて経営していれば良い時代は終わったのだ。それは凍雲も理解している。常に抗争鎮圧の最前線に立つ凍雲は、《監獄都市》の変化を誰より敏感に感じ取ってきた。《監獄都市》が大きな変化の分岐点に差し掛かっているのは厳然とした事実だ。
とはいえ、合同事業の発起人であるのが東雲六道という点がどうしても引っかかり、合同事業の参加に乗り切れない。
今思い返しても、東雲探偵事務所を辞める最後の一年は本当に酷かった。
実力のある《死刑執行人》が続々と抗争鎮圧などで命を落とし、残ったメンバーに負担が集中。余裕は既にどこにも無く、気力さえ尽き果てようとしている中、生き残った《死刑執行人》のことも顧みず《リスト執行》を断行する東雲六道の判断はもはや狂気の沙汰としか思えなかった。
あの時のトラウマじみた経験があるゆえに、今回の合同事業も他の事務所の《死刑執行人》もろとも犠牲にしようとしているのではないかと、どうしても疑ってしまうのだ。
ただ――その一方で、ひょっとしたら自分は少し過敏になっているのかもしれない、とも思う。過去の確執に縛られているせいで、自分は東雲探偵事務所のことを穿った目で見過ぎているのかもしれない、と。
凍雲にはこの件に関して冷静に判断を下せる自信はない。
だから雨宮深雪に賭けてみることにした。
合同事業が難航した理由の一つに、《スケアクロウ》という情報屋の存在がある。《スケアクロウ》は東雲探偵事務所に対して強い敵意を抱いており、明らかに合同事業を阻害しようと画策している。この情報屋の暗躍を阻止しなければ、常に何らかの形で横槍が入り続けるだろう。
もし雨宮深雪にこの件を収める実力があるなら、大人しく合同事業に参加する。しかし、《死神》の名を継ぐ立場でありながらその程度の手腕もないのであれば、合同事業への参加は見送りだ。
そう、全ては雨宮深雪の実力次第。
彼が《中立地帯の死神》のふさわしい力を持つか否か、それが全てを決するのだ。
自分が少々、他力本願に傾いているという自覚がないわけではない。だが、雨宮深雪が次期《中立地帯の死神》になるというのなら、どの道、その実力のほどは無視できないだろう。
だからこそ、その点を重視するのは当然のことだと言えた。どれだけ人柄が良くても、それだけでは《監獄都市》を守ることはできないのだから。
凍雲は東雲六道のやり方を認めているわけでもなければ、過去に彼から受けた仕打ちを許したわけでもない。
けれど、《中立地帯の死神》の存在がいかに重いものであるかは理解している。
東雲六道が《監獄都市》を守ってきたという事実も、悔しいが認めざるを得ない。
彼が《死刑執行人》制を生み出し、《休戦協定》を結んだからこそ《監獄都市》は今日まで存続することができた。《アラハバキ》と《レッド=ドラゴン》の抗争が収まり、曲がりなりにも街に平穏が訪れたからこそ、救われた命もたくさんある。それはまごう事なき事実なのだ。
どれだけそのやり方が間違っていたとしても、結果は結果として受け入れねばなるまい。
それに東雲六道は《死神》という存在のために、他者のみならず己の命や人生までも犠牲にしている。その一貫性のみは凍雲も唯一、評価している。
雨宮深雪には果たしてそこまで背負う覚悟があるのだろうか。
いずれにせよ、一つだけはっきりしているのは、凍雲にとって最も重要なのは自分の事務所と部下を守るという事だ。
凍雲はこれまでも自分を慕ってくれる部下たちのことを第一に考え判断し、行動してきた。
それが凍雲にとっての信念だからだ。
所長として事務所と従業員を守るのが全てに勝る最優先事項。それに比べれば秩序や治安は後回しだとさえ考えている。何故なら、氷河武装警備事務所を失えば、どのみち《監獄都市》を守るなどとは言っていられなくなるのだから。
理想はそれに共感し、支えてくれる仲間があってこそだ。
実現できない理想は夢想でしかなく、他者をいたずらに苦しめる理想はもはや危険思想でしかない。
そのため、合同事業がどれだけ理に適っていて正しかろうと、実力のない事務所と組むつもりは毛頭なかった。
そう――氷河凍雲は何があろうと、己の信念を貫き通す。
東雲六道が東雲六道の信念を貫き通しているように。
本当は別に《中立地帯》の混乱を激化させたいわけでもなければ、合同事業の足を引っ張りたいわけでもない。
氷河凍雲は自分と事務所を支えてくれる大切な仲間を守りたい、ただそれだけなのだ。
✜✜✜
氷河武装警備事務所を後にした深雪は大きな達成感を抱きつつ、街中を歩いていた。
これから他の事務所の《死刑執行人》たちと共に《中立地帯》の復興作業に当たる予定になっている。
重機の数が十分ではないため、瓦礫の撤去を手作業で行わなくてはならない。他にも遺体の埋葬や炊き出しの手伝いなど、やらなければならないことは山積みになっており、重労働を強いられる過酷な日々。
深雪も他の《死刑執行人》たちも肉体を酷使し続けており、すっかり疲労困憊だ。
それでも深雪の心のうちは明るかった。
何と言っても、これまで絶望的だった氷河武装警備事務所の協力を得られる可能性が出てきたのだ。嬉しくないはずがなかった。
そのせいか、自ずと足取りも軽くなる。
興奮を隠せない深雪の様子を察してか、影に潜んでいたエニグマが声をかけてきた。
「ふふふ、今日の雨宮さんは随分と気分が良さそうですねえ。氷河凍雲との面会はそれほど有意義でしたか?」
「ああ。これまでの経緯を考えても、氷河所長にはもっと冷遇されると思っていたから。何があろうと東雲探偵事務所と組むつもりはない、とっとと帰れって。……でも、提示された条件さえクリアすることができたら、合同事業に参加するという確約を取り付けることができた。氷河武装警備事務所との関係が冷え切っていたことを考えると、大きな前進だよ!」
「うまくいくと良いのですがねえ。もし氷河武装警備事務所の所長が折れたとしても、彼の部下が納得するとは限りませんし。何せ人間は感情の生き物ですから。いくら頭でどれが最善の選択肢か分かっていても、それを選べないという状況は多々あることです」
「そうだな。でも、諦めなければ可能性はいくらでもあるよ。《ヴァルキリー》や《アイアンガード》とだって、最初からうまくいっていたわけじゃなかった。でも、ともに様々な困難を乗り越えることで、不信感はかなり払拭されたと思うし、今ではしっかり連携が取れつつある。同じことを氷河の《死刑執行人》にもするだけだよ」
六道と激しく対立しているのを目にしていたこともあり、正直に言って深雪の氷河凍雲に対する印象はあまり良くなかった。
東雲探偵事務所とその所長である六道を貶めるためなら手段を択ばない卑怯な人物だと激しく憤ったこともある。
しかし今回、改めてじっくり話してみて、深雪の氷河凍雲に対するイメージは大きく変化した。
氷河凍雲は決して軽薄なだけの人物ではない。
《死刑執行人》事務所を率いるに足る冷静さと判断力を併せ持ち、責任感も強い。彼と氷河武装警備事務所が合同事業に協力してくれたら、さぞや心強いに違いない。
五大《死刑執行人》事務所による合同事業を実現させるためにも、深雪は全力をかけ自分にできることを果たさなければ。
するとエニグマは、何故か妙に楽しそうに言った。
「なるほど……非常に雨宮さんらしい考え方ですね。楽天的でお人好しの極み! 特にこの《監獄都市》では滅多にない、稀有な才能と言っていいでしょう!」
「ええと……それは褒めてるんだよな……?」
「もちろんですとも!! 私も微力ながら、お役に立てるよう全力を尽くします!」
「ああ。いつもありがとう、エニグマ」
エニグマの言葉は、褒めているのやら貶しているのやらさっぱり分からなかったが、彼に悪気が無いのは深雪もよく理解していた。
何よりエニグマは深雪をよく支えてくれている。それだけで十分だ。
(ともかく、氷河武装警備事務所は氷河所長からの信頼を得るためにも、絶対に《スケアクロウ》を捕まえなければ……!)
いつか《スケアクロウ》とは決着を着けねばならないだろう。
とはいえ、日々の業務も手を抜くわけにはいかない。
災害級の大規模抗争が起こってからというものの、《死刑執行人》に求められる役割は多方面にわたって激増しているからだ。
これから向かう予定の《中立地帯》の復興作業は、依然として遅々として進まない状況が続いている。
けれど最近、ある大きな変化があった。
《死刑執行人》ではない《中立地帯》の一般ゴーストたちが復興作業に加わり始めたのだ。
もともと《中立地帯》のゴーストは社会のためとか世の中のためという意識が非常に希薄だった。仲間意識が強いため自らの所属するチームは大事にするが、その他全体のことに関してはほぼ無関心だと言っていい。
そんなだから当然、社会貢献といった概念や利他的な思考もほとんど持ち合わせていなかった。
それも仕方のないことかもしれない。
《監獄都市》は生きていくのだけで大変な労力を必要とする街だ。そんな過酷な環境の中で、世のため人のためなどと悠長なことを言っていられないのはある意味当然のことだろう。
そのため、《中立地帯》のゴーストたちは当初、復興作業にも全くの無関心だった。
彼らは《死刑執行人》がせっせと働いているのを遠くから眺めているだけ。深雪たちもそういった状況には慣れているので、敢えて彼らに協力を求めたりはしなかった。
他のゴーストたちといざこざを起こしている暇があったら、できるだけ早く街を元通りにしたい。それが本音だったということもある。
こういった迅速な対応が求められる緊急時は、不協和音を生じる人員は足手まといでしかない。
だが、《中立地帯》のゴーストたちも今回ばかりは無関心を貫くわけにはいかなかったようだ。
どんなに待てども助けは来ない。
《死刑執行人》だけに復興作業を押し付けていたのでは、いつまで経っても元の生活に戻れない。
そのことを悟り、自ら動くしかないと気付いたのだろう。
そして皆で力を合わせるしかないと。
たとえば、肉体強化のアニムスを持つ者は、重機でしか動かせないような重い瓦礫を軽々と運ぶことができるし、炎系のアニムスを持つ者は大量に出たゴミを焼却処分することができる。アニムスがあれば、大掛かりな機器や施設を必要とする深刻な問題を一瞬にして解決することができるのだ。
今では、《中立地帯》のゴーストと《死刑執行人》が一緒になって復興作業に当たっている。
これはそれまでの《中立地帯》の常識を考えるとあり得ない光景だった。片や狩る者であり、片や狩られる者。兎と虎が共に手を取り合って働くなどあり得ない。《死刑執行人》と《中立地帯》のゴーストはそれほど相容れない存在だったからだ。
特に最近まで巷を席巻していた《Zアノン》陰謀論のせいで、《中立地帯》のゴーストは《死刑執行人》をひどく憎むようになっていた。
彼らがどれほど《死刑執行人》に罵詈雑言を浴びせ、反発してきたか。それを考えると、なおさら両者の間には埋めようのないほどの深い深い溝が横たわっていた――はずだった。
しかし今は、誰もそんな陰謀論など口にしない。
《死刑執行人》と一般ゴースト、ともに並んで体を動かし汗をかいている。
不平不満を零すこともなく、ごく自然なことみたいにみなで協力し合っているのだ。
深雪はそれが嬉しかった。
数多の困難に見舞われ、街は崩壊しかかった。今も、復興は進んでいない。
だが、そんな中でも、前進していることや好転していることは確かにある。その様を目の当たりにすると、苦しい状況下でも希望の光が見えてくるのだった。
《スケアクロウ》を捕らえ、氷河武装警備事務所と連携し合うことも、決して夢ではないと、そう思えてくる。
ところが復興現場に向かうその途中、深雪は見覚えのある若者と遭遇した。
それは《コキュートス》というチームの頭、各務七飛だった。
しかし、各務の様子はどうにもおかしい。いつもは何人かの仲間と固まって用心深く行動しているのに、今日はたった一人だ。
おまけにフラフラしていて、足元も覚束ない。目つきもぼんやりとしていてひどく虚ろ。
彼が右手に酒瓶を握っているのを見て、深雪はようやく気付いた。
各務はすっかり酔っぱらっていたのだ。




